村長の孫娘マリン
太陽が西に傾いている。まだ夕方というには早すぎる時間帯。教科書やノートの入った重いカバンを背負いながら、俺は家に少しでも早く帰るために走っていた。
睡眠時間1時間半、更には夕飯も朝飯も食べていない状態で受ける授業なんて、まともに聴けるはずもなく、今日は学校で1日中寝ていた。おかげでほとんど学校の記憶がない。
強いて残っている記憶を言うならば、給食を可能な限りおかわりをしたという事。食べ物を買うお金が残っていないので、2日何も食べなくても大丈夫なように、とにかくお腹に詰め込んだ。それはまるで冬眠に備える熊のように。
「お前、授業中はずっと寝てサボっていたのに、給食食べるときだけはいっちょまえなんだな」
なんて皮肉を給食のとき、友達に言われたような気がするけれど、あまり覚えていない。あとは夢の中でDOMのレベル上げをしていた気がする。
こんな歳にもなって全力ダッシュで家に帰るアホなんて他にいるだろうか。周りの人にチラチラと見られているけれど、今は恥ずかしさよりも早くゲームがしたい。DOMの世界に浸りたい。その気持ちだけ。一途な気持ちが大切。
誰もいない家の廊下に向かって「ただいまー」と言いながらドアを開ける。もちろん返事は返ってこない。母さんは実家に行っているのだから返事が返ってきたらホラーだよね。
部屋にカバンを放り投げ、制服のままVRヘッドギアを頭に被せてベッドに横たわる。幸いなことに今日は金曜日。土日と、とことんやり込むつもりだ。それに、うるさい母さんもいないしね。シシシと笑いながらスイッチを入れる。
目を開くと、そこはクレーア村だった。昨日とは打って変わって、青空が広がっていた。寝不足で気怠かった体もこの世界に来ると体が軽くなったような気がする。ただ、安全のために、空腹感やトイレへ行きたいなどといった命に関わる感覚はVR世界でも感じるようになっているみたいだ。
この時間帯でも村をプレイヤー達が目まぐるしく行き来している。
そういえば、午前4時でも大勢の人がログインしていたけど、その人たちは学校や仕事はどうしているのだろうか。リーシャさんも4時過ぎだっていうのに、ノンストップでフレンドの手伝いに行ってしまったし…。日本の未来が心配になってくる。
さて、いくら時間があるとはいえ、しっかりとやることを決めないと。無駄に過ごしてしまうのは良くないよね。生きている時間は有限なのだ。まずはリーシャさんお勧めのストーリーを進めてみるのがいいだろう。ワープリングっていうのも欲しいしね。
マップを見ながら村長の家へと向かう。言っていた通り、高台に大きな家があった。勾配を登り、村長の家の前に着く。その高台からは海に面しているクレーア村が一望できた。しばらく眺めていると、潮の香りを乗せた風が後ろから強く吹いてきた。
「んー、気持ちいい。ここ、夜に来てみると綺麗な夜景が見られるかもしれないな」
腕を伸ばす。海なんて見たのは初めてかも。いや、ここは現実じゃないから見たことにはならないのかな。一通り辺りを見まわしたら満足した気分になったので、いよいよ村長の家にお邪魔することにした。
「こんちゃーす」
『おや、お客様かな?』
白髪で髭の生やしたおじいさんが椅子に座っていた。頭の上に白い文字で村長と書かれてある。間違いない。部屋にはよく分からない置物や、大きな魚の骨が飾ってあった。その中にリーシャさんがしていたような指輪を大事そうに飾っているのが見えた。あれがワープリングだな。
「あのう、ワープリングが欲しいんですけど」
『フガッ、ワープリングが欲しいと申すか。 しかしあれは、我が家に伝わる家宝ぞ。見知らぬものに渡すわけには…』
「そんなあ、そう言わずにお願いしますよ。なんでもしますから」
『むっ、なんでもすると言ったな。 …ではお使いを頼むかの』
来た来た。ロールプレイングゲームのテンプレだよな、これ。さっさとお使い済ませてワープリングを頂いちゃいましょうかね。
「で、何を持ってくればよいのでしょう。村長殿」
『んや、持ってくる物は孫娘に頼んでいるのじゃ』
「ほう。ではどうしろというのかな。おじいちゃん」
『この孫娘がまた、とても可愛くてのう。マリンという名でな。じいじって呼んでくれるのじゃ』
ゆっくりとした話し方になんだかイライラしてきた。そんな孫娘の話なんてどうでもいいんだ。…さっさと要件を話してほしい。
『その孫娘が、薬となる花を摘みに行ったのじゃが、いまだに帰ってこないのじゃ。 心配だからお主に様子を見て来てもらおうと思ってな』
「なるほど。その花とやらはどの辺に生えているんだ?」
『それはな、この村を出て川沿いに行ったところに狭い通路がある。その通路を抜けた場所に生えておる。モンスターが出るから行くときはしっかりと準備をしてから行くのじゃぞ』
「分かった。無事にその娘を連れてきたらワープリングを頂く。約束だからな?」
『フガ、気をつけてな』
フガって返事なのだろうか。俺は村長に背を向けながら片手をあげる。まかせろ、のジェスチャーだ。そんな感じでかっこつけながら家を出る。
さて、所詮お使いだし、いきなりボスということも無いだろう。一人でちゃちゃっと済ませちゃいますかね。人混みを掻き分けながら村から出る。
村の外に流れていた川は陽の光を反射してキラキラと輝いている。澄んだ、綺麗な川だ。俺はその川に沿うように歩いて行く。
オフラインのRPGならこういう時、モンスターを倒してレベルを上げながら行くのだけれど、VRMMOのレベル上げはパーティを組みながらの方が効率が良い。甘い蜜を知ってしまっているのでなんとやら。一人の時、モンスターは基本無視して進むことにしよう。
モンスターと戦っているプレイヤーを尻目に、俺は川の横を走り抜けていた。そう、最初は歩いていたのに途中から走り出して、まだ着かないくらい長いのだ。冷静に考えてみると、近くにモンスターが居て、こんな長い道を孫娘に歩いて花を取りに行かせるって、あの村長マゾなのかな。…なんて変な想像していたら前方に小さな山のような岩肌の隙間に狭い通路があるのを発見した。あれかな?近づいてみる。すると横になって進まないと入れないくらいの狭さだった。カニカニーってカニ歩きをしながら進む。
しばらく進み、ようやくカニ歩きから解放される。岩肌を抜けると鮮やかな、緑の草原が広がっており、その先には色とりどりの花が無数に咲き誇っていた。わあ、綺麗。平和だなあ。なんて思っていたらそんな場所に似合わない、悲痛な女の子の叫び声が聞こえてきた。
『誰か、助けてー!』
何事か。剣を構えて声の聞こえてきた方へ向かうと、頭に2本のツノと背中に大きな翼が生えている黒い悪魔のようなモンスターが、ブロンドの髪色をしたおさげの少女に抱きついていた。
あれが村長の孫娘だな。マリンって言ったっけ。まったく、あのモンスターめ、うらやま…、けしからん光景だ。
『そこの冒険者さん。私、マリンって言います。おじいちゃんに頼まれて花を摘みに来たんですけどモンスターに襲われちゃって…。助けてください!』
モンスターに襲われている割には冷静に状況を説明出来るマリンちゃん。それだけではない。俺は何か違和感を覚えていた。
「マリンちゃんって言ったっけ?」
『はい。そうです。おじいちゃんに頼まれてここまで来た…』
「待った!」
モンスターに抱きつかれながら話すマリンに向かって俺は叫ぶ。
「お前はマリンじゃない。偽物だな?」
『え? 何言っているんですか? 私、村長の孫娘のマリンですよ!』
俺は騙されないぞ。村長の話をあれでもしっかりと聞いていたのだ。
本当のマリンは、村長のことを“じいじ”と呼ぶ!なのに、こいつはさっきから“おじいちゃん”と言っているではないか!…可愛いという点は間違いなさそうだが。
無駄に村長の話が長いと思ったら、こういうことだったのか…。
「嘘を付くな、悪魔の手先めッ! 本物のマリンを何処へやった?」
『だから、私が本物ですってー!』
「いいや、どう考えても偽物だ!これは俺をハメるための罠なんだ!」
『罠じゃない!本物だってばー!!』
………
……
そんなやり取りを何回か繰り返していたら。
『グギャギャギャ!オミャバギャジャネェノ!』
マリンに抱き着いていた悪魔のモンスターが急に叫び出した。
いや、お前喋るのかよ。心の中でツッコミを入れる。
そのとき、悪魔のモンスターは翼を広げたかと思ったら大きく翼を動かして風を起こし始めた。
そして、マリンを抱きかかえたまま飛び上がり、遠い空へと消えて行ってしまった。
『助けてー…!』
マリンの声が大空に遠く響く。
俺は飛んでいった方角の空をいつまでも見つめていた。
空が青い。今日はいい天気だ。