綺羅綺羅光る
彼は大変不機嫌だった。
邸までの道すがら、静かに怒気を発しつつも、この後の予定を思い嘆息する。
ああ、いらいらする。畜生。
全ての原因はこの身に流れる血だという事を、彼は知っていた。
近頃、宮中でまことしやかに流れる噂がある。
……安倍晴明は、狐の子であるらしい。
殿上人のみならず、俗に貴族といわれる者達は大変噂好きだ。中には自ら好んで浮名の噂を流す者までいるほどに。彼等にとっては、いかに面白い噂を手に入れるかというのが重要事項であるらしい。
そんな暇があるのならばもう少し働け。
そんな貴族達の様子を見るたびに、晴明はつくづくとそう思う。
思うのだが、腹立たしいことに彼等はたとえ働かずとも、十分食べていけるだけの財力があるのだ。安倍家のように、貴族の端っこにぶら下がっている程度の家の財力とは、もはや比較のしようもない。
本日何度目かの溜め息。
忙しい職務のあいまあいまに、ひっきりなしに人が晴明の元へ訪れては噂の真偽を尋ねて来たがために、予定が多少ずれ込んでいる。全くもって迷惑極まりない。
そして、更に腹立たしいことに噂は真実であるのだ。
安倍晴明の母は狐の妖異であった。
「おや、おかえり。……随分と不機嫌そうだな、晴明。どうした?」
「いえ。別に」
出迎えてくれた父から、思わず視線を逸らす。
晴明の父である安倍保名という男は、狐の妖である妻を真実、愛していた。
全てを知った上で彼女を愛し、子を成して、彼女が去ってしまった後も彼は変わらず彼女を愛し、子である晴明も同じように愛してくれた。
我が父ながら、本当に温かく、大きな心を持った人だと晴明は思う。
「おい、本当にどうした?」
物思いにふけっていた晴明は、父の声ではっと思考の渦から抜けた。
「そんなことでは可愛らしい姫君に愛想を尽かされてしまうぞ、息子や」
「……父上」
にやりと笑う父の顔に、激しい脱力感を覚える。毎度の事ながら、いったいどこでそんな情報を手に入れてくるのだろうか。大いに謎である。
「父である私としては、早く孫の顔が見たいものであるがね」
「……なにぶん狐の子の成す子ですから、狐の姿かもしれませんよ?」
ヒクヒクとするこめかみを片手で押さえながら、たっぷりと嫌みを込めて言い放つも、父は笑顔を崩さない。それどころか、ますます笑顔になった気がする。
「それならば、さぞや美しく育つだろう。葛の葉は天女と見紛うばかりの美しさであったからなぁ」
からからと笑う父にもはや何も言わず、晴明は自室へと歩を進めるのだった。
さすがの陰陽師も、狐を妻に持った父にはまだまだ勝てないのである。
とある邸に暮らしている、彼の姫君は大層不思議な女性だった。
彼女は見鬼の才があり、鬼や異形を見る事ができるという、珍しい力を持つ人間である。男子であれば出仕して陰陽寮に入ってしまえば、陰陽師として十分に利用価値のある才となるが、女の身であるとそうもいかない。常人には無い力を持つ者であるからと、むしろ婚儀をあげる時などには不利になる事が多いのだ。
娘の将来を憂えた彼女の父が、密かに晴明に相談をした事が二人の出逢うきっかけとなった。
「晴明殿……?いかがなされました?」
彼の正面に座している姫君が不安げに問う。彼女は人の心の動きに敏感だった。
「ひどい顔をなされておいでだわ」
「……ひどい顔、ですか」
「私と会うのがそんなにお嫌なのですか……?」
「いえ、決して。そのような事があろう筈もありません」
「では、何故?」
「……」
柔らかな声音で問われるも、何も言えずに俯いてしまう。正直、答えに詰まる質問であった。
彼女だけには宮中の噂を知られたくなかったのだ。知られるのが恐ろしかったのである。
彼女は見鬼の才があるためか、鬼や異形や妖を大層恐ろしいと言う。邸に現れた妖を見つけてしまう度に、真っ青になって震えて怯える。
もしも、噂のことを彼女が耳にしてしまって怯えられてしまったらと考えると、胸が潰れるかと思うほど苦しくなるのだ。
晴明は自覚していた。どうしようもなく、彼女に惚れてしまっている自分を。それは彼が生まれて初めて持った感情だった。
「……安倍晴明は狐の子であるらしい」
はっと顔を上げれば、彼女はまるで悪戯に成功した子供のような顔をして笑っていた。
「父上が仰っていたの。……たわいもない噂だわ」
そんなことありませんのにね、と。彼女はそう言って笑う。
「どうして……そのように思われるのですか?もしも噂が真であったならばどうなさいますのやら」
怯えるだろう、きっと。
妖を見た時のように真っ青になって、震えて。そしてきっと……彼女もまた離れていってしまう。
それは仕方のない事だと、晴明は思う。けれども震えそうになる手が、ただ怖いという彼の本心をはっきりと表していた。
「あなたのどこが狐だというのです?」
知らず知らずのうちに握り締めていた手に、いつの間にか側に寄り添うように座っていた姫がそっと触れた。
「…まったく、どこが狐だと言うのです?こんなに温かいんですもの。こんなに温かい手を持つ人が人間でなくて何だというのですか。私には、どう見ても優しい心を持った人にしか見えませんわ」
そこらの陰陽師達よりもよほど見鬼の才が強い私が言うのですから間違いありませんよ、と。
穏やかに笑う姫の顔を呆然と見つめていた晴明だったが、不意に笑いが込み上げてくるのを止められなかった。それに、とやっと笑顔を見せた年若き陰陽師に、姫はほんの少し頬を朱に染めて言う。
「私を、護ってくれると約束したでしょう?」
だから離れていく事は許しませんよ、と呟く彼女に答える代わりに、晴明はその小さな手をそっと握った。
その約束は生涯違えぬと誓って。
老人が1人、夜空を見上げている。
いつどんな時も隣で寄り添ってくれた彼の人は、数年前に川の向こうへと旅立ってしまった。約束の通りに彼は生涯かけて彼女を護り通し、そして見送ったのだ。若き日に、狐の子と呼ばれた男は稀代の大陰陽師と呼ばれるまでの力をつけて、いまここにいる。
見上げた夜空はあの日とよく似ていた。
艱難辛苦を乗り越えて、やっとの思いで彼の姫と夫婦になったばかりの頃。殿上人であった無二の友人に頼み込んで牛車を借りて、二人で信太の森と呼ばれる森へ出かけたあの日。
母上、と呼んだ声。期待してしまったのは、返ってくる筈もない母からの返事。森の中を吹くただ優しい風に懐かしい香りがした気がして、どうしようもなく切なくなったその時にも、彼女はただ寄り添ってくれていて。
初めて誰かの前で晴明は涙した。
その帰路、満点の星空を見上げて彼女が言った言葉をいまでも鮮明に覚えている。
『私、あなたより先に生命を終えたら星になるわ』
何故、と尋ねるとはにかみながら笑った。
『だって……きらきら光っていれば、必ずあなたは私を見つけてくれるでしょう?』
そうしたらきっともう一度逢えるもの。
そう彼女が笑ったあの日は、今ではとても遠い。
今はまだ遠い夜空の星々の中で待つ君よ。
どうか再び逢える日が来たならば、共に。
……きらきら光る、星となって。
永遠に、共に。
ひとつ、星が流れて消えた。
†綺羅綺羅光る、了。