ユーグラシスへ
ユーグラシスの王都に住むコラール王国の外交官は、噂の我が儘王女が来ると聞いてずっと頭が痛かった。
王女は礼儀作法どころか大陸で主に話されるユーグライ語すら学んでいないという。
そんな子供がやってきて、学園の試験に合格できるよう教育してやってくれと言われても困る。
学園の試験以前の問題ではないか。
呆れながらも、それでもやらなければならないのが宮仕えというものだ。
アリオ・ユーディキウムは評価の高い教師を集め、王女といえど厳しく躾けるつもりでフェリキタス王女が到着する日を迎えた。
馬車から降りて来たのは、10才というには少しばかり小柄な、手足の細い子供だった。
最初、アリオは小間使いが先に降りて来たのかと思った。
着ているものはドレスというよりは庶民のワンピースのようで、何年も着ているかのようにくたびれている。
髪も肌もあまり手入れをされておらず荒れていて、なにより視線を合わせずにうつむく様子が、もう王族の姿ではなかった。
「……失礼」
声をかければ、子供は顔を上げる。
「あなたが、フェリキタス王女、だろうか」
「はい」
これは一体どういう事なのか、とアリオは王女の付き人を探す。
しかし使用人がいない。侍女も侍従も。
馬車の近くにいた女性の護衛騎士に訊ねた。
「侍女はいないのか」
すると彼女は少し眉をひそめる。
「はい」
そしてそれ以上は口にしなかった。
その反応で、ここで、王女の前で訊くべきではないだろうと考えを変え、王女に向き直る。
「お疲れでしょう、殿下。中へどうぞ。お部屋をご用意しております」
王女は、アリオの周囲に視線をさまよわせ、それから何を確認したのかしっかりとアリオと視線を合わせて弱々しく笑顔になった。
アリオは王女を部屋に案内し、メイドに言って風呂と食事の面倒を言いつけると、護衛達を呼んで話を聞いた。
「使用人達がいないのはなぜだ?」
「ほとんどが同行を嫌がりました。そのときは王女の悪い噂もありましたので、陛下も無理強いはできず、小間使いが2人付けられただけでしたが、その2人も途中の村で姿を消しました」
「なんて事だ。では王女の世話は君たちがしたのか」
「いえ……」
護衛隊長が言いにくそうに口を開く。
「王女は、ご自身の事は全てご自身でなされました」
「なに?」
「食事も、着替えも、入浴も、何もかも、ご自身でお出来になりました」
「なにも、かも」
「食事は宿の薄いスープとパンのみで、雨の中、外で待つ事になっても不平ひとつ言わず、無聊を慰める者も誰もおらずとも必要のない話をする事もなく、ただひたすらに黙って──、わたし達は、わたし達は」
話していた護衛隊長は青ざめて震える。
「侮っていたのです。噂を鵜呑みにして、おそろしく我が儘な王女だと、王族として尊敬するに値しない、と」
そして彼は両の拳を強く握った。
「わたしは、騎士失格です……!」
どうなっているのかは分からないが、ひどく良くない状況である事だけは間違いがなかった。
夕食の席で妻と2人、王女に白砂宮での生活について聞いたところ、アリオは怒りを通り越してものも言えなかった。
妻はと言えば、ずっと貼り付けたような笑みで王女の話を聞いている。
正妃とその周辺が関わっているのだろうが、大国の王子の婚約者となった姫に対してあんまりな仕打ちである。
勉強をする意思はあるかと聞けば、「努力します」と答えるフェリキタス王女に同情を禁じ得ない。
だがひとまずは衣服が問題だ、とアリオは頭を抱えた。
フェリキタス王女は、王族としてのまともなドレスも宝飾品も、何ひとつ持っていなかったのである。
アリオの妻は外交官として王族と会う事もあるが、彼女が着るドレスはどれもフェリキタス王女が着るには年齢が合わなかった。
そのため、街でも指折りの店でドレスと宝飾品を調える事にする。
アリオは高位貴族で財産も十分にあるが、さすがに王女に相応しいものを何点も、となると厳しい。
必ずコラールの城に請求して、これまでの事も調査してもらわねば気が済まないと考えていたが、当の王女がドレスは必要ないと言い出した。宝飾品も、だ。
しばらくは学ぶ事に専念したいため、屋敷の中で過ごすだけの服があればいいと言う。
そうもいかないのが王族・貴族というものなのだが、この王女はその気構えといったものを身につける事なく今日まで来てしまったのだとアリオは理解した。
まずはそこからなのだ、と。
やるべき事が多すぎて頭が痛い。
だがこれから1番苦労するのは王女なのだ。
「デイドレスだけでも何着か買っておきましょう」
アリオの妻が微笑む。
本来、王族や貴族が着るドレスは一点もののオーダーメイドだ。
だがデイドレスくらいならば、最近では仕立て済みのものを店に置いている事も多い。
「それまでは外出はできませんが、どうぞご勘弁ください、殿下」
「大丈夫です」
そう言って笑った王女は、外出するなど考えてもいないような様子で、アリオはその事に胸が痛んだのだった。
数日後、ユーグラシスの王家から手紙が届いた。
婚約者であるシュトラ王子からかと思ったが、そうではなくアルトゥル王子からのものだった。
その事に少し驚きつつ、アリオは王子からの訪問願いに、明日の午後であれば、と返事をする。
王女との面会については何も書いていなかったので、無理そうならそのとき断ってしまえばいいと思ったのだ。
次の日、アルトゥル王子は護衛と数人だけでやってきた。
もしかしたらシュトラ王子もいるのでは、と思っていたが当てが外れ、アリオは何とも言えない気分になった。
シュトラ王子も、アリオと同じように王女を誤解しているのではないか。そう思って。
やってきたアルトゥル王子はフェリキタス王女の事を心配しているようだった。
メイドをやって、アルトゥル王子に会いたいか確認させると、ぜひ会いたいという答えが帰ってきた。
少し意外に思いながらも王女を居間に招く。
「やあ。大きくなったね。私の事を覚えているかな?」
「はい。庭園でお会いしました」
「嬉しいな。1度しか会ってないから、忘れられててもおかしくなかったのに」
「ちゃんと話を聞いてくれたの、お母様以外で初めてだったから」
「そっか」
王子はまるで気心の知れた友人のように王女と話している。
それは王家の人間が身につける人心術だが、フェリキタス王女はこれまで誰からもそのように扱われた事はなかっただろう。
アリオは、王子が優しく接してくれている事に心から感謝を述べたいと思った。
どんなに幼くとも、どんなに作法に無知であっても、たとえ多少おかしいところがあったとしても、彼女はアリオの大事な王国の姫なのだ。
それから3年間、王女は屋敷の中で様々な勉強をして過ごした。
アルトゥル王子が時々やってきて王女と会話をして帰っていったが、シュトラ王子が一緒にやってくる事はなかった。
2年ほど前、正妃の娘であるマーシュレーヌ王女が1年早くユーグラシスの王都にやってきて暮らし始めたが、思惑が透けて見えて気分が悪い。
フェリキタス王女と一緒にやってきた護衛騎士達も、国王の娘に対し不敬な物言いはしないが、アリオ同様不快に感じてくれているようで少し嬉しかった。
白砂宮を管理していた使用人達はみな辞めたり宮を変わったりしていたが、ほぼ全員、正妃や貴族の保護下に入った者以外は、調査の結果処罰された。
全員、といかないのが悔しいところだが、権力に守られていると確信したからこその行動だったのだろう。
腹立たしいが今はどうにもならなかった。
いずれ、フェリキタス王女がシュトラ王子と結婚すれば、少しはやり返すチャンスがあるかもしれない、とアリオは怒りを呑み込んだ。
フェリキタス王女はユーグライ語を問題なく話せるようになり、淑女らしい振る舞いや言葉遣いもできるようになり、無事学園の試験にも合格した。
王女の置かれていた状況を知った国王は後悔したらしく、まめに手紙を送ってきている。
それに「生きている間に誤解が解けて良かった」と王女は笑った。
3年前とは大きく変わった王女だが、変わらなかったところもある。
相変わらず、どこかあらぬほうを見てぼんやりする事があって、それだけはどうしても直らなかった。
そういったクセは社交界では攻撃される弱点となるものだが、アルトゥル王子がその様子を優しく見守っているのを見て、このままでもいいのかもしれない、と思うようになった。
上手く言えないが、もしかしたらそれは何か私達には分からない理由があるのかもしれない、と。
もうすぐ王女の学園入学の日がやってくる。
シュトラ王子は、3年間、ただの1度も訪ねては来なかった。