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「それではあんまりです!! 先生!! どうか奥様を……奥様を……」
この地に来て十五年、ずっと私についてくれている侍女が医者に縋り付くが、医者は目を閉じて首を横に振るだけだった。
きっと一人で聞いていたら同じように縋っていただろう。
恐怖も混乱も、自分以上に取り乱している人がいると却って落ち着くというのは本当のことだな。
私は背筋を伸ばし、家令に告げた。
「旦那様には私から離縁を願う手紙を送ります。……領地のことは少しずつ準備してきたから、引き継ぎももうそんなに必要ないわよね?」
「奥様が引き継いでくださった皆もおりますゆえ、領地のことはご心配に及びません。……病気のことを旦那様には」
「もちろん伝えます。全部ではないけれどね。先生、私の身体はいつまで動きますか? いつまで元気に見えますか?」
「おそらく……そう時間はありません。食事が摂れなくなると、あっという間に全身が弱って起き上がれなくなってしまいます。逆に言えば、食事をできるだけ摂り、毎日少しでも身体を動かすことが重要になってくるかと」
「そうですか。旦那様が離縁に向けてどう動くかがはっきりと読めません。すぐさま離縁となれば出て行けばよいだけですが、何かの話し合いが長引く場合は、身体が動く限り領地の視察を優先します。できるだけ皆のところに顔を出したいわ。あとは、一回お父様やお兄様たちのお顔を見ておきたいわね。それとお母様の墓前にも」
残された時間でやることを話していくと、不思議と肩の力が抜けていった。
「……死んだらこの意識はどうなってしまうのかと恐ろしく思っていたけど、いざ目の前に迫ると、亡くなったお母様がいるところに行くのだと思ったら……そんなに悪くないわね」
それに、こんなに穏やかに受け入れられるのは、この領地を立て直すためにひたすら闘ってきたからかもしれない。
陛下や父に丸投げされての結婚だったけど、イクセルと共に手を取り合って領地のために同じ方向を向いて、家令や侍女や文官たちや領民たちと一緒に、ひたすら走り抜けた。
たとえイクセルの手が私から離れても、皆がいる。
私は、独りではない。
私は、精一杯生きた。
それが私の生きた証。
私の穏やかな顔を見て、侍女が立ち上がり、身なりを整えて礼をした。
「失礼いたしました。……最期まで、お側に」
覚悟、とまでは言えなくても、受け入れて進む私を見て侍女が立ち直ってくれた。次に私が言うことも予想ができているようだ。
家令も背筋を伸ばして私の言葉を待つ。二人ともさすがよね。
「……離縁するのが長引き、身体が動かなくなってきたら、足をケガして屋敷に引き籠ることにします。面会は事情を知る者のみで。屋敷内で働く者たちにもそのように徹底してちょうだい」
家令と侍女が頷く。この二人に任せておけば屋敷内のことは心配いらない。
「死因は、そうね……ケガをした足からバイ菌が入ってあっという間……か、踏ん張りがきかずに階段やバルコニーから落ちて……か。そのあたりは状況で任せるわ。先生もよろしくお願いいたしますね?」
「おまかせ……ください」
私の意図に気付いた先生が、力なく頷いてくれた。本来であれば職責においての虚偽は許されないだろうが、バカ正直に本当のことを言えば誰もが不幸になるならば、医者は茶番に巻き込まれてくれるだろう。それが事件性の無い自然死であれば尚更である。
「顔に吹き出物や傷があるとでも言って、棺桶は閉じた状態で葬儀を。埋葬も速やかに。けして旦那様を間に合わせてはなりません。私は急死するのです」
病で亡くなる時は、どんな人でも窶れが顔に出てしまうだろうから、人の目に触れずに埋葬してほしい。そうしないと、治す力を持つ夫がいるのに、その夫は若い女性と共にいて、妻を一度も見舞うことすらせずに死なせたと言われかねない。それでは外聞が悪すぎる。その力が私利私欲に使えないことを知っていてもなお、人はイクセルを『薄情』だと指さすだろうし、ましてや、すぐ後に迎え入れる女性がいたことは、どんなに隠していても再婚した時点で知れ渡る。「いつから?」「ああやっぱり」と。
イクセルへの評価が下がることは、領地への信頼度の低下に直結する。それだけは避けたい。
「身体が動くうちに離縁できれば、私のその後がどうであっても領地に影響は少ないでしょう。傷心で旅に出るとでも言えば誰も何も言わないでしょうし。……最期は先生のところでお世話になっても?」
「もちろんです。もちろんです……奥様」
「私、草花の匂いと風を感じるお部屋がいいわ。使うかは分からないけれど、領地外れの分院を今から整えさせてもらっても良いかしら。すぐに離縁できたら、身体が動くうちは領地を回って、実家にも帰って、少し旅をしてから分院に併設されている孤児院で働くのもいいわね。子どもと接するのが好きなのよ」
子どもは未来そのものの命。
子どもたちが笑っていられる土地であることが信条であり、誇りでもあった。
医者が膝を突いて泣き伏した。
医者なんて人の生き死に慣れているでしょうに。そんなに泣かないでくださいましよ。
「さあ、方針は決まったわ。秘密は墓まで持って行ってちょうだい。口止め料は弾むわよ。お金はあちらには持っていけないものね。どうぞ最期までよろしく、ね」
家令が俯いて顔を覆いながら「御意に」と言った。
侍女はすでにボロボロ。
私以外皆泣いていて、なんだか泣きそびれてしまったわ。
今まで散々泣いたから、まあいいか。