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七月のトロイメライ  作者: 結木さんと
怖がりな女の子
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怖がりな女の子 2






 とりあえず幽霊が出たという廊下を調べてみることにした。

 ぼくは心霊現象の類を信じていない。というか「いたから何だ」と思う。

 見ることも触れることもできないものより、生身の人間のほうがよっぽど怖い。

 常識外れの不可思議な現象が進行形で起きている今、認識を改めるべきなのかもしれないけど、それはそれとして。


 人は得体の知れないものを恐れる生き物である。

 だから原因さえわかれば、心霊現象はフラッシュの反射や壁の染みに姿を変える。

 あの女の子は何を見て幽霊と認識したのか。

 それを明らかにすることで茅崎さんの不安を解消しよう――――と思ったのだけど。


「…………怖いなら中にいてもいいんだよ?」

「怖くないし」


 そう言うならシャツから手を離してほしい。

 指先でつまむとかいうレベルではなく、布をガッチリ握りしめているから、引っぱられて首が苦しいんだ。

 あと、片手で目を覆って何も見ないようにしてるせいか若干怪しいポーズになってるけど大丈夫だろうか? 落ち着いてから気付いて怒ったりしない?


 もうこれはどうしようもなさそうだ。

 引っぱられる布の感覚を意識から追い出して、廊下の様子を観察することにする。


 電灯が消えているので視界は悪い。完全に見えないということはないが、図書室の入口から細部まで見通すのは苦労する。どういうわけか窓の鎧戸がいくつか閉じられていて、その影響もあるようだ。節電したいなら全部開ければいいのに。


 ぐるりと見て回ったところ、とくに怪しいものはなかった。

 調度品や装飾の類は一階よりも少なく、目立つものはせいぜい掲示板に貼られた休館日の予定表や、催事のポスターくらいだ。

 その中の『懐かしき葛山の思い出』と題された展示会に視線が釘づけになる。

 目を凝らしてイベント内容を読むと、それはまさしく今のぼくらが求めるもので、昭和から平成初期の生活用品や着物、祭で使われた神楽の衣装に小道具、スナップ写真に日記など、普段は公開されていない資料も特別に展示されるらしい。

 ――これなら星灯祭の珍しい情報が手に入るかもしれない!

 興奮を押し隠しながら開催日を確認すると、昨日が最終日だった。

 膝から崩れ落ちそうになった。

 …………終わったイベントのポスターは剥がそうよ。

 期待した分だけ失望も大きい。心が折れそうだ。


 やっぱり地道に探すしかないのか。

 資料探しを続けるにしてもまずは茅崎さんをなんとかしないといけない。


 力の抜けた膝をなんとか持ち直して状況の観察に戻る。

 廊下に疑わしい物が皆無となると、逆に言えば何もかもが怪しいことになる。

 そもそも小さい子供は暗闇を恐れるものなので、これが強迫観念による思い込みだったりしたら打つ手がない。

 ぼくはそれでも構わないのだけれど、茅崎さんが納得しないだろう。

 ただ、佐伯さん曰く、例の女の子が薄暗い廊下に怯えたことはないらしい。

 なら普段と今日で何らかの相違があるということだ。

 問題は、ぼくにその違いがわからないということだが。


「あれ……? そういえば」


 何か引っかかった。どこで?

 ふと顔を上げて周りを見回すと、そこにあるものが見えた。


「……ああ、そうか」


 思わず笑いそうになる。

 なんだ。

 単純な話じゃないか。


「なに? なんかわかったの? わかってもわからなくてもいいから、もう戻らない?」

「そうだね。戻ろう、茅崎さん」

「ひあああっ!? な、なに!?」


 背後で悲鳴をあげる茅崎さんを引きずって、光を漏らす入口へ踵を返した。



     ◇



 目的の人物はカウンターの内側で何やら作業をしていた。

 言わずもがな司書の佐伯さんだ。

 図書館のことならベテランっぽいこの人に聞くのが一番手っ取り早い。


「あの、すいません。お訊きしたいことがあるんですけど」

「あら何かしら。千里ちゃんの子供の頃のおもしろエピソードならたくさんあるけど」

「そんなにないから! ここでおとなしく本読んでただけでしょうが!」

「いえ、茅崎さんの個人情報についての質問じゃありません。それと、二人とも、図書館ではお静かに」


 真顔で注意すると、揃って「す、すみません……」と謝られた。まったく。図書館で騒がしくしているところを動画に撮られてSNSで拡散されたらどうするつもりなんだ。

 個人情報が容易く流出するネット社会への危機感が足りないのではなかろうか?


「ぼくが知りたいのは、さっきの幽霊騒動についてです」

「ええ? あなた達そんなことを調べていたの」

「まあ成り行きで……」


 あなたが不用意に茅崎さんを怯えさせたのが原因なんですけど。

 喉元までせり上がった言葉を理性で飲み込む。


 余計なことは言わない。正論でも口にしないほうがいいこともある。早くこの余分な寄り道を終わらせて、本来の資料探しに戻りたかった。


「ぼくらが来る少し前に、上の階から荷物を降ろしていませんか。割と大きいサイズの」

「大きな荷物……ああ、あれね。ええ、酒井君と悠子ちゃんに運んでもらったわ」


 たぶん駐車場で這いつくばっていた二人だろう。

 疲れているように見えたが、慌てて荷物を運んだあとだったらしい。


「それってもしかして、額縁とかショーケースみたいなガラス製品じゃないですか」


 思いついたことを伝えると、佐伯さんが小さく目を瞠った。

 どうやら推測は間違っていなさそうだ。


「……驚いた。運んでいるところを見たんじゃなかったの?」

「直接目にしてはいませんが、ここに着いた時に出てきたトラックとすれ違ったので。あれは展示会で使ったレンタルの什器を運んでいたんじゃないか、と……さっき思いついたんです」


 きっかけは廊下で見つけたポスターだった。

 期間は昨日までで、古い貴重な資料も展示されていたらしい。

 となると触れられないようにケースが必要だが、図書館がそういったものをいくつも所持しているとは思えない。トラックや駐車場にいた職員の様子、終わったイベントの日付から、それならレンタルしたんじゃないかと考えた。


「よく見ているのねぇ……そうよ、二人に運んでもらったのは展示用のショーケース。業者の人が予定より早く着いてしまって、悠子ちゃん達に急いでもらったの。うちでは扱ったことのない形式の催しだったから、最後までトラブル連発だったわ」

「ねぇ、どういうこと? 幽霊とレンタル業者になんの関係があんの?」


 やっと落ち着いたらしい茅崎さんが尋ねてきた。

 焦らすつもりもないので、早々に種明かしをすることにした。

 言葉で説明するより実際に見せたほうが早いだろう。


「佐伯さん、何か透明なガラス板みたいな物はありませんか」


 しばらく思案して、ベテランの司書さんは答えた。


「たしか館長室に空の水槽があったと思うけど、それでいいのかしら」

「大丈夫です」

「じゃあ取ってきましょう」


 どうやら佐伯さんも興味を持ったらしく、足早に図書室を出ていった。





 二分足らずで戻ってきた彼女の腕には水槽が抱えられていた。

 女性が一人で持てるくらいなので大きくはなく、小型の熱帯魚なら飼えるかなというサイズである。ショーケースより遥かに小さいが、たぶん問題はないだろう。

 水槽を受けとって三人で図書室の入口に向かう。

 人数が増えてもやはり怖いのか、茅崎さんが嫌そうな顔をした。


「女の子が幽霊を見たというのはこの辺りですか?」

「たぶんそうよ。貸出の手続きをしている時に泣き声が聞こえたから」


 ぼくは振り返って、緊張した様子の茅崎さんを見た。


「大丈夫だよ、ここには幽霊なんていないから」

「な、なんでわかるのよ」

「これだよ」


 空の水槽を持ち上げてみせた。

 佐伯さんにお願いして当時の状況を再現する。

 水槽の反対側を持ってもらった。ここを通った二人も同じような姿勢でショーケースを運んでいたはずだ。


「夜に明るい部屋の中から外を見ると、窓が鏡みたいになるだろ? あの女の子はこれを見たんだ」

「……なんにも映ってないけど」


 茅崎さんは納得していないらしく不満そうに言う。

 子供みたいな態度に思わず苦笑する。


「しゃがんでみて、茅崎さん」


 さすがに五歳ほどの幼児と高校生の茅崎さんでは身長差がありすぎる。

 同じ視点に立てば、女の子が何を見たのかわかるだろう。

 訝しむような顔をした茅崎さんは、しかし素直にその場で屈んだ。

 そして形の良い目が開かれる。


「あ……」


 慌てて茅崎さんが振り向く。

 視線を辿れば、天井からぶらさがって揺れる塊が見えた。

 子供達が喜ぶようにと作られた――――白いうさぎのバルーンアートだった。


「ただのガラスじゃ反射率はそこまで高くないからね。状況を考えれば、ぼんやりした影がいきなり頭の上に現れたように見えたわけだから、余計に驚いちゃったんじゃないかな」


 急いでいた職員の二人が通り過ぎたのはほんの一瞬だったろう。

 暗い廊下に浮かびあがる自分の顔。

 人は視界の中でまず見慣れたものから認識するので、あの子には今にも覆いかぶさろうとするような白い影が見えたのではないだろうか。


 下から見たうさぎのシルエットも、輪郭をぼかすと子供のイメージするおばけっぽい。

 光の反射も知らない子供が錯覚するには充分だろう。


「ふーん……幽霊じゃなかったんだ」


 こっそりと安堵したように茅崎さんがつぶやく。

 いつもの大人びた雰囲気は影を潜めて、空の水槽を眺める表情はなんだかあどけない。

 その瞳がふいにぼくを見た。


「すごいね、遠原。――やるじゃん」


 そう言って彼女は、朝顔が花を咲かせるみたいに笑った。

 咄嗟に返事ができず固まる。

 思い返せば、茅崎さんと正面から向かい合ったのは、これがはじめてかもしれない。

 綺麗な人だとあらためて実感した。返そうとした声は喉の奥に詰まって、結局「あ、いや……そんなことは……」と、われながら要領を得ない言葉になった。

 今まで夢中になって忘れていたけれど、よくこんな美人と普通に会話してたな。


「そう、そういうことだったの」


 風船のうさぎを見上げながら佐伯さんがつぶやく。

 ぼうっとした横顔から内心は読み取れない。ただその目は、ここではなくどこか違う場所を見ているように感じられた。

 もちろんただの推測で、確証はどこにもない。

 司書さんにどんな思惑があろうとぼくには関係のないことだ。

 怖がりの女の子の問題はもう片付いた。


「さて、それじゃあ資料を探そうか」

「今日はもうよくない? あたし、アイス食べたくなってきたんだけど」

「だ、だめだよ。まだ何も見つけられてないんだから。このまま帰ったら、何しに図書館まで来たかわからなくなるよ」


 茅崎さんが不満げな顔をするが、これだけは譲れない。

 進捗が芳しくない場合、夏休みにまで集合して活動する状況になりかねないのだ。

 妙に仲が良く、責任感の強い部員達なら考え得る話である。

 狂った予定のしわ寄せがそんなところにきていた。

 一刻も早く広報紙とレポートを完成させて、自由な夏期休暇だけでも確保しなければ。

 これ以上、一人で心おきなく過ごす時間を奪われるわけにはいかない。

 ぶーたれる茅崎さんを放置して、ぼくは固い決意を胸に民話コーナーへと戻った。



     ◇



 結果として、資料探しは不発に終わった。

 佐伯さんにも手伝ってもらって、星灯祭で願いが叶うジンクスなど探してみたのだが、せいぜい葛山町出身作家のエッセイに書かれた『お札にする紙は古いもののほうが効果があるという噂が流れて、クラスメートのあいだで奪い合いになった』という小学校時代のなつかしエピソードを拾った程度で、有益な情報を得たとは言い難かった。

 それくらいどこにでもある話だろう。

 茅崎さんに聞いてみたところ、


「そーいやそんなジンクスあったかも……あと、におい付きのペンで願いを書くとか」

「におい付きのペンで」

「ゴリゴリ君ソーダ味のやつが一番効くって、オカルト好きの子が言ってた」


 それは単純にその子の好みでは……効くって何に? 神様の嗅覚? 鼻を攻撃するのか?

 最後に札を燃やすらしいが、いろんな香料が混じり合ってすごいことになりそうだ。

 伊瀬さんの家の神社も災難だな。

 資料より先に余計な実情が垣間見えてしまった。




「ごめんなさいね、力になれなくて」


 館の玄関で佐伯さんが見送ってくれた。

 手伝ってもらって謝られるとこちらも申し訳なくなる。

 一応、レポートの資料には目星がついたのだ。

 目ぼしい書籍はまとめておいた。あとはテーマの方向性によって掘り下げる内容を決めればいい。手分けして調べれば、そう何日もかからないだろう。

 ……ただ広報紙が。

 この手の迷信や噂話を集めるのは図書館だと厳しそうだ。


「いえ、相談に乗ってもらって助かりました」

「こちらこそ、幽霊騒動を解決してくれて助かったわ。ありがとう」


 まさか蒸し返されるとは思っていなかったので返事に詰まる。

 あれは誰の利益にもならないような案件だ。ぼくも保身のために考えたというだけで。

 などという疑問を読み取ったのだろう、佐伯さんは菩薩のような笑みを浮かべて教えてくれた。


「この図書館は建物が古いでしょう? ずっと昔、篤志家の五十倉さんってお金持ちが建てたお屋敷と蔵書を寄贈してくださったのだけど、中途半端に歴史があるせいで改築も修繕も簡単にはできないのよ。おかげで外観はいつまでも古くさいし、館内も照明が必要な場所以外は薄暗いまんま。近所の子供達には『おばけ図書館』なんて呼ばれているわ」


 ベテラン司書さんは濃すぎるお茶を飲みくだした時のような顔をした。

 ままならない状況とはいえ職場に愛着があるのだろう。


「もし騒ぎの原因がわからなければ、また余計な噂が立ったかもしれない。そうなれば小さい子供達やお母さんがますます利用しづらくなるもの。すぐに解明してくれてよかったわ」


 なるほど、と時代がかった屋敷を見上げる。

 たしかに何か出そうな雰囲気ではある。きっと古い映画あたりの影響だろう。

 じゃあ二階の鎧戸なんかも元々閉じた状態で譲られたのか。眺める分には趣のあるロマン建築だが、実際に使うとなると問題も多そうだ。


「久しぶりに千里ちゃんの元気な顔も見られたし、いろいろあったけど今日はいい日ね」

「佐伯さん……」


 茅崎さんがここに来た時と同じ複雑そうな表情をする。

 たぶん長らく顔を見せなかった罪悪感なんかがあるのかもしれない。

 ただそれは、ホラーが苦手な人には厳しめの薄暗い廊下や、呼吸するように他人をからかう司書の責任でもありそうなので、あまり気にする必要はないと思うのだが。


「司書さんにこんなことを言うのは変かもしれませんが、図書館がお好きなんですね」


 気まぐれにそんな感想を告げると、佐伯さんは目を丸くしたあとで満面の笑みを浮かべた。


「ええ、大好きよ。利用者さんも一時より増えてきて、まだまだ自覚は足りないけど、がんばって働いてくれる若い職員もいる。本当に少しずつだけど、昔の賑やかだった頃に戻りつつあるわ。図書館も私も、ここが踏ん張りどころね」


 それは年齢や立場に関わらず、とても魅力的な笑顔だと思った。





 図書館を出たあと、茅崎さんに誘われてショッピングセンターで遅めの昼食をとることになった。

 できるなら早く帰りたかったが、あの流れから誘いを断る勇気はなく、実際に空腹だったこともあって同行した。

 空気を読むのも危機を回避するためには重要なのだ。

 同級生からの誘いを禍根なく断るには経験と準備が必要になる。今日のぼくにはどちらもなかった。つまりそういうことだ。別に悲しくはない。

 それと……まっすぐ帰るのが少しだけもったいないと思ったことも、あるかもしれない。

 ほんの少し、ぼくも浮かれていたのだろう。


 タイヨーモールという商業施設は、ショッピングセンターと呼ばれてはいるが規模はそこまで大きくない。

 食料や衣料品に雑貨、薬局と本屋と旅行客向けらしきお土産コーナー、あとは全国チェーンの飲食店が一階の出入口付近に並んでいる。家電コーナーやら美容院やら映画館やらCDショップは入っていない。一応、駐車場と繋がった三階に時間制の格安カット店がある。

 大きめの地域密着型スーパーといった体裁のタイヨーモールだが、日用品ならだいたい揃う利便性もあり、葛山市民からは重宝されている。

 出不精のぼくもおつかいやらなんやかんやの雑事でよく来る場所だ。

 便利な施設だが、それゆえに同校の生徒と遭遇する可能性も非常に高い。

 とくにファストフードの店舗など最大の危険領域である。

 そう警戒していたのだが、さすがに午後二時半という中途半端な時間帯のせいか、客自体が少なかった。客席をぽつぽつと埋めているのは、主婦と思しき女性のグループかお年寄りくらいで、若者の姿はどこにも見当たらない。


「この時間はみんないないから大丈夫だって」


 周囲を見回していると、茅崎さんがそんなことを言った。

 大丈夫、とはどういう意味だろう?


「隣町のカラオケでフリータイムやってんの。友達同士でモールに来るのはだいたいランチが目的で、がっつり遊ぶつもりなら葛山から出るって感じかな。どこでもあるでしょ、そーゆー……決まりごと? このへんで遊ぶのは中学生まで、みたいな」

「ああ、そうなんだ」


 説明を聞いて納得する。

 あるよね、そういう不文律というか、暗黙の線引き。

 アニメを観るのは子供だけ、とか。

 高学年になって女子と遊ぶやつは男らしくない、とか。

 従うメリットはないのに破ると厄介なルール。

 集団生活にはそういう無意味な決まりが割とたくさん存在する。


「それこそ年上の彼氏と付き合ってる子だったら、車でどっか連れてってもらったりね。……だから安心して。遠原、同級生とか人が多いトコ苦手でしょ?」


 さらっと告げた茅崎さんがレジに向かう。

 ぼくは颯爽と歩く背中を呆然と眺めた。

 彼女は本当に、暗い廊下で怯えていたあの茅崎さんだろうか? とても同一人物とは思えない…………いや、そういえば、普段はかっこいい感じの人だったな。今日一日ですっかり印象が変わってしまったけど。


 ぼくの性格に配慮してここを選んでくれたらしい。

 気を遣われたことに気恥ずかしくなりつつ、空いているハンバーガーショップのレジに急いで並んだ。

 注文の時、つい癖でテイクアウトを頼みそうになる。

 店内で食べるのは随分と久しぶりだ。

 こういう場所で一人食事をするのはそれなりに精神力がいる。

 ジジくさいと笑われながら食べた和風しらすおろしバーガーセットは、なかなか悪くない味だった。



     ◇



 家路につく頃には空はもう夕暮れの色に染まっていた。

 食事を終えたあと、茅崎さんが徒歩で回れる範囲で町内を案内してくれたのだ。


 かつての公設市場の跡地にできた商店街や、古民家を改装した路地裏のカフェなど、表通りをなぞって歩くだけでは出会えそうもない風景は、一年暮らした街がまったく知らない場所になったような、それでいてどこか懐かしく感じられるような、まるで感傷めいた不思議な気分を湧きあがらせた。


 ここはぼくの育った街じゃない。

 記憶も思い出も、どこを探したって見つからない。

 まだぼくにも友達と定義される存在がいた頃、連れだって白線の上だけ歩いて帰ったのは、ここからずっと遠くの住宅街だ。

 道路がひび割れた高難度の工事現場も、タッチしたら何かを回復できたセーブポイントの不細工なカエルの石像も、ここにはない。


 二人で夕焼けの堤防を歩きながら考えた。

 どうして今日、茅崎さんは街を案内しようと思ったのだろう?

 ぼくらは部室でも親密に話す間柄ではなかった。あえて比較するなら、お互い浅上のほうがよくしゃべっている気がする。

 ああ見えて浅上は意外と話しやすい。口は悪いながらも裏表がなく、竹を割ったようなさっぱりした性格だからだろう。中学時代からよくモテていたというのも頷ける。


 対してぼくのコミュニケーション能力はけして高くない。

 少なくとも女子がいっしょにいて楽しい人間ではないだろうという自覚はある。

 わざわざ貴重な休日を消費して、退屈な同級生に地元を案内する理由が、何か彼女にあったのだろうか。


 前を歩く茅崎さんの表情は見えない。

 こちらを振り向くまで凝視するわけにもいかず視線を逸らした。

 眼下では広大な逢郷川が斜陽を弾いている。埋火のような一寸の赤を波間に映す川面は、ひと足先に夜を迎えたみたいに暗かった。


 この地方最大の運河を、星灯祭の夜に神様が渡るのだという。

 堤防の周りに夜店が並んだり、神輿を運ぶ練り歩きがあったりしてとても賑やかなのだと、茅崎さんが教えてくれた。


「さて、ここでだいたい終わりかな」


 声が聞こえて視線を戻す。

 いつのまにか茅崎さんは足を止めていた。

 つられるようにぼくも立ち止まる。

 心なしか優しい目をした同級生と向かい合う。

 夕日の落とした影が、彼女をさらに大人っぽく見せていた。


「これであたしの自己紹介はおしまい。どう、ちょっとは楽しかった?」

「……自己紹介?」

「そ。子供の時から今まで、あたしが見たり行ったりした場所。都会の人からしたらぱっとしない地味なトコばっかだろうから、つまんなかったかもしれないけど」

「い、いや、そんなことないよ……知らない場所も見れたし、おもしろかった」

「そっか、ならよかった」


 茅崎さんはニッと笑った。

 いつも通りのカッコイイ笑いかただ。

 年相応の姿も見たけど、なんとなくこっちのほうが茅崎さんらしいと思った。

 彼女はいったい何を言おうとしているのだろう。

 真意が読めず、続く言葉を待った。


「じゃあさ、今度は遠原のこと教えてよ」


 投げかけられたのは、やっぱり意図のわからないリクエストだった。


「ぼくのこと?」

「なんでもいいよ。子供の時に何して遊んだとか。趣味とか、好きな食べ物とか、感動した映画とか曲とか」

「う、うーん……そんなこと急に言われても……」

「……まぁマニアックな性癖のカミングアウトとかは、正直引くからやめてほしいけど」

「ないよ!?」

「男子ってそういう空気読めないとこあるから」

「ないよ! 男子的にもその自己PRはさすがにアウトだってわかるよ!!」


 人類の約半数の尊厳を背負って叫ぶ。

 というか自己紹介でまず性癖について言及してくるのは男女問わず危険人物だろう。過ちを犯す前に早急に何らかの更生施設に送ったほうがいい。何を知ってほしがっているんだ。

 必死なぼくを見て、茅崎さんはクスクス笑った。

 やはりいつもの悪ふざけだったらしい。

 空気読まないのはどっちだよ……。

 そんな、どうせ口にできない愚痴が胸中で渦を巻く。

 けれど茅崎さんは、ひとしきり笑ったあとで、急に真面目な顔をした。


「――じゃあ、ひとつだけ答えて」


 思わず息をのむ。

 こちらに向けられた眼差しからは、はりつめた気配が見てとれた。

 たとえば、何か重大な告白をしようとする直前のような。

 水の流れる音がいやに大きく響く。どこかの山で鷺が鳴いていた。

 足元がぐらつくような沈黙のあと、やがて意を決したように彼女は口を開いた。


「あんた、知ってたんでしょ? …………あたしらが本当は、友達じゃなかったってこと」


 生温い風が吹いた。

 アスファルトの焦げついたような匂いが立ちのぼる。

 濃い緑と水の気配に紛れたそれは、夏の夕暮れの匂いだった。


 ――――そしてぼくは、春から続いた人形劇の終わりを知った。




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