純粋『意志』批判としてのシェイクスピア
シェイクスピアを読み返しているが、シェイクスピアというのはやっぱり素晴らしいと思う。神々しいとさえ思う。
シェイクスピアの作品では度々、恋愛が問題となって出てくる。恋愛要素はシェイクスピアに必須と言っていい。しかし、同じ恋愛を問題にするのでも、角田光代とはどうしてこんなに違うのだろう。あるいは我々の実際に行っている恋愛とシェイクスピアの描く恋愛はどうしてこうも違うのだろう。
例えば、オセローという作品を例に取る。オセローは嫉妬の話で、将軍オセローが、美しい妻のデズデモーナを浮気していると疑い、嫉妬し、デズデモーナを絞め殺した後、浮気の嫌疑は実は部下の人間がけしかけた策略だと知って、自死する話である。
あらすじだけ書けば、なんてことないが、実際にはオセローという作品は単なる浮気話・不倫話とは次元が違う。それは、シェイクスピアの描き方も含めて、実存的なレベルにまで立ち入っている。これを現代の作家が描けば、社会風俗小説としてなってしまうだろう。村上春樹なんかも、半分は現代の風俗小説であるから、状況が変化すれば、村上春樹の作品も古典としては残りにくくになる。他の、社会風俗と一致している作家は、社会風俗が変化すればその変化に耐えられないだろう。
オセローを呼んで、自分が感じたのは、「意志」というものが、現実には必ず何らかの「形式」を取らなければならない所に悲劇が現れるという事である。これは、主人公オセローには意識されておらず、作者によって意識されている部分である。この部分は、「ハムレット」の方がわかりやすいかもしれない。というのは、ハムレットは、己の意志というものが、復讐という形式を取らざるを得ない所に、馬鹿馬鹿しくも、遂行しなければならない宿命というものを見て取っているように思えるからだ。
自分は今「意志」という言葉を使ったが、これは欲望の延長で、フロイトの言う「エス」のようなものだ。人間が人間である限り、何らかの意志を持つ。しかしながら、普通人はこれを社会常識で薄めたり抑制したりする。話を脱線させれば、意志を抑制する事を人々が承認したくなくなった時、「戦争」が起こるのではないか。戦争は物理的に「意志」を破壊し、平和は内面的に「意志」を抑制する。そう考える事もできるだろう。
人間は「意志」を持つが、その帰結は馬鹿馬鹿しいものである。これを馬鹿馬鹿しくない、と常識は言う。常識はそう言う事によって、自らの経済構造を称賛し、自己を強化する事に務めるのだが、それらを含めて自分は馬鹿馬鹿しいと言う。経営者になって女優と付き合うというのが、我々の理想でしかないとするなら、そう努めてみれば良い。その結果というものが、現実という名の青ざめた己だと気付く事ができないのであれば、その人間は麻酔されたまま生きているのだと思う。もっとも、彼らの処方箋に関してはどうでもいい。
「意志」は現実には何らかの対象を持たざるを得ない。意志が意志として、自己に内在する時、それは自己に閉じこもったものとしてある。では外部に出れば、問題は解決するのか? こうして意志は外に出ていくが、それは「愛」となったり「復讐」となったり「野心」となったり、様々な形を取る。内面は外化し、ドラマが起こる。ここまではそれほど問題はないだろう。
しかし、問題はこの「ドラマ」の意味である。通俗的な作品では、「ドラマ」内部による解決が図られる。恋愛であれば、成就や破局がその結果として現れてくる。恋する気持ちは、恋愛を成就する事によって、解決するのか? これに通常はイエスと答えるし、表面的にはシェイクスピアもイエスと答えるだろう。あるいは、登場人物はそのように信じているかもしれない。しかし、実際にシェイクスピアがあれほど力を込めて悲劇を描いたのは、そこに別の答えがあると信じられている為だと感じる。
ロミオとジュリエットでは、二人は恋心故に死に至るが、彼らは死に至るまで自己の運動をやめない。同様に、オセローも、死に至るまで、相手を殺すまで、自己の運動をやめない。彼らの意志の力は極めて強く、常識とか社会慣習によって弱められる事はない。それ故、我々はシェイクスピアの作品を見ると、純粋な人間を見たような気がする。これに比べて、多くの作品では、作者が最初からブレーキを引いている為に、人間の本質というものが感じるところまでいかない。
シェイクスピアの悲劇の帰結では、大半の人間が死に至るが、何故死に至るかと言えば、彼らが死をも恐れず、己の意志を貫き通そうとするからだ。その場合、彼らの行動は偶然とは思われない。また、単に、我々の卑俗な生活感覚のレベルでそうしているとも思われない。彼らはまず意志を持つ。意志は対象を持ち、対象を求めるが、その対象に到達できず、あるいは到達するにせよ、彼らの意志の強さが、その強さ故に、彼らを破滅させていく。
「ハムレット」という作品に注目したいが、主人公ハムレットは、復讐を誓った後、遂行していく。ここで、主人公ハムレットには「他者」というものがまるでないという事に気付くだろう。ヒロインのオフェーリアが狂死してもなんとも思わない。間違って、違う人間を殺しても、さほどの事とも思わない。
ハムレットは自己に取り憑かれているとも言えるし、彼の意志は対象を破滅させる所まで歩いていく。小林秀雄が「ハムレットは復讐を遂行しても達成感はなかっただろう」と言っていたが、それは老婆を殺したラスコーリニコフと同様だ。両者とも、自己に取り憑かれている。小林の言う通り、ラスコーリニコフは、間違って殺した人間を思い出せない。ハムレットもまた、目的以外の事柄が、まるで意識に残らない。そして不思議に、彼らの念願の、目的それ自体も彼らの意識を通り過ぎてしまう。
彼らは、自分の生全てを掛けて、怖ろしい一大決心をして、事業を遂行しようとするのだが、事業は彼らの手をすり抜けてゆく。幸運にもハムレットは死に、ラスコーリニコフは生き残った。ラスコーリニコフは生き残ったが為に、まだ意志を保持していたが、止む瞬間が来る。それは静寂であり、意志の寂滅である。この時、ラスコーリニコフは意志に照応するいかなる現実も存在しないと理解し、目に見える現実が現実の全てであるという風に感じたのだ、と自分は考えてみたい。
意志は、個人を破滅まで進めていくが、その行為、客体、ドラマもまた、彼ら主人公にとってはドラマではない。ハムレットは己の独白の中に、ラスコーリニコフは己の自意識の中にいる。この中では、あらゆるものが過程として現れ、始点も終点もない振り子運動があるのみだ。この運動が現実に外化すると、ドラマが発生するのだが、彼らにはドラマとは感じられない。単なる悪夢としてしか感じられなかっただろう。
では、シェイクスピアとかドストエフスキーとかいう作者は、一体、どう感じたのか。つまり、「そう」感じたのだと思う。意志は、自己を越え出ると対象を持ち、外化し、外部に走っていくが、主体には外部は外部ではない。あらゆる障害は踏み越えられ、踏み越える事のできない障害は彼を押し潰す。しかし、それ以外に意志は満足する事ができない。そして、「満足する事ができない」というのが、偉大な劇の特徴であると自分には思われる。というのは、そうでなければ、人間の意志の強さ、くだらなさ、偉大さ、高貴さ、馬鹿馬鹿しさが表現しきれないからだ。
将軍オセローが妻に嫉妬し、妻を絞め殺し、後に自死するというのは、純粋な意志の結果だ。意志は、妻の貞潔を疑うのであれば、どこまでも疑う事ができる。どんな些細な事柄も、意志はそれを捻じ曲げて理解する。意志は、他人の内面は確かめられないという本質からして、他人と妥協する事ができない。ここに根本的なドラマがある。人間関係というものの内部に起こるドラマは僕には味気ない。根本的なドラマは、人間関係なるものがそもそも可能か不可能か?という問いの中にある。意志は他者の内部を覗き込む事はどうしてもできないのに、他人を求め、他人がいかにそれに答えようとも、それでも他人の奥底にあるはずのものを求めて運動し、最後には自壊する。
シェイクスピアの作品ではしばしば、表面的な装いと内心との差異が、偽善性や策略として問題となるが、それは意志と現象との差異が意識されているからだと思う。表面的には人間はいかようにも現れうる。内心はいかようにも装う事はできる。が、内心はいついかなる場合でも、そのまま露出する事はかなわない。だから、絶えず、相対的な現象と、内面という本質性との間で駆け引きが行われる。そして本質が本質を求め運動していっても、どこまでいっても、全き愛も正義も名誉も見つからない。我々は相対性の中に生きる事を宿命付けられているからだが、意志は、それでも絶対を求める事をやめない。
このエッセイのタイトルは「純粋『意志』批判としてのシェイクスピア」だが、シェイクスピアはカントの純粋理性批判がやったように、人間の意志が、その強さ故に自壊していく様子を描いたのだと思う。それは人間の本質性にまつわる悲劇だが、本質というのは本質を求めなければ得られないものだろう。意志が、社会慣習を越えて、他者を越えて己を発見しようとする過程に悲劇がある。
例えば、ナポレオンのような偉大な現象は彼が、絶えず追い求める存在だった故に挫折に至ったと考えられるのではないか。ビスマルクは分を知っていたが、ナポレオンは絶対に対する望みがあった。その望みが彼を破滅に至らせたのだが、これはシェイクスピア的現象と言っていいのではないか。そして、人間という存在は大体、このような振幅に収まっているものであると思う。そのような振幅の中に、人間の偉大さとくだらなさはある。現在はこれを社会慣習と、功利的価値観によってコントロールしようとしているが、それは不可能であると自分は考える。人々が発狂する時は、集団で発狂するであろう。一人で発狂する勇気を持たない人は、手を取り合って発狂する。そして、自分達が他と同じであるから正常だと考えようとする。こうして、シェイクスピアが描いた、個の意志は見えなくなるし、狂人のたわごとという事になろうが、我々は今や集団で、正常人という名の狂人になろうとする。そう考えると、シェイクスピアは象徴として、これからも、人として変わらない我々に、あのような作品として機能し続けていくように思われる。
(この文章では意志の寂滅は、死しかないという風に言ったが、もう一つ手段があると思う。それは、「意志は止むことがない」と認識する事であり、ラスコーリニコフのラスト、あるいは仏教的悟りへと繋がっていく。その場合は、生の中に死を持つ事で意志は一応の終点を見るだろう)