常春の城
迎えの馬車に乗り、王宮へ向かった。
王城を囲む堀の上に降ろされた跳ね橋を渡り、春の門をくぐる。頑丈そうな鉄格子の落とし扉を備えた城門の上部には薔薇のレリーフがはめ込まれている。
門をくぐると、馬車が何台も先を進んでいた。その馬車の行列の終点には白亜の城がそびえ立つ。滑らかに整えられた壁はシミひとつなく美しかった。
出迎えの入り口にはいくつもの旗が建てられている。王家の旗を中心に、王子達の所領の旗、宰相、クレスケンスに仕える主要な貴族の紋章が縫い取られた旗たちが風にはためいて壮観だった。
旗の家紋についてひとつひとつ教えてもらいながら時間を潰し、ようやく馬車を降りた。
兄にエスコートされて廊下を進む。
天井が高い。思わずぽかんと口を開けて見上げそうになったのを、隣の兄に咳払いで咎められてハッとした。
「驚いただろう」
「はい……」
「サンティ・グレイルにはこれほどの城は無かったからな」
「ええ。フェルラにいたらこんな城があるとは思わなかった」
最初に通された儀礼の間も目にしたことがないほどの豪奢さだった。柱や壁に精巧に掘られた草花のモチーフには金箔が被せられ、壁の白さと相まって神聖さを醸し出している。
ラシェルたちが広間へ入ると、何人かの貴族がヒソヒソと声を交わした。異教徒、というセリフが耳に飛び込む。眉を潜めていると、兄が気にするなと言うように大きな手で肩を包み込んだ。
「真実我らは異教徒だ。かつては違ったが。そんなことで我らがあの連中に貶められる理由はない。堂々としていなさい」
「……はい」
広い空間だと言うのに、ここは王侯貴族、神官、軍人、身分によって並びが決まっている。上手に置かれた玉座の前に、控えの間から姿を現した王が立った。
赤い外衣、王冠、そのほかは黒い喪服だった。
赤みがかった金色の髪、同じ色の髭が口元と顎周りに生えた熊のような見た目に反して、緑色の瞳は優しげな形をしている。がっしりとした太い腕や脚といった身体つき。統治者としての役目を果たしてきた自信の垣間見える姿だ。
「今年もこの日を迎えた。皆無事にというわけにはいかなかったが。我が息子が、儂よりも若くして神の国に召されてしまった」
低く空気を震わすような力強い声が広間に響き渡る。第一声に含まれた悲しみに、ぴりぴりと鳥肌が立った。
「老いも若きも己の死に目がいつかはわからぬ。だからこそ、産み増やさねばならん。春は種をまく時だ。皆、人生の短い春を謳歌せよ」
王は分厚い掌を掲げる。人々は自然と頭を下げ、彼の言葉に畏敬の意を示した。
普段の謁見であれば、この後は身分の順に王に拝謁する。今日は春分の儀式とあって春の精役である未婚の娘達が最初に祝いの口上を述べることになっていた。
「口上はアナトリー卿の娘がする。お前は黙って挨拶をすればいい」
兄の言うアナトリー卿の娘ベリンダはなるほど今日の主役を務めるにふさわしい美しい娘だった。
最前列中央に進み出て淑女らしく静かにお辞儀をする。明るい金色の髪に菫色の瞳、薔薇色の頰に小さな唇の小作りな顔は溢れる若さを表現していた。
ただ一つの難点があるとすれば、キュッとつり上がった気が強く賢しげな目尻と眉。見た目の通りに娘ははきはきと口上を述べた。
「春の娘達よ。恵みを寿ぐお前達の顔を我らに見せてくれ」
最初の言葉よりも幾分か和らいだ王の言葉に、春の精達は顔を上げる。わずかなどよめきが周囲の貴族達から上がった。
顔を上げたラシェルはきゅっと口元を引き締めた。王の玉座の後ろに、カイル王子が立っている。向こうもこちらに気付き、うっすらと微笑んだようだった。
第二王子の彼の隣は空席になっている。……第三王子は不在のようだ。彼の席を空けてその隣に第四王子、まだ少年の第五王子、まだ幼い第六王子が母とともに座していた。
王への謁見が終わると、場所は儀礼の間から大広間へと移った。
巨大な机が並べられ、燭台に明かりが灯されている。そのテーブルの上に次々と料理が供された。
ワインにパン、フェルラの食堂では見たことのない牛肉の煮込み料理、パイで包まれたキノコや野菜、甘い菓子が所狭しと並ぶ眺めは壮観だ。見ているだけでお腹がいっぱいになったラシェルはフォークを皿に置いて兄に訊ねた。
「兄様、第三王子の姿が見えないのですが」
オーウェンはゴブレットに口をつけながら頷く。
「そういう方らしい。私が宮廷に来る以前にすでに第三王子、アスタム公は城にいらっしゃらなかった」
「城にいない?」
「公は王位継承権争いに乗り気ではない。十五まで城で過ごされて、ご自分の領地を下賜されたときから公式の行事にもあまり顔を出されないそうだ。王太子の喪に服されるため、今は城に戻られているそうだが」
「第二王子の敵ではないと?」
「いや、それはわからん」
ゴブレットをテーブルに置き、兄は人目に見られぬようラシェルの耳元に口を寄せた。
「アスタム公に野心はないかもしれぬが、公の母親とその生家は怪しいな」
「第三王子の母親……というと、王妃ですか?」
「第三王妃ゾーイ・ナルキッソスだ。ナルキッソス家は元は地方豪族の一人に過ぎなかったが、あっという間に昇進して先王の妹リーリウム様との結婚を許された。その父親の元に生まれた王妃はかなりの野心家だ」
目線で示された先には王族達が座る席があり、その中でも一際美しい女がいた。彼女は取り巻きらしい貴族の耳打ちに楽しげに相槌を打っている。何か愉快な話をしているらしい笑い声がラシェルの席まで聞こえてくる。
「隣にいるのは西の隣国ヴィエイユ・モーの貴族だ」
「モーの貴族と王妃が親しいのですか?」
「ヴィエイユ・モーは南のブリヤルソルの侵攻を防ぐクレスケンスの後ろ盾だ。国王もまずい扱いはできぬ」
「複雑ですね……」
ちらりと目線を送った後、ゾーイ妃よりもさらに気になる話を切り出した。
「それと、あの、兄様。第六王子は元から、ああいうお方なんですか……?」
目をやった先には、先ほどの儀礼服姿とは違う服に着替えたというか、変身した幼い王子の姿がある。
身に纏ったドレスは王子の幼い見た目を愛らしく引き立てている。引き立ててはいるが、違和感がないのが逆に恐ろしかった。かつらまであつらえているところを見るあたり、女装慣れしている。
兄は見慣れているようで平然と言い切った。
「セシル殿下はああいうお方だ。お母上と二人揃って野心はないと言われているが、ああ見えて頭は切れる。本人たちは欲がなくても周囲の動き次第で脅威になるだろう」
ゾーイ王妃ほど興味がある話題ではないらしく、オーウェンはナイフとフォークで肉を切り分ける。もう一度セシル王子を見やり、少女趣味の桃色のドレスと金髪のかつらにくらくらしながら食事に意識を戻した。
ゆっくりと時間をかけて晩餐が終わると、ゆったりと静かな音楽を奏でていた音楽家たちが楽器を置いた。
上座に置かれた王族席の中央から王が短く演説する。
「儂は喪服のままだが、王子達にはこの通り、宴を楽しむように着替えさせた」
王の言葉に第六王子がドレスの裾をつまんでお辞儀をすると、ささやかな笑いが起こった。厳しく叱責しないあたり、国政に関わるつもりのない息子だからか、末っ子可愛さか王も目こぼししているのかもしれない。
銀のゴブレットを掲げ、王は声を張り上げた。
「若者達よ! 大いに楽しんで年寄りの憂いを晴らしてくれ!」
楽師達が弦をかき鳴らし、笛を吹く。ダンスの時間の始まりだ。
慣例としてまずは王位継承に近いカイル王子から相手を選びダンスを申し込む。
彼と兄の企み事がただラシェルをダンスの相手に引っ張り出すだけではないことはわかるが、何をしようとしているのか読めない。それでもやるしかなかった。
カイル王子の青い目が広間を見渡し、ラシェルを捉えた。目元が撓み、愛嬌ある笑みが溢れる。
彼はそのままラシェルの元へまっすぐに歩み寄り、手を差し出した。
約束をしているのだと納得していても、一瞬躊躇してしまう。
アレク以外の手を取っていいのか、彼らの策に乗っていいのか。──手を取るしかない。指輪のはめられた王侯貴族の手に手を重ね、席から立ち上がった。
周囲からはどよめきが起こる。嫉妬、羨望、様々なものが入り混じった反応の中、刺さるような視線を感じた。他とは違う、害意の含まれた目線だ。
晩餐の席から進み出て、上座との間に設けられたスペースの中央に立つ。正面からも背後からも注目が集まるのを感じた。身体が強張る。
「大丈夫だ」
潜めた声に振り仰ぐと、カイル王子がこちらに向かって片目をつぶった。
「ゆっくり息を吸って、私だけを見るんだ」
告白にも似たセリフに、音楽が重なる。
ゆっくりとカウントしながら、ステップを踏む。
誘い、追って、逃げて、掲げた手を合わせて回る。触れているはずのカイル王子の手も、踊っているはずの足取りも、ふわふわとして実感がない。
相手が微笑むのに、かろうじて口端を上げる。ただ王子の言葉通りに、深く呼吸し、彼の眉間から目の当たりへ視線を集中させた。見つめるというよりは、そこへ意識を向けて余計なことを考えないようにする。
やがて音楽が鳴り止むと、ほう、と誰かがため息を吐いた。
静寂の中一人、二人と拍手が起こり、徐々に反響していく。
最初それが自分達に向けられたものだと理解できなかった。居心地悪く左右を見回していると、カイル王子がラシェルの手を取る。観客は二人のダンスを評価してくれたらしい。彼に合わせて慌ててお辞儀をした。
地面に顔を向けたままほっと息を吐いていると、歓声とは違うざわめきが広がるのが聞こえた。不思議に思って顔を上げる。
広間の扉が開け放たれて、誰かがまっすぐこちらにやってくる。
赤いダブレット、黒いズボン、茶色い折り返しのついたブーツ。レースや金糸でところどころ装飾されている豪華な衣装を、ひょろりと細いシルエットが身に纏っている。
どこか懐かしさを感じさせる姿だった。ラシェルはぱちぱちと瞬きした。
足元から徐々に目線を上げる。薄い唇、細くまっすぐに通った鼻筋、気難しそうな眉。
ラシェルの愛しい薄氷色の瞳に、朱金の髪。
アレク。喉元まで出かかった名前は呼べなかった。
何故ここにいるのか。どうして。ラシェルの頭の中はいくつもの問いでいっぱいになった。