08
それからは、淡々と日常を過ごしながら、領主夫人や商会の仕事を人に任せるようにしていった。今までは自ら矢面に立つことも多かったが、何かあったのかと勘繰られないように少しずつ引いていった。
私はやがてこの地を出て行く。
私が存在しなくても、領民や商会が困らないようにしておきたかった。
商会は、私に何かあったら今の副会長が会長に任命されるよう手筈を整えてある。これは不測の事態に備えた当初からの約束ごとだ。このままエクルンド領に本拠地を置いておくように言い含めてあるが、状況によってはこの地から撤退するかもしれない。それでも領の財政は好調だから、領民の暮らしには影響は少ないだろう。
誰がなんと言おうとも、私にはイクセルの不在を守ってきたという自負がある。子はなせなかったが、領地や商会が大切に大切に育んできた我が子のようなものなのかもしれない。
たとえ離れることになっても、ずっと幸せであれと願わせてほしい。
二人で旅行に行くくらいなのだから、そう遠くない日にイクセルから離縁の話が来るものと予想していた。
しかし、あれからもイクセルからの手紙には、引退できずに帰郷できないことを詫びる言葉、領地を守っている私を気遣う言葉、そして愛の言葉があり、離縁の気配さえない。
その言葉の奥に違う思いがあることを知ってしまった今では、イクセルからの手紙に喜びも湧かない。以前ならば何度も何度もボロボロになるまで読み返して、抱きしめて眠るほどだったのに。
そして私は知らないので、自分から離縁について触れられずにいた。
あの後、町から屋敷に帰ると、家令が辞表を出してきた。
家令は前線でのイクセルの話を把握したとき、当主の意向を確認すべく直接イクセルに手紙で尋ねたそうだ。正確な情報がなければ主人を支えられず、また、諫めることもできないからだ。
イクセルからは噂を真っ向から否定する返事が届き、家令は外野がなんと噂しようが子爵夫妻の仲は盤石であると認識し、踏み潰せる火は踏み潰していきながら、妻が堂々としていることこそが一番の対処法であると判断したのだ。
だからこそ、イクセルが帰郷しないことに悄気ていた私に、訪問を提案した。
蓋を開けてみれば、噂を否定していたイクセルはシャルロッテと共に休暇で不在。
早馬で事情を知った家令は、私に訪問を提案した責任を取ると、頭を下げてきた。
家令のどこになんの責があるというのか。
有能な生き字引の家令に去られると子爵家は大打撃である。辞意を固め、頑なになってしまった家令を引き留めるのに本当に骨が折れた。
最後は、私がこの家にいる間はと、泣き落とした。
少しずつ身辺を整理していく中、イクセルから届く手紙に返事を書かないわけにもいかず、筆を取るが進まない。
本当は、私も噂を聞いた当初、イクセルに問い質す手紙を送ろうとした。
真相はどうあれ、周囲に誤解を与えるような距離を妻以外の女性と取るべきではないと、妻が夫に釘を刺さねばならないからだ。
けれども、その『真相』についてイクセルから返事が来ることに、私は怯んでしまった。
事実無根だと返事が来ても、一度芽生えた疑いの芽は育ってしまいそうだし、噂どおりだと返事が来てしまえば、終わりが来る。
一夫一婦制のこの国においても愛人を囲う人は割と存在する。裕福な貴族に多いのも事実だ。だが、それはあくまで隠された裏の話であって、ここまで噂になった女性を表立って愛人にすることはできない。
つまりは、噂が事実であれば、イクセルは私と離縁してシャルロッテと再婚するしか道は残されていないのだ。
聞いてしまえば返事が来てしまう。
私はイクセルに問い質すことができなかった。
でも、それで良かったとも思う。
もしも手紙でシャルロッテとのことを尋ねても、家令と同じ内容の返事が来ただろう。
噂を否定しておきながら、会いに行ったら二人で旅行に行っていたなんて知ったら、頭の血管が切れていたかもしれない。
噂が事実無根であれば、イクセルに会って目を合わせながら話せば、疑いなど吹っ飛ぶという思いもあったし、手紙を出せなかったことはそこまで重要なことでもない。
懸念事項は、イクセルからの手紙になんと返すのか、に尽きる。
なんでこんなに手紙での態度が変わらないのだろうか。噂を知らなければ、愛する妻に宛てた手紙に他ならない。
ここでひとつの可能性に気付いてしまった。
もしかして、イクセルは自分の気持ちを自覚していないのではないだろうか。
浮わついた心を無意識に自分で封じ込めてしまい、無自覚に漏れ出たシャルロッテへの感情を周囲に気取られて噂になったのではないだろうか。
真面目で誠実、少しうっかりなところがあるイクセルならありえそうである。
気付いた可能性が事実っぽいな……とため息を吐いて、気が重いけれど筆を取った。
今更シャルロッテについて言及することはしない。手紙は今までの内容と違い、領地経営の報告に終始した。今まで領地の報告は家令から行っていたが、夫へ愛を告げて無事を祈り、子を望む言葉や早く帰ってきてほしいことを書かないとなると、便せんが一枚も埋まらなかったのだ。
申し訳ないが家令の役目を奪って便せんを埋めた後、添えるようにイクセルの無事を、それだけを祈った。
こちらの心情を察して欲しいとも思うが、私からの手紙の変化に気付いているのかいないのか、今のところイクセルからの手紙には、いつも私への愛が綴られている。