別れ
ラシェル視点です。
その日は朝から特に寒い吹雪の日で、窓の外が白く霞むほどの雪が吹き付けていた。
外に出れば前も後ろもわからなくなるだろう。出掛けるのは諦めるしかない。当然、訪ねてくる者もいないだろうと思っていた。
硬い扉が叩かれる音が重々しく屋敷の中に響いた。
不思議に思いながら扉を押しあけると、濃紺の帽子を被り、茶色い毛皮のマントを纏った青年が立っている。肩にはうっすらと雪が降り積もっていた。焦げ茶の髪と瞳に、ほんの少し上を向いた鼻やそばかすの浮いた顔がまだ幼さを残している。
「アレクサンダー様はいらっしゃいますか?」
帽子を外すと男はそう訊ねた。ちらりと見えた袖は帽子と同じ濃紺で、銀糸の縁取りとボタンが縫い付けられている。貴族の家の伝令だろうか。
ラシェルは玄関に招き入れ、男を待たせて二階へ上がった。
ベッドの上で本に夢中になっていたアレクに知らせると、嫌そうな顔をする。クッションにだらりともたれかかっていた手脚を子供のように縮めた。
「ここへは来るなと言っておいたのに」
「私はあなたの名前がアレクサンダーだと知ったのもたった今ですよ」
「自分の長ったらしい名前が嫌いなんだよ。今は忙しい。追い出せ」
「この吹雪の中を?」
エマを助けたように、何だかんだと言ってもアレクは無責任なことはしない。ますます強くなっている吹雪の中に放り出せばどうなるかわからない。咎めるような口調になってしまった。
「馬で来たなら平気だ。吹雪の中も方向を見失わない」
「そうは言っても……」
「急ぎの知らせがあるのです、アレクサンダー様」
振り返ると、マントを腕にかけた青年が入り口に立っている。ひんやりとした外の空気がまだまとわりついているようだ。その姿にアレクは片眉を持ち上げた。
「ロベル」
「お久しぶりでございます」
丁寧なお辞儀にはただの使者とは思えない優雅さが漂っていた。薄水色の瞳でじっと見つめると、アレクはゆっくりと口を開いた。
「……何の用だ?」
「私と共に来ていただきたいのです、アレク様。火急の用で参ったのです」
「大学を出るまでは自由のはずだ」
アレクがそう返事するのも予想済みだったようで、青年はコートの裏から一つの封筒を取り出した。中央には赤い封蝋が捺されている。
「全ての事情はこちらに書かれてあります。お読みになってから、考えてください。出発はなるべく早くに」
アレクはロベルと呼んだ青年を睨みつけた。怯まず差し出された封筒を引ったくり、乱暴に封を開ける。
中から出てきた手紙に目を走らせるうちに、アレクの表情が強張った。支える力を失ったように、ベッドへ寄りかかる。
「兄上が……?」
ラシェルはアレクと青年の顔を交互に見比べた。ロベルも同じように硬い表情でアレクを見守っている。何か悪いことが起こったのだ。胸の中にひやりとしたものが過ぎる。アレクはきっとこのまま行ってしまう。
「しばらく、二人にしてくれ。ロベル」
アレクはそう頼むのがやっとのようだった。背中が拒むように丸められている。ロベルは何も言わず、一礼をして部屋を出て行った。
二人きりで残された部屋で、彼に近づいていいものか迷った。アレクサンダー。たった今まで彼の本当の名前さえ知らなかった。本当のことは、何も知らない。
それでいいと思っていた自分が浅はかに思えた。手を伸ばせば触れられる近さにいても、そこにいるのが本当の彼かどうか、わからない。
「ラシェル」
名前を呼ばれてどきりとした。縋るように聞こえた。
ゆっくりと振り返ったアレクは眉を寄せ、険しい顔で苦悩していた。薄氷色の瞳には悲しげな色が漂っている。たどたどしく手が差し伸べられた。寄る辺ない幼子のように見えて、思わずその手を取った。
「兄が、死んだ。……元々それほど顔を合わせたことはないが、俺に優しくしてくれた」
悲しむ気持ちと、呆然とした思いがせめぎあっている。平静を保とうとして失敗した姿が痛々しかった。
赤みがかった金の頭に両手を差し入れ、胸に抱き寄せる。震えて力無い腕が背中に回された。
「俺は薄情だな。こんな時に、ここを離れたくないと思ってる」
低く呟いた言葉にラシェルは首を振った。
「薄情なもんですか。今貴方はとても悲しんでいる。なのに残される私の心配もしてくれている」
アレクは震える息を吐き出した。
「……そうか」
彼の髪を撫でながら、ラシェルは別れを予感していた。元から住む世界の違っていた者同士、もう二度と会えないだろうことも。感傷を気取られたくなくて、口を閉じる。
どれほど時が経っただろうか、アレクはラシェルの背中をきつく抱き寄せた。
「ラシェル。お前を置いていけない」
返事は出来なかった。二人とも現実にはそう出来ないことをわかっている。彼は元いた世界へ戻り、ラシェルは彼と出会う前の日常へ戻る。
ただ気持ちは同じだと伝わるように、強く抱きしめ返した。顔を上げると、薄青の瞳が切なげに揺れている。その目が訴える感情を読み取って、応えるように瞼を閉じると、唇にそっと温もりが重なった。
初めての口付けが、最後になるとは思わなかった。
「すまない」
深刻な顔をしたアレクに微笑み、頰に触れる。日に焼けた肌、まっすぐな鼻筋、薄く整った唇、ひとつひとつを記憶に刻むようになぞった。
「謝るなんて、貴方らしくない」
それを合図に、もう一度口付けが降ってくる。
アレクは自分のことは何も語らなかった。二人してシーツに包まりながら、窓の向こうの吹雪が穏やかになり、明るくなっていく様を静かに眺めた。もうすぐ人が起き出す頃合いになって、彼はベッドサイドからあるものを取り出した。
「俺の持っている物で、自分の物だと言えるものはほとんどない」
そう言いながら、ラシェルの左の人差し指に指輪を嵌めた。古いものだが、銀の台座にルビーの石がはまったものだった。何か文字が彫られている。読もうとしてもラシェルには彫られた模様ごと歪んで見えて、よくわからない。
「それは、母方の祖母が俺に譲ってくださったものだ。もう絶えてしまった家の印章で、他に使う者もいない」
「こんな、大切なもの」
「持っていてくれ。他にはお前に何もしてやれない」
アレクは寂しげ微笑む。彼の節張った指が労わるように涙の通った道筋を辿った。
夜が明けて、吹雪は止み、太陽が雲間から顔を覗かせた。旅立つ支度は早かった。身なりを整えて、必要なものだけを持っていく。残りは使者のロベルが片付けに来るそうだ。
厚いマントを羽織ると、アレクはロベルの引く馬に跨り、雪の積もった道を行く。二度ほど振り返ったが、手も振らずにまた正面を向いて、やがてまっすぐ前を向いて去っていった。
その後ろ姿が小さくなるまで見送り、ラシェルは一人屋敷へ戻る。すっかり冷え切った身体を抱きしめて、その場に蹲った。
堪えていたものが溢れ、涙が堰を切って流れる。嗚咽が漏れて、様々な感情が胸の中で暴れる。悲しみ、寂しさ、後悔。
たった今やっと得られた半身をもぎ取られた痛み。
どうすれば楽になるのかわからず、ただ泣いて泣いて、声が枯れ、涙が涸れるまで泣いた。