ロザリオ
教師がそれをしまった場所は覚えていた。
授業中にみせられた九州の潜伏キリシタンのものだという古びた木製のロザリオ。
目が離せなくなって、それから何故だか心が浮ついたまま今日一日を過ごし、他の教師にも友人からも指摘を受けた。
一緒に帰ろう、と声をかける友人に断りを入れ、聖堂に向かう。
人気のない場所のためスルリと入り込むことができた。
授業後に壮年の教師がため息をつきながら閉まっていた棚を探すーー見つけた。
手に包み込み質感を楽しむ。光に照らしながらじっくりと観察する。
木製であるため何かしみこんだような後もあるが、それさえも年月の艶と重みで趣に変えているようにも思われる。
夕暮れ前の聖堂、ステンドグラスに光が差し込み7色の光が透過する。
つい興が乗って祭壇の前にひざまづいて祈っている真似事なんかをしてみる。
ふふふ、と笑いをもらしながら私は毎日唱えさせられる祈りを口にしてみる。
「天におられる私達の父よーー」
いつの間に時間が経っていたのか、聖堂内は冷え込んでおり私は思わず腕を擦った。
もう帰ろう、とロザリオを棚に戻し、聖堂から一歩出ると月が白く顔を出し、茜色の空はだんだんと蒼ずんできている。
夜の間優しくも賑やかに歌を奏でる虫の音も、今はまだ聞こえていない。あとほんのもう少ししたらきっと鳴き出すのだろう。今日はいつもよりそれを楽しめそうな気がした。
階段に向かい靴箱を目指す。校舎内に入ってしまったためあの美しい夕暮れは見られないが、足音は軽くタン、タンと階段を下る。
「…あれ?」
一度、二度、踊り場を過ぎて首を傾げる。
何かがおかしい。
普段ならばとっくに目当ての階に着いている筈なのに未だ自分は階段の途中に立っている。
なんだろうか?これがデジャヴとかいうものか、と目をこすりながらもう一つ下りる。
階段はまだまだ続いている。
おかしい、と認めるわけにはいかなかった。
背筋が不意に寒くなり、嫌な汗が浮き上がってくる。
階段を一つ下りる、また一つ下りる。
下りていけばきっと着くと信じて駆け下りそうな足をとどめてゆっくりと進むが、踊り場に着くたびに自分が地の底へ沈んで行くような感覚に襲われた。
そしていつのまにか、煌々と階段を照らしていた蛍光灯が薄緑の燐光を放つ非常灯に変化し、包み込むような闇に覆われ始めていることに気がついた。
そんな馬鹿な。
なぜ自分はこんな事になっている。
私は何もしていない、なのに何故。
気のせいだ、私は疲れていた。そのせいでさっきから目眩が止まらないだけだ、そうだきっとそうなのだ。
そう思い込もうとするが、恐怖が心を裏切った。気がつけば喉はカラカラに干からびきっていた。
早くここから出なければ。逃げなければ。
また一つ下りるが、そこには階段が続いている。もう一つ、また一つ、いくら下りても延々と続く階段が待っている。
「なんで私が、なんでなんでなんで私どうしてーーーッヒ、」
薄暗い階段の下、闇が沈んで集まったかのような黒い人影が見えた。
タンパク質の焼けたような焦げ臭い匂いが鼻をつく。
無意識のうちに後ずさったためか、つまづいて転びそうになる。
振り返った瞬間、目を見開いた。
腕が見えた。影は階段をうまく登れないのか四つん這いになって上がってくる、伸ばされたその腕は黒く焼け焦げ、なお金槌を握りしめているのが見てとれた。
「やだ、来るな来ないでやめて、なんで私、なんで何もしてないのに、なんで…ーー」
弁解を紡ぎながら後ずさる。唯一、理不尽な恐怖への怒りが体を動かす活力だ。
影は焦げ付いた四肢を不自然に動かしながら階段をズリズリと登ってくる。
床を引っ掻く何か金属的な音がする。
「やめて私は何もっ…ーー!!!」
背に何かがぶつかった。
息を飲み、恐る恐る振り返る。
「…ーーあああああァアアア…ア」
息が触れるほど近い距離に、炭化してひび割れた顔がある。間から汁の垂れるピンク色の肉がのぞき、ギョロリと向いた目だけが白く浮き上がって、影は私の後ろに立っていた。
鼻腔に焦げた肉の匂いがはりつく。
「…や、だ、いやだ、やだやだやだいやだッ…!」
転がるように逃げ出した。
全力で駆け上がっているはずなのに、足はもつれうまく進めない。水の中でもがくかのように、息苦しさが増していく。
「ハァっ…!」
だが、それでもなんとか出口を目指す。
くぐるとそこはーー、先ほどまでの美しい夕焼けがあった。
扉を開いて駈け込めば、穏やかな雰囲気を保ったままの聖堂である。
助かった。
ガクリと膝から崩れ落ち、安堵で涙がにじむ。震える体は汗がにじんでいた。
安置された白磁のマリア像も暖かいロウソクの光に照らされ、柔らかく微笑んでいた。
息を整え、最後にもう一つ小さく息を吐き、帰ろう、と立ち上がる。早く家に帰って暖かいご飯を食べて、忘れてしまおう。
一瞬、炎が揺らぐ。
気のせいだろうか、マリア像が先ほどよりも煤けているような…
「…ッ!?」
焦げ臭い匂いが辺りを漂う。
バッと振り返ると周囲は闇に満ちていた。
暖色を灯すロウソクの光までもが、闇に染まり溶けていく。
目を凝らせばガラス窓は黒く染まり、壁には黒いシミがついている。
ミシ、ミシッと聖堂が軋む音がした。
アレが来る。
少女は呆然としながら立ち上がり、聖堂内を見回した。
隠れなくては、早く隠れなくては。
でないとーーー。
足をもつれさせながら祭壇の下に膝を抱えて潜り込む。
膝に回した手を、体を少女はガクガクと震わせた。
「やめて、お願いやめて、こないで来ないでこないでこないでくださいお願い、私は悪くないほんとにちょっと見てみただけなんにもしてないもうしません、いやだ許して許して許して…」
許して、来ないでお願い、そう繰り返し呟きながら彼女は理解し始めていた。
逃げられない。
あの目を覗き込んでしまった時から分かっていた。逃す気なんてないのだ。アレは最後まで、目に留まったものを追い詰めてーーー
「…ヒッ…助けて誰かお願いやめーー、」
蠢く闇が遂に祭壇まで辿りついた。
焼けたタンパク質の匂いが押し寄せる。
無数の手が少女の腕や足、首元に伸びる。
ヒュウッという掠れた悲鳴を最後に残して少女の意識は暗転した。
フッと意識が浮上する。
少女は寝起き特有の混濁した意識のまま周囲を見回し…目を見開いて硬直する。
取り囲む壁一面に並べられた十字架、それに縛りつけられ磔になっていたのは制服を身につけた女生徒達だった。
「ーーーッ!!」
あり得ない光景に逃げようともがくが何故か手足が動かない。
蒼白になりながらソロリ、と視線を自分に向けると眼前の生徒達と同じく、手足は十字架に縛り付けられていた。
「やだ、やだ放して、やだやだやだ嫌だ放して放してッッーー」
半狂乱になりながら逃げようともがく少女の上に影がさす。
あ、と息を飲んだ少女の手を押さえつける腕は炭化しひび割れ、その間から桃色の肉がのぞいている。
「いや、いやぁああああああああああああ!」
少女の白い手に錆びた釘をあてがい握りしめた金槌を振り上げる。
手のひらに釘が打たれていく感触は今までのどんな怪我よりも痛かった。狂ったように悲鳴をあげて自問自答を繰り返す。
どうして、なんで私が、どうして、どうしてどうしてどうしてーー!
いつしかそれは呪詛の言葉に変わってゆく。
許さない、許さない、私だけがこんな酷い目に合うなんて許さない。同じ目に合わせないと許さない。
磔にされた何十人もの少女の叫びは青黒い闇を震わせた。