神の子
おかしな部分があったので、一部修正しました。初回を読まれた方、申し訳ありませんでした。こちらも見て下されば良いのですが……。
行き交う人々と喧騒の中、街の片隅でサナは両膝を抱えるようにして座っている。傍らには小麦粉の大きな袋と林檎が五つ入った紙袋。
サナはただ、空を眺めている。
目前で跳ねるように駆ける小さな女の子が両手から地面に転び、表情を歪めた。母親らしき女性が片手に買い物袋を持ったまま女の子を抱き上げ、あやすように微笑みかける。
家路を急ぐかのように足早に通り過ぎる男性の手には、十数本はありそうな赤い薔薇の花束。どことなく表情に幸せを滲ませている。
その男性と向かい合うように、対向から歩いて来たのは幼さを残した少年。明るい栗色の髪を靡かせ、周囲を気にしている。
ふと視線が絡み、サナは直ぐに視線を落とした。
「なあ、アンタ。家に帰らねーの?」
声を掛けて来たのは、少年だった。
「……帰るわよ。もう少ししたらね」
サナが咎められたかのように首を竦めると、少年は困惑したように頭を掻いた。
「随分ここにいるだろ。もしかして、暇なんか?」
少年は陰りのない笑みをサナに向け、サナは戸惑いを隠さずに俯いた。
「オレ、怪しくないからな! まあ実際、怪しい奴が自分から怪しいなんて言うわきゃないんだけどさ。オレはルーク。アンタは?」
サナはゆっくりと顔を上げ、数回瞬きをした。
「……サナよ。別に怪しいとか思ってないから」
「だよなぁ! 良かった、良かった。でさぁ。その、なんだ……」
ルークはそこで、言葉を濁す。
「わたしに用事でもあるの? ずっとこの辺をうろうろしてるでしょ」
サナの言葉にルークは一瞬ぽかんとしたが、直ぐに笑みを浮かべた。
「……う。まーなぁ。実は止まってる宿を探してたんだ。この辺だと思ったんだけどさ。なかなか見つからないんだよなー、これが」
周囲には背の低い似た造形のアパートが並んでおり、ルークの目的の宿屋らしい建物などない。
「……ふぅん。別に良いけどね。わたしが案内してあげようか? この辺は細い道が多いしね」
そう言ってサナは立ち上がると、スカートの後ろを払った。
*
「汚ないところですが、どうぞ」
アリサは木製のドアを開け、ワグナーをアパートの一室へと促した。
「では遠慮なく、お邪魔させて頂きます」
背を少し屈めるようにして、ワグナーはドアをくぐった。
ワグナーは外見は少年のようだが、落ち着いており青年らしい雰囲気を持っている。癖のない黒髪に、同色の眼鏡。細身ではあるが、整った美貌をしている。
入って直ぐの所は、ダイニングキッチンになっており、中央にテーブルとイスが四脚がある。
テーブルの上には新聞や調味料の小瓶やら、色々な物が無造作にあった。
「片付いてなくて恥ずかしい。座って待っていてくださる?」
「はい」
イスの一つを引きワグナーは腰掛け、優美な仕草でアリサに微笑みかけた。
「……お子さんがいらっしゃるんですね」
アリサはケトルに水を注ぐ手を止め、振り返る。
「あら、分かります?」
「ええ。子供用のマグカップが置かれてますし」
アリサは慌ててケトルをコンロの上に乗せ、火を着けた。
「あらやだ」
アリサは両手に持ち手の付いた小さなマグカップをテーブルからシンクへ移した。
「ふふっ。これでも、二人の子持ちのおばさんなのよ」
アリサは言いながら薄い茶色の髪を束ね、ワグナーに微笑み返した。
「全然そうは見えませんね」
「……お上手なのね。ところで、お話はその事なのかしら?」
アリサの視線に力が宿り、ワグナーは静かにそれを受け止めた。
*
「良いからとにかく。入って、入って」
左腕で抱えるように林檎の紙袋を持ったまま、ルークはサナの背中から前へ押す。
「でも……」
その場に留まろうとしたサナの目前のドアが開いた。
「一体、何事なの……まあ」
金色の長い髪を緩やかに掻き上げた少女の動きがぴたりと、止まる。
「かーちゃん! お客さまだぞ」
「……はいはい。母のリーシャです。さ、中に入って頂戴」
少女と呼んで遜色ないリーシャは、表情を一変し艶やかな笑みを浮かべた。
「は、はい。失礼します」
サナは表情を強張らせたまま、ぎこちない動きで一室に入った。
ルークは部屋の片隅に紙袋を置き、サナもそれに習い近くに小麦粉の入った袋を置いた。
「……若いお母さんなのね。びっくりした」
囁くようなサナの言葉に、ルークはニヤリとした。
「それ。かーちゃんが聞いたら泣いて喜ぶぞ」
「……そうなの?」
怪訝そうにサナは首を傾げたところで、隣室からリーシャの声が響いた。
「そこの二人〜。陰口は禁止ー!」
ルークとサナは互いに目を合わせる。
「はいよー」
元気良く返事をし、ルークは大きなソファーに寝転がった。
「サナも座りなよ」
そう言いながら猫のように軽く伸びをし、ルークは体勢を直すと開いた空間を示した。
「……うん」
サナは頷き、ソファーの隅に腰を下ろした。
二人が座ったソファーの前には、小さめのテーブルがある。天面がガラスになっており、敷かれた簀の上にはクローバーがモチーフの飾りが見えた。
「どうぞ。たいした物じゃないんだけど」
リーシャは二人の前にオレンジジュースの瓶を二つ置き、クッキーの並んだ小皿を置いた。
「……すみません」
リーシャが小さく頭を下げると、リーシャは銀色のマルトレーをお腹に添え仰々しくお辞儀をした。
「ごゆっくりどうぞ」
エプロンドレス姿のリーシャはウェイトレスに成りきったかのような動作をし、隣室へ下がった。
くすくすとサナは笑い、その頬に小さな笑窪を作った。
ルークは置かれた瓶を手に取り、口元に運んだ。
「……ねぇ、ルーク。私達昔会っているの。覚えてる?」
サナは視線をルークに向けた。ルークは小さく喉を鳴らし、手を止めた。
「そんな筈はないよ。オレ、この街初めてだもん」
サナは視線をそのままに笑む。
「嘘」
「嘘じゃねーってば」
ルークは小さく瞬くと、瓶をテーブルに置いた。
「……十年前、会っているもの。ルークは覚えてないの?」
「そんな筈……ないだろ」
サナの言葉に、ルークは中途半端な姿勢のまま身動きを止めた。
「わたしの弟が……亡くなった日の事よ。わたしは覚えているわ」
ルークはゆっくりと身体を起こした。
「……そっか。そうかもしんないな」
二人の視線が交わる。
サナもルークも十歳前後に見え、表情に僅かばかりあどけなさを残している。
「……キメラが、わたしに何の用かしら?」
確かな口調で、サナは言った。ルークは暫く考えるようにして、口を開いた。
「……分かっていて、それを聞くのか?」
ルークの表情がみるみる曇る。
「ええ、そうよ。キメラは……神の子は犯罪者を裁く存在だと信じられている。けれども、わたしの周りで会った事があるという人など一人もいないわ。悪い事をすれば神の子の裁きが下る。手の届かない幻のような存在ね。実際それが、犯罪の抑止力になっているけれど。ルーク、あなたは何をしにきたの?」
サナの言葉に、ルークは項垂れた。
「参ったなあ、お見通しってやつか。良く分かったな。どうして分かった?」
サナは拳を握りしめたままルークを見つめ、困ったように微笑んだ。
「覚えているからよ。どうして、ルークはそのまま成長していないのか。それを考えたら、答えが分かって当然だわ」
ルークは視線をそのままに、言葉を返した。
「……なるほど。神の子は姿は成長しないって、言われてるもんな。確かにオレの成長は止まってるよ。まさか一度会ってるとはなぁ」
「それに……」
サナはそこで、迷うかのように言葉を止めた。
「わたしもだからよ」
ルークは顔を上げ、サナを見た。
「だから。いつまでも周囲に隠して置けなくて、何回も引っ越しもした。ルークと一度会ったのは、違う街でのことよ。母はわたしの事を負担に思っているの」
「それが……周囲に虐待と疑われて、通報されたってやつか。実際オレがこうして対象を調べに来たわけだけど」
「……多分、そう言う事よ。母はわたしを手放したくないと周囲に隠しておきながら、まるで見破って欲しいと言わんばかりの仕打ちをするの」
自嘲気味なサナの表情を見、ルークはサナの視線に微笑んで見せた。
「バレたら、と言うよりはまあ申告制ではあるし。保護対象で親元から引き離されるのは確かだからな。身を隠して生活するか、政府公認の仕事をするかニ択だしな」
ルークはサナの頭に手を置くと、サナの蒼い瞳から一筋の涙が落ちた。
「そんなに心配すんなって。オレがなんとかしてやるから」
サナは嗚咽を漏らしながら、ただ頷いた。
*
「こんな時に、誰かしら? ちょっと、ごめんなさい」
電話の音にアリサはワグナーに断りを入れて、その場を離れた。
アリサは戻るなり、ワグナーに告げた。
「娘が、あなたに代わって欲しいそうよ」
「娘さんが、ですか?」
「ええ」
そう言うとアリサはくるりとワグナーに背を向け、俯いた。
数分と掛からずにワグナーが戻ると、アリサはイスに腰掛けたまま顔を上げた。
「……覚悟は出来ているわ」
アリサの言葉に、ワグナーは静かに返した。
「そうですか……なら、話が早い。すぐに済みます」
ゆっくりとした足取りでワグナーはアリサの真横に立ち、右手をアリサのこめかみ辺りに翳した。
*
アリサはテーブルから顔を上げると、ぼんやりとした表情で周囲を見た。
テーブルには紅茶が二つ置かれてあり、アリサは首を傾げた。
「……変ねぇ。なんで二つもあるのかしら?」
テーブルからカップをシンクに運び、視線が止まる。
玄関近くに置かれた林檎の入った紙袋に小麦粉の袋。
アリサはスポンジを手に取ると洗い物を始めた。
キッチンにある小窓から複数の子供の声が聞こえる。
アリサは窓の外を見やると、目を細めた。
子供達の声が遠ざかり聞こえなくなる頃、アリサは洗い物を終え玄関の方へ向かう。
林檎の隙間から見える白い紙切れをアリサは手に取り広げた。子供ような文字で一言だけ書かれている。
「ありがとう……」
アリサは林檎の包みを持ち上げるとテーブルの上に置き、それをじっと眺めた。