(1)テコンドー選手でしたが、死んだと思ったら異世界転生していました
閃光。
しかし雷鳴はない。
代わりに顔面を熱い線が走る。
血潮。
眼前でぶしゃりと吹き出し、視界を赤く染め上げる。
その時になってようやくわかる。
顔を斬られた!
身体的直観。
信じがたいほどの激痛。
天命のような『解答』が、私の脳内をつんざく。
あ、これ、私、異世界に転生してるわ。
そして世界は闇に落ちる。
ブラックアウト。
私は意識を失う。
*
この状況でいうところの『前世』にて、私は日本の大学生だった。
そしてテコンドーの選手だった。
私には兄が二人いた。
二人とも格闘技をしていた。
だから私が、武道を始めるのはごく自然の流れだった。
様々な選択肢がある中でテコンドーを選んだのは、単純に頭上高く蹴り上げる足技がカッコよかったからだった。
この選択は幸いにもあっていた。
カッスカスのスポンジが水をよく吸い込むように、私はグングンを技を会得していった。
前蹴り。
回転蹴り。
飛び後ろ回し蹴り。
大学はテコンドーで推薦入学した。
オリンピック日本代表も十分射程圏内だった。
順風満帆な、私の人生。
これが、ある時を境に転落する。
練習中、少しの油断から怪我をした。
右足の前十字靭帯断絶。
もちろんこれは、手術をすれば治るものだった。
しっかりリハビリをすれば、元通り動けるようにある可能性もあった。
しかし、元に戻るまでの時間がーーその時の私にとってはーー長すぎた。
結果、私は部活を辞めた。
大学自体も辞めてしまった。
これまでテコンドーばかりやってきた分、これから先何をすればいいか正直わからなかった。
家族は私に優しかった。大いに励ましてもくれた。
だけど簡単に転んでしまった人生に、私はひどく憤怒しては絶望した。
まるで自由に動かない体は、虚無感に苛まれていた。
その日はひどく蒸し蒸し暑かった。
陽が落ちても一向に涼しくなる気配がなかった。
炭酸水が飲みたくなったが、家族のいるリビングに行くのは気が向かなかった。
私はこっそり家を抜け出すと、近くのコンビニへと足を運んだ。
少し歩くだけでも、「もう前とは違う」と思った。
全てが揺らめき、ぼやけていた。
それは暑さのせいでもあり、私の頭も霞みががってもいた。
私は多分、道路を渡っていた。
パパーッ!とけたたましいクラクション音が響く。
瞬間、凄まじい衝撃が左半身に激突した。
激痛。骨という骨が折れる。
意識が遠のく。
というか、飛び出す。体から……体から?!
意識は『どこか』へと引き寄せられていく。
世界は闇に落ちる。
ブラックアウト。
*
目を覚ますと、見慣れない天井が見えた。
いや、よく見ると木製らしき天井の向こう、さらに天井がある。
なんだ、これ……?
私は反射的に頭を動かす。
するとズキリと、鋭い痛みが顔に走る。
しかも額から顎付近まで、顔全体が激痛と熱を発している。
なんだこれ、なんだこれ!と私は軽くパニックに陥るが、そういえば……と記憶の断片がはらはらと落ちるこの葉のように、頭の中へと降ってくる。
そういえば……顔を斬られたような気がする。
さらにもう一枚。
そういえば……その前には、トラックに轢かれたような気がする。
さらに……いや?
いやいやいや、いや、いや待て。
異世界に転生、だと?
天命のような直観。
あの時、何者かに顔を斬られた時、そう感じた。
諸々の推察推考推論をすっ飛ばして、突然私は目の前の『答え』と正面衝突した。
私は前世でトラックに轢かれて即死、全く違う世界へと転生した!!
いやッ!と私は首を振る。
激痛。
顔に怪我の存在を忘れていた。
しかし痛みで涙目になりながらも、私にとってはまずこの状況把握の方が先決だった。
転生した!!!
いや待て。
一旦落ち着け、落ち着くぞ。
仮に……仮にだ。
私が生きていた世界とは、別の世界があるとして。
私はそこに、前世から転生してきたのだとして。
この世界でに記憶が、私の中に一切ない。
前世の記憶はある。
テコンドーや家族のこと、思い出したくない怪我や最期の事故までバッチリ。
しかしこの世界のことは何も知らない。
私は……生まれたばかりの赤ん坊なのか?
いや違う。
多分私は今、いきなり成人女性の体をしていないだろうか……?
私は右手を目の前にかざして、閉じたり開いたりをしてみる。
掌にタコがある。私の手じゃない。
謎に二重ある天井と同様、見慣れない手だ。
ただ大人の手であることは、わかる。
普通さ、と私は思う。
普通……転生に普通パターンがあるかはさておき、普通、前世から転生した記憶って、もっと子供の時に出てくるモンじゃあないのか?!
「お嬢様が目を覚まされた!!」
甲高い音が右耳の鼓膜を震わせる。
イーッ!と歯を食いしばり、私はこの音の方向へと顔を向ける。
そこには、血相を変えた女性が両手で口を押さえている。
「アリアお嬢様が……目を覚まされた!!」
指の間をもすり抜ける大声で、彼女は繰り返した。
自分に夢中で気がつかなかったけれど、どうやらすぐ側にいたらしい。
彼女は黒いワンピースに、白いほっかむりを被っている。
目は充血していて、目端にためた涙がじわじわと大きくなっていく。
「お、奥様に知らせなくては……!」
黒衣の女性は座っていた椅子を突き飛ばすように立ちがった。
ガタリと椅子が床に倒れる。
しかし彼女は気に求めず、バタバタと走って部屋から出ていってしまった。
勢いよく解放された部屋のドアが開きっぱなしになっている。
その内開きで木製のドアの向こう側に、廊下らしき通路の壁が見える。
壁紙や装飾が、明らかに日本のものではない。
いわゆる松濤のお屋敷にはあるのかもしれないが……。
とりあえず……起き上がってみるか………。
どうやら私は、自分の体よりも数倍大きなベッドの上で、仰向けになっているようだった。
ひとまず、上半身を起こしてみる。
痛いです。
顔だけでなく、体も打撲しているのかじんわり痛い。
しかし新たな視界は手に入れる。
部屋。広い。
一体何畳くらいあるんだ……?
少なくともこのデカいベッドが、いくつも入る程度には広かった。
そしてやはり、部屋の調度品は確実に日本風ではない。
思いっきり西洋の雰囲気だ。
かといってホテルのような、ある種簡素化された作りでもない。
調度品の全ては装飾豊かで、部屋全体にはそこか古めかしいような印象を受ける。
少なくとも、交通事故患者が連れ込まれる場所ではない。
夢?天国?地獄……は嫌だけど、でもそのどれでもない。
何故ならば私の体は痛い。生きている。
マジのガチで、転生、している……?!
本当に右も左もわからなくて、私はベッドの上で呆然とする。
も、新世界への好奇心がわずかに上回った。
何にせよ、動いてみなければ何もわからない。
右は右で、左は左だ。
そうして、私はこのデカいベッドから降りようと、右足を動かした。
その時、全身の血の気がサッと引いた。
背筋が震え、皮膚が泡立つ。
「違和感が……ない……?」
それだけでは押さえきれず、私は声を出して叫ぶ。
「足の違和感がない!!」
目玉が回転する。
天地が逆転する。
私は急いてベッドから降りる。
両素足で地面を踏み締める。
グッと反動をつけてから、その場で数回垂直跳びをする。
「違和感がない!!!!骨もずれない!!!」
思わず、笑みが溢れた。
この世界のことはわからんが、前世のことは覚えている。
前世の私は、少し歩くだけでも、足に違和感があったことを覚えている。
今の私にはそれが、ない。
血流が流れて脳が沸騰する。
ボケていた意識が完全に覚醒して、震える両手を握りしめる。
もう、確かめずにはいられなかった。
その勢いで私は足を持ち上げた。
が、着せられていたワンピースのような寝巻きが、引っかかってしまった。
「ハハハッ!邪魔だ、邪魔だ!」
私はゲラゲラ笑いながら、裾を掴んで服を脱ぎ、その辺に放った。
パサリ、と床に落ちた哀れなワンピース。
どうやらそれは、唯一の装備だったようだ。
私は今、ほぼ裸だった。
どうでもいい。
そんなことより。
私は軽くステップを踏んでから、テコンドーの足技を繰り出した。
まず前蹴り、前回し蹴り。
それから横蹴り、横回し蹴り。
後ろ蹴り、後回し蹴り。
そして地面を踏み切って、飛び後ろ回し蹴り。
スゲーーーーーッッッ!!!!
「できる!全部!!できる!!」
もちろん、『これ』は慣れ親しんだ元の体とは違う。
なので多少感覚が違うところもある。
が、思ったより、いや思った以上に、この体は動く!!
筋肉はしなやかで、鍛えられている!
動ける!思ったように!!自由に!!!!
まさに僥倖。
興奮が、全身を巡る。
「ようし、今度は……」
と私がまた足を振り上げた時、ドダッ!扉がある側で鈍い音がした。
「お、奥様…!!!」
扉の近くには女性が数名群がっていた。
そのほとんどは黒衣の女性であったが、一人だけ繊細な装飾のついた紺色のドレスを纏った、細身で妙齢の女性がいたーーーー彼女が床に倒れ込んでいた。
卒倒したようである。
『奥様』と呼ばれたその人は、慌てふためいた黒衣の女性たちに囲まれている。
女性たちは慌てて『奥様』を抱き起こしたり、走ってその場から離れたりと、その場はにわかに騒然とし始めた。
私はーーーーどう反応すべきかわからなかった。
高く持ち上げた足も、宙に浮いたまま、降ろし時を失っていた。
すると、群がる女衆の中から
「あー、アリアお嬢様」
と、黒衣の女性が一人がぐいと前に出てきた。
「よいお目覚めのようで……何よりです」
彼女は他の女性たちと比べると一際大きかった。
肩幅ががっしりとしている。筋肉質だ。
おそらく中年くらいだが、短く切り揃えられた髪と少し日焼けした肌が若々しい。
彼女は顔を引き攣らせながら言った。
「しかしまずお召し物を。いくら女所帯とは言え、その格好は度がすぎます」
さっと興奮が引いていく。
思えば私は、全裸で、しかも大股開いてハイキックをしている。
一見すれば、ただの変態なのだった。
「何よりも、そのままではお体が冷えてしまうでしょう」
私は素直に足を下ろした。
彼女の声に、にわかに心配の色が滲んでいたからだった。
そして床に落ちたワンピースを拾うと、首と袖に通して、変態から脱した。
その屈強そうな女性は、安堵したかのように微笑んだ。
「あなたは三日三晩、ずっと眠っておられたのですよ。それがお目覚めになったと聞いて飛んできたというのに……誠、至極ご健康のようですね」
「あはは……すいません」
私も笑っておく。
「少なくとも今は、御控えください。アリアお嬢様、何処か痛むところなどありますか?人づてに聞いたまでにですが、御前試合、大変な接戦だったそうで」
ゴゼンシアイ。
とは、なんだろう。
『シアイ』という音感から、自然と『試合』という言葉が浮かぶ。
試合。
もしかして……『顔を斬られた時』のこと、だろうか?
そうか、あれは……なにかの試合だったの、か?
顔を斬られるなんてどんな試合だ、とも思うが、経験上、流血沙汰になる試合もないことはない。
……とはいえ、私はその『試合』とやらで、顔を斬られたことしか覚えていない。
というか私には、この異世界での記憶がそれしかない。
ここは、どこで。
君たちは、誰で。
私は……『アリアお嬢様』……?
一体、何者なんだ?!
……顔がムズムズする。
私の手は無意識の内に顔へと伸び、ムズつきの元凶に触れる。
ツルツルとした布のようなものを指先に感じ、ついでに痛みが走る。
私は思わず「いたっ」と漏らしてしまう。
すると、屈強な女性は顔を般若に変え、
「やはり!!その顔の傷ッッッ!!」
と怒号を飛ばした。
「あのタウンシェンド家の小倅め!わざわざアリア様のお顔に傷をッッッ!!」
彼女は拳をブルブルと震わせ、目を血走らせる。
「ま、まあまあ、まあ……」
その怒りが私にはよくわからなかったが、彼女を宥めるように言った。
「痛いっちゃ痛いけど、それだけで……あのホント、他のところは大丈夫です」
「それは大変、それは大変安心なのですが、しかし……」
彼女は何かを言いかけて、一度口を噤んだ。
が、たまらなくなったのかその場から飛び出すと、私の前に跪いた。
そしてうながれたように頭を下げた。
「お顔に……傷が残っては……!」
確かに。
これほど、ちょっと触るだけでも激痛と、かなり傷はかなり深いのかもしれない。
傷痕も、残ってしまうのかもしれない。
私はまるで他人事ように、そう私は思った。
いや、実際他人なのだが、今はもう自分事……なのだろうか?
顔に傷、ねえ……。
とイメージを逡巡させていると、女性が私の手を強く握った。
「幼き日のアリア様に懇願され、これまでの十数年、私は『騎士として』の訓練を施してまいりました。そしてアリア様の目覚ましい成長を間近で見守ることができ、立派な近衛騎士になられた際には、溢れんばかりの誇らしさで胸が痛いほどでした」
彼女の声は微かにうわずり、硬い皮膚の手がふるふると震え始める。
「しかし……このような結果になってしまうとは……これほどまでに、これほどまでに!かつての判断を後悔するとは……」
「ま、待ってください!!」
私は思わず、割って入った。
もちろん私に、そんな記憶はない。
何も知らない。
だとしても、黙ってみていることはできなかった。
「顔の傷?そんなもの、綺麗さっぱり治ってしまうかもしれないですよ。たとえもし!跡が残ったとしても……正面からの傷なんて、かっこいいじゃあないですかッ!」
私は腰を下ろして、俯く彼女に視線を合わせた。
私は何も知らない。
それでも知らないなりに、なんとしてでも彼女の震えを止めたかった。
「あなたに教えてもらったこと、『私』は後悔などしていないでしょう」
私は思いついた端から、言葉をどんどん口にしていく。
「むしろ感謝したいくらいです。こんなに素晴らしい、動ける体はそうそうないですよ!ここまで持ってくるのに、これを保つのに、どれだけご尽力いただいたことか!少なくとも私は、これ以上にない賜り物です!」
女性は顔を上げた。
「それは…」
そして目を細め、涙を一筋、頬に流した。
「それはアリア様ご自身の、努力の賜物ですよ……」
きっと、そうでもあるのだろう。
それはついさっき全裸キックをかました私自身、身をもって知っている。
「失礼しました」
女性は指先で涙を拭うと、その場に立ち上がった。
「本当に……アリア様からは何度も、そう言われているのに、時々どっと後悔が押し寄せてきてしまうことがあるのです……」
私も立ち上がり、彼女を見上げる。
そう彼女は、私よりも背が高いのだ。
そんな大柄で屈強な女性が、肩を縮こませ、私に対して酷く申し訳なさそうにしている。
「忘れてください。それがアリア様自身のご決断を傷つけるものだとしたら」
いや、そこまでは思っていない。
……というか、なぜこの女性や、他の黒衣の女性たちは、私に対してこうも仰々しいのだろうか……?
これが異世界の文化なのか……?!
無数の意味不明攻撃が私を急襲する。
私の脳は、最早オーバーヒート状態である。
この世界どころか、私自身に関することが全くわからない。
とっかかりさえ、ない。
息が少し、速くなり始める。
視界が狭い。
私は再度、パニック状態になり始める。
抑えきれない困惑と不安が、衝動となって喉の辺りまでせりがってくる。
「アリアお嬢様」
女性は言った。
彼女の声はすでに安定感を取り戻していた。
今にも叫び出しそうだった私にとって、命綱のように思えた。
「実は……アリア様がお目覚めになられたら、と、王命が来ております」
「……おう、めい……?」
息をもつれさせながら、私は聞く。
屈強な彼女は背筋をスッと伸ばして、そして言った。
「王室より、目覚め次第即時出頭せよ、と王命が来ております」
王室!
王!
この世界にはいるのか、王様が!!!
「それも一度ならず二度も三度も。『アリア様は療養中』と再三返答してはいるのですが、いかがいたしましょう……もしまだ体がお辛いようでしたら……」
「行きましょうッ!!王室ッッ!!!」
私は迷わず命綱を掴んだ。
掴まずにはいられず、思わず大声が出た。
女性は「え?」と、意表を突かれた顔をした。
やべ、と思った私は、
「あ、いや、王様?の命令には逆らえないじゃないですか!」
と、頭をかいて誤魔化したが、本心は違った。
外に出たい!
外に出て、この世界が何なのかを見てみたい!!
何より、この体で外に出てみたい!
今なら、この体なら!自由に走れるし、思いっきり飛べる!
動ける!
まさに一石二鳥じゃないか!
「体調?大丈夫ですよ!私、こんなに元気です!ハハハ!」
私のテンションは急上昇。
ついでに拳をグンッと前に突き出してもしまった。
女性は、少し唖然とし、困惑したようなそぶりを見せた。
しかし、すぐにやれやれを言った感じで首を振った。
「なんだか以前より少し雰囲気が変わったような気もしますが……アリア様の強情なところは昔から変わりませんね」
そうなんだ。
「わかりました、アリアお嬢様。用意させましょう」
かくして。
私はそれはもう丹精に、丁寧に肌を磨かれた。
髪は櫛を入れられたのち、想像していたより簡易的に、『前世』でいうところのポニーテイルのように結われた。
そしてシャツ、ベスト、膝丈のズボンを着せらたと思ったら、ロングブーツを履かされ、最後にコートを着せられた。
これは何というか……男装ではないだろうか?
私は……『お嬢様』とも呼ばれていたし、女ではないだろうか……?
再度、意味不明攻撃が私に襲いかかる。
が、これがこの世界の文化なんだ!という魔法のバリアで何とかやり過ごす。
なんの、現代日本だってジェンダーレスファッションが流通してるじゃないか!
それより、なによりも、外だ、外!
この世界の外は『前世』(というか日本)よりも湿度が低く、それでいて日差しが眩しかった。
端的にいえば、カラッとしていて気持ちがいい。
あのうだるような暑さと比べれば、体を動かすのに実に適している!
長い長い身支度を終えた私は「やったー!」と散歩前の犬のように、身一つで太陽の下に出て行こうとした。
のだが、
「馬車の用意ができました」
と先ほどの女性ーー支度中の会話から『私』の乳母でありハウスキーパーであるらしいーー名をエブリンというーーに引き止められ、馬車の中へと押し込められてしまった。
馬車は落ち着いた色の木製で、屋根が広く床が狭い、台形のような形をしていた。
中にはベルベットの座席があり、窓にはガラスではなく、カーテンが付けられていた。
「それでは行ってらっしゃいませ。くれぐれもお気をつけて」
エブリンをはじめとする、黒衣の女性たち(多分メイド)が私に向かって一礼する。
馬車はギイギイと音を軋ませ、車輪を回し始める。
出発である。
動き始めた車窓から背後を振り返ると、私を見送るエブリンが見えた。
彼女の顔には今だ不安は色濃く残っていた。
私は窓から乗り出して、また拳を前に突き出した。
エブリンは微笑んだように見えた。
本当に彼女の懸念を拭えているかは、わからないけれど。
『私』の家から王室のある王宮、ないし、王都に行くには、馬車で半日ほどかかるらしい。
この世界には、『前世』でいう電車はおろか、蒸気機関車もまだないようだった。
文字通り、馬力だ。
なんとなく察していたが、私がいた現代日本より、ここは古い時代な世界なのかもしれない。
さらになんとなく察していたが、『私』はいわゆる貴族なのかもしれない。
目覚めた時見た二重の天井は、私が寝ていたのが天蓋付きのベットだからであったし、家には私を『お嬢様』と呼ぶハウスメイドが何人もいた。
今乗っている馬車だって、どことなく上品な気がする。
「転生したら貴族でしたて……」
などと、窓の外に広がる緑地を眺めて、呟く。
本当のところは今だにわからない。
だからこそ、動いてみないと始まらない。
まあ今は、馬車の中にいるしかないのだが。
私は「ふう」と息を吐いて、座席の背もたれに身を預ける。
まあそれでも、馬車、いいじゃないか。
なんというか優雅だし。それこそお貴族様っぽい。
半日というのは長すぎるけれど、目を覚ましてからというもの、私の心は常にジェットコースターに乗っているようなものだった。
この豊かな自然を車窓に、一度心を落ち着けるのも悪くはないだろうーーーー。
ーーーーというのは、全くの間違った認識だった。
道はささやかかにしか舗装されていないのか、馬車は頻繁にガタガタと揺れた。
座席にはベルベットクッションがあるにも関わらず、私は何度も尻を強打した。
途中「あれこれもしかして、空気椅子してる方が楽なんじゃね?!」と妙案を思いついてからは、ずっとスクワット状態でやり過ごした。
馬車はどこも優雅でも、心落ち着けるものでもなかった。
王都に到着したのは、体感で昼をだいぶ過ぎた頃だった。
王宮の門らしき前で馬車を止めてくれた御者は、なぜか汗まみれ私をみて、ひどく驚き慌てふためいていた。
私は彼に「いや、大丈夫、マジで」と何度も繰り返して落ち着かせた。
正直そんなに大丈夫ではないが、そうでも言わないと彼の狂乱を止められなかった。
そのような愉快な工程を経て、私はついに王宮へとたどりついた。
王室側にはすでに私の来訪が伝えられていたらしい。
馬車より早く?どうやってだ?と不思議になりつつ、私はやけにスムーズに王宮内へと案内された。
出頭命令を何度も出すほどだ、どうやら王様とやらは私にどうしても会いたいらしい。
王宮はイメージしていたものと、そう違いはなかった。
ものすごく開けた、解放的な芝生の上に、左右対称の大建物が立っている。
基本は赤い煉瓦造りで、所々には差し色的に白い石材が使われている。
一見するとシンプルだが、近づいてみると三角屋根の先頭や窓などには石装飾が施されたいた。
言ってしまえば、近世ヨーロッパあたりの城に近しいものだった。
以前海外遠征時の余暇で、こういった場所を観光したことがある。
内装もある意味で予想通りだった。
回廊には赤くふかふかした絨毯。壁は上半分が滑らかなクリーム色の漆喰で、下半分がこれまた細かな装飾付きの木製パネルである。
絵画やタペストリーが飾られている部分もある。
だが、一番印象的だったのは所狭しと並べられた、大きな窓たちだった。
窓からは太陽光が洪水のように雪崩れ込み、回廊を明るく照らしている。
美しい光景だった。
この世界には電気がないだろうからこそ、自然光を生かした作りになっているのであろうが、私がいた世界でもこんなに光り輝く回廊は、あまりないような気がする。
私は王族の従者らしき男性の後をついて、王宮の中を歩いていた。
似たものは見たことがある、が、感じたことがない空間に、私はさながら観光客が如く、あたりをキョロキョロと見渡していた。
その時だった。
左後ろに急激に引っ張られ、私の体はそちらの方向に倒れ込んだ。
急な衝撃、事故、デジャブ。
本来であれば対処可能な牽引力も、この時の私には対処できなかった。
瞬間的に前世死亡時の事故がフラッシュバックし、体が硬直してしまったのである。
私の体はなすすべなく倒れると、瞬く間にどこかの部屋に引き込まれてしまった。
そしてバタン、と扉が閉まった。
「ああもう、あなたの体って本当に重い!」
頭上から降ってくる声。
自分で私を引きずり倒したくせに、なぜか私を叱咤している。
流石の理不尽に怒りが芽生えた私は、「いったい何奴が」という気持ちで、その人物を睨み上げた。
その瞬間、私は息を飲んだ。
そこには、豊かなウェーブしたブロンドヘアに、同じ色の長いまつ毛で縁取られたサファイアブルーの瞳。
何より生まれた時から高貴なるものとして育ってきたような、まさにこの光り輝く宮殿にぴったりな、お姫様が立っていた。
文句の一つでもいってやろう、と思っていた。
にもかかわらず、その雰囲気に圧倒され、私はなにも言えなくなってしまった。
そんな私の顔を、お姫様はぐいと両手で掴んだ。
そして叫んだ。
「あなた、やっぱり前世の記憶が入っているのね!!」
一応ブルスカアカウントがありまして、そちらで更新ポストなどしてます
https://t.co/YrR7qkmi8z
Xでも同名で更新ポストをしていますが、日常垢を兼ねてるので、更新を追うにはブルスカがお勧めです。
コメント、ブクマ、評価等いただけるとめちゃくちゃHAPPYです!
(2025年6月10日改稿済)