出立
アレクが去ってから一週間。ロベルが残った荷物を引き取りに来て、屋敷の中に彼の痕跡はすっかり失くなってしまった。
実験器具のなくなった厨房は特に空虚に感じた。
ぼんやりと眺めていると、ロベルが気遣わしげな目でラシェルを見る。
「申し訳ありません。本来なら、もっと長くフェルラに滞在する予定ではあったのですが……」
「いつか、去らなければならない予定が早まっただけのことでしょう? ……大丈夫です」
全くそうは思えなかったが、気休めにそう答えた。上手く微笑めているかどうか、よくわからない。
そんなラシェルに、ロベルは悩んだあと声を潜めてそっと告げた。
「僕は幼い頃からお仕えしてきましたが、あの方は実の母上にも心を許せない生い立ちなのです。それが貴女のそばでは安らかにお過ごしのように見えました。どうか、ひと時だけのことと思わず、あの方の愛情を疑わないでください」
真剣に懇願されるが、どう返したものかわからない。
アレクは何も教えてはくれなかった。
それでも彼に出会わなければよかったとは思わない。ラシェルはぎこちなく頷いた。
すっかり彼の気配が失くなってしまった屋敷に残され、どう暮らしたものか戸惑いながらも、日々は過ぎて行く。それからまた一週間ほど経った。
二週間前の吹雪が嘘のように、日差しの暖かさに春を感じ始めた一日だった。
その日の仕事は港の荷下ろしだった。
潮風と汗でべとつく身体を早く洗い清めたいと思いながら家路を急ぎ、扉を開くと床に泥混じりの足跡が残っている。
自分のものよりも大きい。まさか。
逸る心臓の鼓動を感じながら足跡を辿ると、厨房へと真っ直ぐに続いている。そんなはずはない、まさか。顔を覗かせる期待を否定しながら、息を殺して戸口に立った。
濃紺のローブを纏った長身の後ろ姿。縁には銀糸で飾り刺繍が施されている。豊かな銀色の髪が、背中で波打っている。
「……オーウェン兄様」
アレクではないことに、心のどこかで落胆しながら、ラシェルはその名を呼んだ。
「シェラ。帰りが遅くなってすまない」
振り返った兄は微笑んだ。年の頃は三十手前。眉目秀麗とは正に彼のことだろう。
気品のある目鼻立ちの中の、アーモンド型の瞳がラシェルを見て笑みの形に撓む。どことなく妹に似ているが、骨格は幾分男らしい。滑らかな額の奥には知性が宿っている。
二十にして魔術師が数百年の間に蓄えてきた知識を全て会得した天才だ。
クレスケンスに来るまでは魔術師の国サンティ・グレイルの魔術学院で将来を嘱望されていた。
しかしサンティ・グレイルは二年前にある出来事をきっかけに、魔術師同士で仲間割れを起こして優秀な人材の多くが国を飛び出してしまった。
兄のオーウェンもその一人で、十六のラシェルを連れて出奔し山を越えた。
元々変わり者ではあったが、ある夜寝ているラシェルを起こしてその日のうちに連れ出すまでとは思わなかった。旅支度もそこそこに、妹の意思の確認さえもなかった。兄の中ではラシェルのことは決定事項だったのだ。
文字が読み書きできなければ魔術の真髄は得られない。つまはじきにされていたラシェルからすれば結果的にクレスケンスへ来て良かったのだが、生まれ育った故郷はやはり愛着があった。
「遅いどころの話じゃない。一体どこをほっつき歩いてたんですか」
フェルラに着いて数日もしないうちに兄は王都グラジオへ行くと言って旅立ったのだ。心配もしたし、右も左も分からない土地に放り出された恨みもある。
「話せば長くなる。だが、お陰でこれからはお前に何不自由ない暮らしをさせてやれるぞ」
「何不自由ない暮らし?」
慣れない土地で苦労して荒々しいことも覚えたラシェルである。何食わぬ顔でこれからはなどと言われて、素直に喜べるわけがない。
酒場の用心棒がどんな風に客を追い出すか身をもって教えてやろうかと脅しを込めて眉を跳ね上げた。
「悪かったと思っている。この一年、大変だっただろう。――同居人はどんな人間だ?」
オーウェンはテーブルの上に静かな目を落とした。
エマを助けた儀式の跡がそのまま残っていた。
片付けようとすると胸が苦しくなり、どうしても出来ない。
「……出て行きました」
語尾に滲む悲嘆に気付いたのか、兄はラシェルのそばに寄り肩に手を置いた。節の長い指が肩をしっかりと掴む。
「ならば別れを惜しむ相手はいないな? 共に王都へ行こう」
「王都へ?」
「この一年、私はただ出稼ぎに出ていたわけではない。自分の能力を十全に活かせる場所を手に入れるために動いていたのだ。私は今王都で、第二王子カイル殿下にお仕えしている」
「は……」
誇らしげに微笑む兄に驚いて言葉が見つからない。今まで何をしているのかと思ったら、まさかそんな大それた就職先に収まっていたとは。
「ま、待ってください。いきなり王都と言われても」
「明日には発つ。第一王子が亡くなられて、殿下にも王位を継ぐ機会が巡ってきたのだ。これから忙しくなる。今のうちにお前を迎えておきたいと思ってここまで来た」
「急すぎます」
「殿下にはお前のことも話してある。そのうちお目にかかれることもあるだろう」
「兄様、私の話を聞いてください」
母国を出たときと全く同じだ。混乱するラシェルを強引に巻き込もうとする。
「何だ? ここに留まる理由があるのか?」
「それは、」
返す言葉に詰まり、唇を噛み締める。
ここで待っていても、アレクは帰ってこない。
フェルラで暮らして知り合った人たちもいるが、この場所には彼との思い出が多すぎた。
不思議なことに、兄はそうした気持ちをすぐに見抜いてしまう。
「世話になった人達に別れを言ってくるといい」
「……はい」
テーブルの上の紙片に目を落とす。赤いアレクの手跡はゆらゆらと揺れて読めない。
円形に囲む水晶の破片が輝くと、濃い影を作る。
張り付く喉でやっと答え、ぎこちなく頷いた。