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恋ではないかもしれないけれど

 あー、ムカつく、そのくらいって言われると確かにそうなんだけどムカつく、バニーバニーのリップクリームはどうして税抜き四百六十八円なのに税込みだと五百五円になっちゃうの、五百円一枚で買えればすんなりお金払っちゃうのに、この五円が飛び出てるのがどうしてももやもやしちゃってすごく嫌、でもレモン&ライムの香りのこれはどうしても欲しい、だって期間限定だしローズとかハニーとかの通常のやつは女の子っぽすぎて嫌いじゃないけどそこまで心惹かれなくて、でもレモン&ライムはうんと爽やかな匂いなのに塗れば唇はちょっとよそ行きみたいな顔になるからいいなあって思ってて、でも五円。五円の飛び出し、この余計な五円。なんか悔しい、満月に一日足りない月みたいですっきりしない。 

 でも欲しいしどうしようって悩んでいたら後ろからがやがやの塊がきて、あたしが手にしていた缶入りの小さなリップクリームをひょいっと奪った。

「買わんの?」

 くすくす笑ってる声がちょっと悪ぶっていて尖らせたいんだろうけど先端がまるくて、りっちゃんまだ迷ってた! ってきゃらきゃら笑う声がそこに重なる。ゆりちゃんとさななで、そこにマナベの声がまた降る。

「金足りないとか?」

 出してやろっか、ってマナベが言う。やっさしーい、って友太郎がからかう。

 学校帰りの夕方、放課後の時間は新しく出来たぴかぴかのショッピングモールに制服姿が出没する。駅までの通り道に新しく出来たから、近くのいろんな高校から高校生がちゅるんと寄って行く。

「いくら足りない?」

「足りなくない」

「悩んでるなら買えば?」

「五円がさあ」

「五円?」

「中途半端に飛び出しててキモチ悪い」

 五円くらい出してやるじゃん、ってマナベが呆れた声で言う。そうじゃないの、マナベが払ってくれてもあたしが出しても、五百円から飛び出してる五円がキモチ悪いの、だけど説明しても分かってくれなさそうだから諦める。

 パン買って帰ろーよ、ってさなながベタベタした甘い声で友太郎とゆりちゃんを誘う。言葉の外側に見えないお節介が浮いてる。ふたりっきりにしてあげようよ、みたいな。

 紺色の制服の上に灰色のカーディガンを羽織ってて、長めの袖のやつを買ったからそれを伸ばしててのひらまですっぽり隠して、あたしはマナベの手からリップクリームの缶を取り返す。

「悩む」

 銀色の小さな缶は可愛い。小さい。銀色を灰色ピンクの小さなハートがぐるっと囲んでる。女子、って感じのやつ。

「悩むな」

「悩むよ」

「……買ってやろっか?」

 マナベがあたしを好きなのは知ってる。あたしとゆりちゃんとさななと、マナベと友太郎は同じクラスのいつもの仲良しで、奇数っていうでこぼこしたアンバランスがどうもいいみたいなんだけどさなながあたしとマナベをくっつけたがる。五人組でひとつカップル出来ちゃってみなよ、あと大変なのに。

「ううん、いい」

「買わんの?」

「どうしよう」

「……でもさ、そういう口に塗るのってなんか、棒みたいな、スティックのじゃないのか? それ、缶だけど、どうやって塗るん?」

 綿棒で? ってマナベが聞く。綿棒でなんか塗らないよ、ってびっくりしてあたしは答えて、指とか、って教える。

「指?」

「小指とか」

「え、なんだそれ、エロい系?」

 なにそれ、って笑ったけど、考えてみればエロとまではいかなくても、色っぽい系にはなるのか。小指でリップクリームを塗る。

「エロまではいかないと思うけどさ。色っぽい、くらいにはなるかも」

「買えば?」

「色っぽいに反応した?」

「バッカじゃねーの、」

 マナベの声がそっぽ向く。照れてるって分かる。笑いたくなっちゃう、ね。

 マナベはキツネみたいなひゅんっとつり上がった目をしていて、背がひょこんと高くて薄っぺらな身体をしている。口が大きくて、赤ずきんちゃんを丸呑みできるオオカミみたいな顔で、だけど中身は結構犬っぽい。尻尾振ってついてくる感じ。

 あたしと居たがる。なんだか。同じ空間に、入り込んできたがってる。あたしの目に映りたがってる。自惚れだっていうんならそれでもいいけど、あたしの目に映るマナベはいつもどこか眩しそうな子供の顔をしてる。

「買おうかな」

「買えば?」

「んん、でもどうしよう」

「どっちだよ」

「ん、買う」

「買え買え」

「買う!」

「おう」

「買うぞーっ、よっしゃー!」

「どんだけ気合い入れてんだよ」

「買うんだーっ、おーっ!」

「どんだけの決意が必要なんだよ」

 マナベが笑っちゃってる声が嬉しそうで、だけど近くでクスッと微かに笑われたのをあたしの耳は拾っていた。ばっ、と見る。髪の長い、シンプルなスーツを丁寧に着た女の人がやっぱりリップクリームを手に取ったところで、そしてあたしと目が合った。可愛い、と小さく言われて微笑まれて、女の人はそのままレジの方に行ってしまった。

 口紅が、くっきり塗られていた。肌の綺麗な人だった。大人の匂いがした。

 そしてあたしは、胸のところがギュッと痛くなる。

「立夏?」

 りっか。

 あたしの名前。さななも友太郎もゆりちゃんも、りっちゃんって呼ぶのに。マナベははっきりとした発音であたしを呼ぶ。

 大人の女の人。

 あたしは痛む胸を押さえて、ゆっくり息を吸う。深く深く吸って、大きく吐き出す。

 大人の女の人を見ると、あたしは敗北感に打ちのめされる。綺麗な大人の人。ハイヒールとかスーツとかが似合う人。口紅を塗ってもそこばかりが目立つってことがない、化粧が悪浮きしない綺麗な大人。

 あたしがまだ手に入れてない武器。スキル。

 どんなに頑張ったって、一足飛びで大人になるのは難しい。内面がどうとかの話じゃなくて。大人びてるとか大人っぽいとか、そういうんでなくて。

「マナベ、」

「ん?」

「あたし、早く大人になりたい」

 なんで? ってマナベが不思議そうに聞く。だって、大人になりたいんだもん。大人に。理由は、大人になりたいから。それだけ。大人に。早く。全力疾走でそこにたどり着けるなら、心臓なんて破裂しちゃっても構わないくらい早く走るのに。


 そりゃあね。

 そりゃあね。

 まあよく言われるわ。

 うっそ高校教師! マジかやっぱ禁断の恋とかあんの、とか、うっわうっわ女子高生とかに教えちゃうの、手取り足取り先生が教えてあ・げ・る、みたいな感じで、うわあああああ! とか。いやまあ、ちょっと前まで女子高勤務だったから、まあそん時は確かに周り女ばっかだったけどそうはいっても女子高生って女子高生なわけであって、正直飯の種ではあるけど恋愛対象とかにはなんないわけで、っていうより恋愛してるほど暇じゃないっていうか、今は共学だし女子もいるけど男子もいるし、意外と忙しいのよ高校教師って。相手も子供と大人の間で妙なのも全然ガキなのもいるし、でもまあ小学校とか中学校よかマシなのかもしんない、頭の程度が似たようなのは集まってるから。一応、偏差値で。受験もあるしさ、まあ点数取っちゃえば性格云々とかは内申見るにしてもそこまでどうのこうのってのはまあね。平教師にはよく分かんないですよ。

 それよりあれだ、俺はどっちかっていうと結婚早く踏み切れば良かったのか、とか思ってるんだけど、それはどうしたって目の前でもう泣きそうに怒ってるんだか哀しんでるんだか分かんない顔の遥香がむっつりと黙り込んでいるからで、ここで「それじゃ結婚しよっか」って言えてしまうほど空気が軽くないのは分かってるし、もう何度目なんでしょう、って自分でも悪いなあって思ってるくらいだから、ごめんね。ごめんね、遥香。仕事が忙しいのと結婚は別じゃないの? なんて言わせちゃって。本当は私のこと好きじゃないんでしょ、とか言わせちゃって。遠距離になっちゃったのが良くなかったよなあ、でも仕事続けたいって言ったのは君の方で、っていうのはもちろん禁句だよなあ、長すぎちゃったのは確かだ、八年っていう長い春。

 せっかく会いに来てくれて、会う前は楽しみなんだよな。確かに。ああ何ヶ月振りに会えるんだな、とか思って、あの店連れて行こうとか、家でごろっとしようとか、なんかいろいろ考えてるんだけど。会ってる最初の一時間くらいはすごく楽しい、ああ俺の彼女だ、とか、うわっ久しぶりだわ、とか思ってるんだけどそのうちにどんどんなんか、違ってくる。ビールの最初のひと口だけが美味いみたいに。飲み放題の店で、欲張ってもう腹いっぱいなのに頼んだビールみたいになってくる。持て余す。嫌いではないんだけど、むしろ好きなんだけど、今はいい、みたいな感じになる、そしてそういうのは伝わる。ちゃんと。隠すつもりがないのか、隠せてないだけなのか分かんないけど。

 ああ、ほら。

 もう泣きそう。

 泣くな、これは泣くな、うん。泣く。あ、泣いた。

「……別れる」

「……うん」

「……別れる」

「……うん」

 別れない、って言葉を待ってるのは分かってる。だけどそれって先延ばしにするだけだ。もう俺達は終わってる。遠距離恋愛、長い春。ここまで来てしまったから今更、って感情だけがふたりを支えているのは分かってる。だけどそれが分かってるからって、きっぱりすっぱり、ってわけに行かないのは共有してる幸せな記憶もたくさんあるからだ。

 同じ繰り返しになる。

 ずっと。

「……もう、別れる」

「……うん」

「……別れよう、別れるのがいいよ、もうダメだよ、私達」

 頷く。ダメなのは分かってる。別れるのが一番の道なのは。でも彼女はここで俺がひっくり返してくれるのを待ってる。いや、って。いや、別れないでおこう、って。

 だけど別れなくてどうするんだろう。結婚? 結婚するって言ったらなんか変わるのか。そうなの? やったー、じゃあ私いい奥さんになるわ! とかって、泣き顔からパッと満面の笑みになるのか? それはそれで嘘くさい。

 終わってる。

 だけど認めたくない。

 すでに自分のものだった半身を、今更失うのはひどく怖い。傷がぱっくり開く。血もたくさん流れる。

 だけどこんなときに、明日の授業のことを考えてしまっている、頭の半分くらいで。遥香のことが好きだけど、このままふたりでいても不幸になる。多分。このまま別れを撤回して付き合い続けても、また次のデートで同じケンカをするだろう。結婚したって俺の職業が変わるわけじゃない、性格ががらっと変わるわけでもない。歩み寄る気持ちもなさそうだ、俺。

 何年も着なくなったままタンスに突っ込んであるセーターと同じ。もう今後も着ることはない、でも高かったからとか思い出があるからとかで捨てられない。着ないのに。捨てる勇気がなくてそのままになっている。飼ってる猫が粗相したとか、火事で一緒に焼けてしまったとかいえば本当はすっきりして諦めがつくだろう、着なくなったセーターと同じような関係。そんなものに未来はあるのか、いや、ないだろう。

「……秀彦、もう私のこと好きじゃないでしょ?」

 そんなことない、の言葉を願っている彼女。本当にそんなことはなくて、好きなんだけどもう未来はない。いや、彼女との未来を俺が考えてないだけだ。捨てられたい。自分からは捨てられないから。猫の粗相でも火事でもいい、君が、俺を捨ててくれればいい。ああ、ずるい。男らしくない、分かってる、ああ、でも。でも。

 彼女が静かに立ち上がる。駅前のコーヒースタンドで、電車の時間だから、と彼女は言う。最終電車の時間。彼女はこれから遠くへ帰る。

「……私のこと、ちゃんと好きだった?」

 振り返る彼女が小さな声で言う、頷くのは悪いことなんだろうか、でも嘘じゃないから。

 日曜日の夜。秋から冬に変わる季節。夜の空気は肌寒い、声をかけようとして、かける言葉を持っていないことに気付く。

 明日はまた仕事で。恋人と別れたのに、哀しいというより仕事のことを考えている自分にため息を吐く、もう好きじゃなかったと言っているようなものだ、いや、好きだった、ああ、過去形だ。好き、好きなのに、好きだけど、好きだった、今は? 今この瞬間は? 抱き締めたら心は揺らぐのか、でもできない、それはただの先延ばし。

「送ってく、」

「いいよ、もう切符買ってあるし」

「でもそこまで」

「ううん、いい」

「だけどさ、」

「さよなら、秀彦は死んじゃったことにする」

「……ごめん、」

「幽霊に送られたくないから、ひとりで帰る」

 遥香がにっこりとするから、俺は次のデートの約束をしたような錯覚に陥る。バカな脳ミソ。電話番号も写真も全部、と彼女が言う。

「消してね、私も消すから」

「遥香、」

「さよなら」

「……うん」

 くるりと背を向けた彼女の、着ていた服をもう思い出せない。

 明日の小テストの、パソコンに入っている問題の方がよっぽどくっきり思い出せる。


 目が、追いかける。

 あれみたい、ピアノの。カノン。カノンだっけ、追いかけてく曲。

 とぅるるるっ、て追いかける、見えなくなって、あ、って目を伏せてまた上げる。いる。

 視線に色がついてなくて良かった、って思うのは、こっそり人を見てるときだと思う。でもビームが出て痺れさせられればいいのに、と思うこともある、ピンク色した恋愛光線。痺れて痺れてあたしのことを好きになあれ。

「なに見てんの?」

 寒いのにベランダに出て中庭を見てたあたしに、マナベが声をかけてくる。

 熱心に見てたことを悟られたくなくて、あたしはだるそうに指を差す演技をする。あれ、って。なに、ってマナベが覗くから、ほらあれ、って指先をちょっと振った。中庭の枯れた向日葵を引っこ抜いてる人。

「誰、あれ」

「稲なんとか、先生」

 稲城先生。本当はあたしは知っている。稲城秀彦先生。

「え、知らん」

「B棟職員室の方にいる、特選科の先生。数学かなんかの」

「詳しいのな」

「そんくらいみんな知ってるよ」

 ふん、って鼻を鳴らして。なんでもないじゃん、って顔をする。うちの学校は普通科と特選科というコースがあって、特選科っていうのは大学進学に特化した進学したい人達が来るちょっと頭のいいお勉強好きのクラスで、稲城先生はそっちの科の先生で。

 特選科は勉強ばっかしてるから、文化祭も委員会活動も部活もなんにもやらなくていいことになっていて、でも稲城先生は文化祭とか支障のない範囲でならせっかくの高校時代にやらないともったいないとか思ってるらしくて、参加したい特選科の子を連れて去年の文化祭に参加してた。

 あたしは校内整備委員会に入ってるから、文化祭の正門作りをしないといけなくて、稲城先生が連れてきた何人かの子を作業に混ぜてくれと言われた。

 普通科と特選科は、仲が悪いわけじゃないけど接点がない。一ヶ月に一回の全校集会で見かけるか見かけないかで、校舎も棟が違うから窓から見たりするだけだ。

 でも文化祭のときに、なんだか子供みたいに楽しそうだった稲城先生は案外校舎のいろんなところをうろちょろしてるんだと知った。垂れ目で、肩幅が結構広くて、若すぎる新任の先生じゃなくて、でもおじさん過ぎるほどじゃなくて。

 結婚とかしてるかどうかは分からない。知らない。なんとなく、気になっていた。たまに見かける。見かけると、なんだかうんと嬉しくなる。

「中庭の花壇って、園芸部の?」

「え、でも二年二組の花壇もあるじゃん」

「うそ、見たことない」

「四月に花植えたじゃん」

「授業で? 全然覚えてない」

「マナベ、サボってたんじゃん?」

「かも」

 ダメだねえ、と笑うあたしの前髪を風が撫でてく。冷たい風。寒くね? ってマナベが聞く。腕組みしてて、薄っぺらいマナベは本気で寒そう。

「子供は風の子だから」

「立夏はガキって感じだもんな」

「お、最低だね? 君」

 ズキン、ってなんか痛くなった気がした胸は、大人に早くなりたいあたしが内側から槍みたいなので突いたからだと思う。

 肩を越えてた結構長い髪を、あたしは切ったばっかだ。耳の下で揃えて、ショートボブにしたのに友太郎からワカメちゃんと言われてしまった。なんかのドラマで、ショートボブの女優さんがうんと色っぽかったから真似したのに。

「あ、稲なんとか先生すっ転びそう」

「手伝ってあげれば?」

「なんで、え、めんどい」

 稲城先生が太い向日葵の茎を引っ張ってる。枯れてしまった茶色。太陽の残骸みたいな。

「教室戻ろうぜ、寒いから」

「うん。もうちょっと見てる」

「なんで。あ、もしかして立夏、」

「……なに」

「向日葵の種欲しいとか思ってんだろ」

「へ?」

 ああ、でもそれっていいなあ、と思った。

「ナイス、マナベ!」

「ああ?」

 息を吸う。うんとうんと。声が大きく届くように。吸って吸って吸って、あたしはベランダの手すりにしがみつく。

 よし、今だ。頭の中では簡単にシミュレートできてても、エンジンをかけるには勇気っていう鍵が必要。

「稲城せんせーえ、向日葵の種ちょうだあああああーい!」

 ひゃっ、ってマナベがびっくりの声を上げて、それからうるせえよって笑った。二年の教室は二階にあるからベランダも二階で、でもあたしの声はちゃんと届いた。先生がなんだなんだ、って顔を上げたから、あたしは手を振る。合図。合図。あたしを見てよ。

 先生がこっちを見た。向日葵の首を持って、振って見せてくれる。首を傾げてる。

 そう、あたしにちょうだい。

「おいっ、立夏?」

 マナベの声が追いかけてくる背中で、あたしはもう駆け出している。コンクリートのベランダを走って、端っこの非常階段を目指す。唇を押さえてないと笑い声がこぼれちゃうのが、自分でもおかしくてたまらない。


 向日葵の種を植えるのかと聞いたら、食べるのだとその子は鼻の頭を赤くして笑っていた。普通科の子だけどどこかで見たことがあった感じで、種だけまとめとくから放課後B棟職員室に取りに来るかと聞いたら頷いた。そっちにいなかったら数学準備室にいるから、と付け足すと、彼女は神妙な顔になってまた頷いた。

 うちの学校は各教科に準備室という名の、教師の私物置き場がある。三人ずつくらいは同じ教科の教師がいるので、ひとり締めというわけにはいかないけれど。

 三浦立夏という名の彼女は、放課後数学研究室に恐る恐るやってきた。職員室に行ったら先生居ませんでした、と彼女は拗ねたように唇を尖らせた。

 きょろきょろしている。珍しいもんでもあったか、って聞くと、匂いが違う、なんて言う。

「匂い?」

「A棟とB棟で」

「そっか?」

 ビニール袋に入れておいた向日葵の種を渡すと、素晴らしいご褒美でも貰う勇者のようにうやうやしく、彼女は両手でそれを受け取った。袖が長すぎるセーターを着ていて、てのひらが半分隠れている。小さいからぶかぶかになるんだな、と思ったら笑ってしまった。

「なんです?」

「いや。向日葵の種本当に食うのか」

「食べます」

 文句ありますか? みたいな口調なのに、俺を見る目はくりくりと透き通っている。

「なんで先生、向日葵なんか引っこ抜いてたの?」

「教頭先生に怒られたんだよ、特選科の二年一組の畑だけいつまでも綺麗にされてませんねえ、って」

「それで先生がひとりでやってるのって、なんかおかしい」

 くくん、と三浦が笑う。

 そういえば特選科の生徒達は俺を教師としてしか認識していないからか、性格的なものなのか、あまり砕けた接し方をしてこない。三浦の敬語を使わない話し方を注意しそびれて、結局そのままになる。

 あれ、と思って、突然思い出した。

「ああ、三浦って、去年文化祭の正門作りしてなかったか?」

「してました」

 ふにゃんと嬉しそうな顔になる。あの時頑張ったもんなあ、と俺はしみじみ思い出す。毎年正門は前年度のものを補修して補修して誤魔化しながら作るのを、去年はさすがに補修するには劣化しすぎてて最初から作り直したのだ。

 係の子は自分達のクラスの出し物もあるのに、結構遅くまで頑張って作ってくれてたのを思い出す。ポスターやら、校庭のフェンスに張り出す巨大な看板やら。

「見たことある顔だと思ったら」

 何気なく言った言葉が気に障ったのか、それともなにか他のことを思ったのか。三浦がくりくりしている目でじっと俺を見た。物怖じしない子なのか。

「今年も正門作ってた?」

 彼女は首を横に振る。校内整備委員会じゃなくなったから、と答える。俺を見つめたままで。

「……特別にもう一袋種をやろう」

 あまりに見つめられると妙な緊張をしてしまうようで、俺は誤魔化すために向日葵の種をもうひとつ出す。

「そんなに好きなら全部食っちまわないで、いくつか庭にでも植えとけばいい」

「……先生が育てたみたいに、大きくなります?」

「うん? なるだろう、ああ、なんかそういう種類のやつみたいだから」

 ふうん、と三浦が種の入ったビニール袋に目を落とす。白と黒の縞模様。小さな指先は血色のいい色をしている。

「先生」

 そうかと思ったらぴょこんと顔を上げた。

「なんだ?」

「先生の声って結構低いですね」

「おお? おお、そうか、えっと? 低いか?」

 はい、と彼女が目を細めた。種ありがとうございます、と深くお辞儀したかと思うとばね仕掛けみたいにぴょんと跳ね上がる。準備室を出ていくスカートがひらり翻る。その紺色が目に残る。うちの学校の生徒がみんな、同じものを着ているから、もう俺に馴染んでいる色なんだろうか。


 去年の夏、ゆりちゃんが大学生の男の人と付き合った。コンビニでアルバイトをしていた、ちゃらちゃらしてない結構真面目そうな人で、だけど大人達がいろいろ言って結局ふたりを引き離してしまった。 

 身の丈に合う恋愛をしなさい、みたいなことを言われたみたいで、ゆりちゃんが「身の丈ってなに?」と哀しそうにしていた。大学三年生の人だった。そりゃあ相手は二十歳を越えていて大人かもしれないけれど、あたし達だって来年になれば選挙権を手にするくらいの大人で。ゆりちゃんはおっとりしたお嬢様っぽい感じの子で、だから周りが心配しすぎちゃったのかなって思ったけど、それでも人の恋に他人が口出しをするのってどうなんだろうって首を傾げたくなる。

 二十一歳と十六歳はダメだって言うくせに、三十一歳と二十六歳だったら全然問題にならないのを、だってあたし達はもう知ってしまっている。

 歳の離れすぎた相手に恋をすることはおかしくて奇妙なことだって思う人達がいる、だけど人のことは放っておきなよ、って思う。年上の男の人が高校生の女の子達を食い物にしようとしてたり、悪い心で近付いてくるのはいけないことだし怖いことだけど、本気で恋をしているんだったら放っといてあげてもいいと思うのに、なんだか変な事件も多かったりしてみんなピリピリしてたり、人の恋にケチつけたり、先回りして危険を回避させようと躍起になりすぎてたり、ああもうなんだか分からない。

 あたしが稲城先生をちょっと好きとか思ってるのも、大人にバレたらきっと大変なことになるんだろう。大人って、でも、誰?


 遥香と別れたことはなぜだか仲間内で広がって、まあそうだろう、長く一緒に居たから共通の知り合いばかりになっていたし。

 結婚すると思ってたのに、とみんなから言われて、それにどんな言葉を返せばいいのか分からなくて曖昧に笑うしかない。別れてしまったものは仕方がない、そういう運命だったのだろうし、結婚してたらそのまま添い遂げたのに、というわけにもいかないんじゃないだろうか、それとも枠にはめられてしまえばそんなものかと別れる気もあったりしたって実行に移せないままずっと一緒に居ることになっていたんだろうか。

 職場が職場だもんなあ、と言われても、若い女が毎年交代で入ってくるもんなあ、と言われても、それは俺の飯の種であってそれ以外の何物でもない。環境だけで羨ましがる人間も多いと思う、業務の大変さを知ってからいろいろ言ってくれ、と言ったって相手はへらへら笑っているばかりで、きっと本当はどうでもいい話題をどうでもよく口に出しているだけなのかもしれない。

 それでも、一応傷心中だ。

 三十も半ばを越えるとまあ大体の友人という関係者は結婚していたりして子供がいたりもして、飲みに行くかとか言いながら約束は果たされなかったりする。

 淋しいのかが分からない。

 大人になった、と思う。

 闇雲に誰かに寄り添いたい淋しさを、誤魔化す術が身についている。もしくは気にしない術が。気にならなくなっているのか。淋しいのは暑さ寒さに似ているだけだと、着たり脱いだりで紛らわせてしまう、日々の忙しさに少しずつ擦り込んで薄めてしまう。

 見合いまでして結婚というものがしてみたいかと聞かれればそんなことはないと言ってしまえる、長年一緒に居た恋人と別れてその淋しさがよく分からなくなっている自分は、鈍感な大人になったもんだとため息が出る。

「好き、ってさあ」

 難しいねえ、難しい。好きだけで突っ走れるのは若いうちだけだ、本当本当。

 思わずつぶやいたひとり言に斜め向かいの教師が反応する。稲城先生? って声をかけられるから、小テストの採点が面倒くさくて、と笑って返す。

「教頭先生に聞かれたら怒られますよ」

 向こうもくつくつ笑ってる。黒縁メガネのおじさん先生。

「『心を込めた教育を! 生徒には丁寧な指導を! 愛がなければなりません!』」

「似てますねえ、稲城先生」

「お、ありがとうございます」

「お礼を言うところなんですか」

 数学の小テスト。十問だけとはいえ点数に多少ばらつきがある、文章問題とか苦手な奴は苦手だよなあ、と勘違いしてる答えをしらりと眺める。どんな問題にでも対応できるように、ちょっと意地悪な書き方をしたらいつもできる奴ができなくなったりしている。

「高校生って、大人なんですかね、子供なんですかね」

「ああ、なんか難しい生徒でもいます?」

「いやあ、そうじゃないんですけど。この前、生徒をしつこく誘ったとかでなんか五十過ぎの教員が逮捕されただかなんだかってニュースがあったじゃないですか」

「ああ、卒業生に連絡して半分脅しみたいなことを言って関係を迫ってたっていう三十代だか四十代だかの高校教師がいたとか、あとなんか続きましたよね、最近。携帯に裸の写真送らせたとか、なんかそういうのもありましたっけ」

「なんかあんまり同業者がバカやると、うちらも働きづらくなりません?」

「稲城先生はほら、若くてまだ独身だから。私なんかはもう生徒からおっさん通り越しておじいちゃん扱いですよ」

 高校生って恋愛対象にならないなあ、と思う。

 そんなことを思うのは、向日葵の種を欲しがってわざわざ特選科までやってきた普通科の、三浦立夏とかいう生徒のせいか。

 あの子、俺のこと多分好きだな。

 なんだか、そういう目をしていた。雰囲気と。自惚れかもしれないけど。

 教師をしていると、生徒から好かれることもある。真剣な想いを告げられることもある。過去にも何度かあった。生徒だからダメなんですか、だったら卒業してからでも。そう言われることもあったけど、卒業したらそういう子達は俺なんかをすぐに忘れる。

 限定的な、その場だけの存在。立ち尽くしていて動かないもの。目印みたいな。そこにあり続ける過去になる。高校時代、という時間枠を飛び出してしまうと、俺は過去に残されて色褪せていくだけになる。

 それでも嫌われるよりは好かれてる方がいい。

 たとえそのうち、過去にされると分かっていても。

 ああ、なんだか。

「稲城先生?」

「なんか、センチメンタルな気分です」

「どうしたんですか、お疲れです? まあ、週末ですからねえ」

 家に帰ってビールでも飲みたい。

 あの三浦って子。

 向日葵の種を春になったら撒くんだろうか。


「なに食ってんの?」

「ん、向日葵の種」

「え、なんで。なに、ネズミの餌?」

「違うよ、普通に食べれるよ」

 食べる? って差し出したら、マナベはあたしのてのひらから恐る恐る一粒をつまんだ。

「……どうやって食うの」

「割って、中の白いの出して」

「白いの?」

「向日葵の種食べたことない?」

「ない」

「うっそ、ないの? え、損してる」

「えっ、なにを」

「なんか」

「損?」

「うん」

 ナッツ類みたいな味、って教えてあげたら、マナベは恐る恐る前歯で齧ってパキンと割った。中身をそっと取り出している。

「この白いの?」

「そう」

 口に放り込んで、噛み締めて。ちっちゃくてよく分かんねえ、って首を傾げてる。なに食べてるの、ってせななとゆりちゃんがにこにこして寄ってくる。友太郎は図書委員会。放課後の窓の外のオレンジ。あたし達はみんな帰宅部で、あとはもう帰るだけがお仕事。

「りっちゃん、バイトする?」

「え、なんの話?」

「もうすぐクリスマスでしょう、せななのおじさんのパン屋さんで、またケーキの店頭販売するんだって」

「手伝う」

「よっしゃ、人員確保!」

 お前ら楽しそうだな、ってマナベが冷ややかに言う。

「うん、楽しい」

「そうかそうか、良かったな。そういえば立夏、」

「ん?」

「この前買ってたあれ、つけないのかよ」

 この前買ってたあれ。リップクリームか、って気付いて、ああ、って頷く。

「つけてるよ」

「いつ」

「夜、寝る前」

「なんで?」

 なんでって、高保湿のリップクリームだし学校でつけてるとてっかてかになっちゃうから寝る前だけ、って答えると、マナベが首を傾げた。色のつくタイプと勘違いしてたらしい。

「色のつかないリップクリームだよ」

「ふうん。でもさ、学校でもつけたら?」

「なんで」

「え、なんかあれつけてる立夏が見たいから」

 ひゅーう、ってせなながはやし立てて、ゆりちゃんがくすくす笑う。あたしは知らんぷりして、やだよ、って鼻を鳴らす。それから笑う。

 マナベはあたしを好きだけど、好きって言ってくるわけじゃない。あたしはマナベに対する「好き」が、そういう意味の好きじゃない。多分。でも告白されたりしたら揺れるのかな。好きになっちゃうのかな。分からない。恋って、好くより好かれろ、なんでしょう? 愛するより愛されろ、なんでしょう?

 稲城先生の顔がいきなり頭に浮かんだ。

 あたしはどっちかっていうと、多分、先生の方が好き。

 でもよく知らない。知らないから、勝手な想像を押し付けて好きなだけなのかもしれない。都合よく頭の中で改変して、こんな感じ、で好きなのかもしれない、恋に恋してる、っていう状態で。

 不安定。 

 好きとか恋とか、分かるようで分からない。

 先生は大人だから、いろいろを知っているのかな。揺らがないのかな。あの先生、独身なのかな、それすら知らない。

 大人になりたい、あたしは。

 なんだか焦る、胸の奥がざわざわして、落ち着いてなんかいられなくなる。どうしてだろう。大人になりたい。早く、早く。うずうずしてる、歳を取るだけっていう簡単なことじゃない意味で、そしてそのまんまの簡単な意味で。

 あたしは大人になりたい、ゆりちゃんもさななも、ずっと子供のままで居たいって言うけれど。

 どっち付かずの高校生っていう、アンバランスな立ち位置で転びそう、躓きそう、なんだか分からないけどあたしは早く、大人になりたい。


 あー。

 家帰ってビール飲んで寝たい。

 なんかすごく、寝過ぎた、ってくらい寝ぼけてぐにゃぐにゃになるまで寝たい。

 高校生とか大学生だった時みたいな、日曜の目を覚ますと午後二時とか三時で、時間を無駄にした後悔と、時間を贅沢に使った自慢げな気持ちが混ざる変な感じ。ああ、いきなり思い出した。二度寝して目が覚めたのが五時くらいで、朝なのか夕方なのか分からなくなるあの、胸がひゅんっとなる感覚。 

 ああいうのがなくなってきたのはいつからだっただろう。

 懐かしい。

 人生は行ったきりのタイムマシーンだな、本当に。本当に。


 色のつかないリップクリームで、なのになんでだろう、この無敵になった感覚。

 あたし、無敵。

 今、無敵。

「立夏」

「なに、あ、帰る?」

「おう」

「さななとゆりちゃんは? 友太郎と」

「知らん、後で合流すんじゃね?」

 なんか食って帰ろうぜ、ってマナベが言う。ドーナツ、ってあたしが言う、ハンバーガみたいなの、ってマナベが言う。

「やだ、太る」

「ドーナツも同じだろ」

「そうだけど」

「あ、立夏」

 口、光ってる。

 マナベが言うから、あたしはにんまり笑う。

「塗ったとこ見せろって言ったじゃん」

「うん」

 マナベの素直な声。

「……似合う」

「色なんかついてないよ」

「うん、でもなんか」

 いい気がする、って言われて目が細くなる。笑ってる、あたし。ありがとって言う代わりに唇を尖らせた。それから、ふんにゃり笑う。

 外で待ってる? って聞こうとしたとき、あたしの目の端になにか映った。確認する前に、心が動いた。

「あっ、ちょっと待ってて!」

「え、あ、立夏?」

 下駄箱で待ってて、ってあたしは言う。そして駆け出す。通学鞄を肩にかけて、カモシカみたいなスピードが出てるつもりの足で。


「先生!」

 呼び止められて稲城秀彦は振り返る。普通科の三浦立夏が、息を弾ませて赤い頬をして立っていた。切り揃えられたつやつやの黒髪おかっぱ頭で、子供っぽく見えるのに目だけが大人びた光を隠している。アンバランス。不安定な年頃の、今ここにしかない輝き。

 眩しく見えて思わず秀彦は目を細めた。立夏は、それを笑ったみたいに捉えたのかもしれない。

「もらった種、撒きました!」

「こんな時期にか、これから冬来るぞ。雪降るぞ」

「えっ、ダメだったかな?」

 急におろおろし出す。冬の間に地面で凍るんじゃないのか、と言ったら、顔を引きつらせた。

「どうしよう、先生!」

「……まだ余ってるから、分けてやるか?」

「本当に? え、欲しい、先生ちょうだい! ください!」

 嬉しそうに笑う。感情の塊みたいに。こんな時が俺にもあったのかなあ、と秀彦はまた眩しく思う。

「数学研究室かB棟職員室に、」

「取りに行きます、今から?」

「気が早いな!」

 だって急がないと、と立夏が笑顔になる。

「来年花が咲いたら、先生にあげてもいいですか?」

「向日葵?」

「そう」

「へえ、じゃあ楽しみにしてるかな」

 りっちゃーん、とどこかで遠い声がした。友達が呼んでる、と立夏が背を伸ばす。放課後。すべてが遠いと思ってしまう秀彦とは対照的に、立夏にとってはこれが世界のすべてだったりする。

「先生さようなら!」

 少し高くて甘い声だった。

 どこも少しも溶けていない、ビー玉みたいにつやつやの飴玉。ガラスみたいなのに、口に入れると甘くゆるんでいく、あれに似た感じの。

 気を付けて帰れよ、とかけた声が淡くにじむ。

 立夏のつややかに光る唇が丁寧に微笑むのを、秀彦の目が鮮やかに記憶した。

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