表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王と魔術師の国  作者: 虎子
4/14

愛と死と、

今回も説明パート入ってます。

 しばらくして、日が暮れる頃にラシェルが戻ってきた。腰には革帯に細身の剣が吊るされている。


「用心棒を頼まれたんです」

「跳ね馬亭か?」

「ええ。夜にはまた戻ると言ってあるので、その前にこれを。一緒に食べようと思って」


 抱えていた紙袋を広げながら、ラシェルは頷いた。寒い中、急いで崖の上まで駆けてきたのだろう。頰は白く、鼻の頭は赤くなっている。

 手で温めるように触れると、なめらかな頰があっという間に赤く染まった。恥ずかしそうに顔を逸らし、いそいそと食器棚から皿を取り出す。

 跳ね馬亭は町にある酒場だ。亭主が亡くなって妻と娘の女ばかりで切り盛りせねばならず、稼ぎも少ない。屈強な男の用心棒を雇う金は無い。そこでラシェルに仕事が回ってきた。

 彼女たちはラシェルが女だとわかっても、変わらず雇い続けている。女ばかりの店は用心棒からも足元を見られてしまう。他に選択肢が無いのだ。けれど、ラシェルも給金の分は報いようと真摯に働いている。

 紙袋から跳ね馬亭自慢の揚げ魚や蒸し野菜、深皿に入っていたスープを取り出し、手早く更に盛り付け食事の準備をする。

 もともと使用人たちが数人がかりで下ごしらえや調理をするだろうテーブルが、蒸留装置と先ほどチョークで描いた図、先日の紙片と水晶の粉がごちゃごちゃと散らかっていた。

 アレクの実験はいつものことなのでラシェルは頓着しない。皿を並べれば残された隙間はほとんど残っていなかった。

 二人とも慣れたもので、テーブルの角に斜めに向かい合うように座る。


「美し糧よ」


 木製の盃に蒸留酒を注ぎ、機嫌よく掲げる。ラシェルも苦笑して白湯の入った盃を差し出した。


「美し糧よ。――宗旨替えでもしたんですか?」

「子供たちに講義してたんだ。エマの祖父さんは両方唱えるらしい。俺もそうするかな」

「ああ。私のところにも来ました。スルトに口を縫い合わせる呪いがあるのかって聞かれたんですが、貴方何を言ったんですか?」

「ちょっとした脅しをな」


 それで察しがついたのか、ラシェルは目を瞬かせた。長い睫毛が蝶のように羽ばたく。

 ふとしたときに彼女の美しさに気付き、一瞬後には少年めいた雰囲気に忘れさせられてしまう。ラシェルはそういう女だった。自分の美貌には全く頓着していない。ここが都ならば、美しく着飾れば男どもが放っておかないだろうに。

 男ども。そこで思い出し、アレクは苦虫を噛み潰したような顔になった。

 跳ね馬亭常連の男に、ラシェルに言い寄っている奴がいる。

 彼女の格好に騙されない人間はスルトだけではない。そして先入観にとらわれない奴ほど入れ込みようが熱心だ。

 面白くない気分でフォークで魚をむしり、口を開いた。


「跳ね馬亭なら、俺も行く」

「貴方も?」


 言外に珍しいと言いたげだ。


「俺がいると都合が悪いか?」


 ほとんど一日中家に引きこもって書をめくっているか実験をしているか、寝ているかなのでラシェルのその反応も仕方がない。


「そうですね。店では荒っぽいこともしますから」

「今更だろ。俺なら隅で大人しくしておく」


 跳ね馬亭は下町よりも大学街に近く、寮の食事に飽きた若い男たちが多い。

 暴れる者はそれなりにいるし、若さのせいか酒量をわきまえず迷惑千万な者もいる。そういう連中を腕力で片付けるのが酒場の用心棒の仕事だ。当然荒事になることもある。

 アレクの言葉にラシェルは大きく嘆息した。細い肩を落として物憂げに俯く。


「そうじゃなくて……男を投げ飛ばすところを見られたくないんです」


 あまりにも殊勝なセリフに、つい吹き出してしまった。彼女は美しい顔を険しくして睨む。

 男の格好をして男に混じって力仕事をしても平気な女が、自分にだけは女らしく見せたがる。


「可愛い奴め」

「なっ、また、からかって」


 顔を覗き込むと、ラシェルは赤面して眉間にしわを寄せた。スープの皿をスプーンで意味もなくぐるぐるとかき混ぜる。

 口調こそ大人ぶった敬語だが、仕草や考えはまだまだ幼く素直だ。お世辞ではなく、可愛いと思っている。

 アレクはフェルラの大学の学生だ。真似事でもいいと思って入学したが、当然本物の魔術師に出会えるわけがない。

 空虚な大学生活の中、下町に魔術師がいるという噂を聞いて訪ねた。

 その魔術師こそがラシェルの兄なのだ。しかし、生憎彼は今王都へ出稼ぎに出ている。

 最初は大学の寮から今日こそは戻っているかと通っていたのだが、二度三度と通ううちに面倒になり、崖の上に家を(家主の了解は得ていないが)借りた。そうこうするうちに、女の一人暮らしは心配だと(多少強引に)ラシェルと暮らし始めた。

 もうこの時点で当初とは勝手が変わっている。彼女の兄が妹想いならアレクに魔術を教えるどころか、呪いをかけるだろう。


「お前がドレスを着てようが、ダブレットにズボンを着てようが、お前はお前だ。他の奴なんかどうでもいい。でなけりゃ一緒に暮らしてない」


 むず痒さを誤魔化すようにスープの皿へ視線を落とす。ラシェルはこちらを見て目を瞬かせた。


「アレク……ありがとう」


 ゆっくりと白い面に笑みが広がる。同居人としての好意はあると受け取って、今はそれでいいと納得したのかもしれない。

 もう少し調子に乗ってもいいのに、ラシェルは一事が万事こうだ。物分かりが良すぎる。唸りたいところをスプーンをかじって耐えた。

 食事を終え、二人は跳ね馬亭に向かった。外はすっかり暗くなっていて、雪の降った地面からの冷気と海風でますます身にしみる寒さになっていた。マントの襟に首元を埋め、自然と足早に道を急ぐ。


 跳ね馬亭は大学のある中心街の城郭をくぐってすぐのところにある。凍える中をやってきた者からすれば、店から溢れる橙色の明かりと熱気は楽園のようだった。

 今夜の跳ね馬亭はそこそこ賑わっていた。

 店について早々、アレクはエールで喉を潤した。注がれた杯を手に店の喧騒を眺める。

 烏の濡れ羽色をしたローブをまとった男がそこら中を埋め尽くし、異様な雰囲気だ。


「第三王子はいつになったら授業に出席されるのだ?」

「教授を議論で煙に巻いたのは実に見事だった」

「サンティ・グレイルの魔術師に会いに出かけたらしいぜ、アスタム公は」

「無謀もいいところだ。山を越えてか? この雪の中を?」


 大学の人間は学生も教授もみなローブを纏う。

 構内では真面目に学問を語り合う者たちも、ここでは俗世間のことに興味津々だ。

 ローブも着ていない、授業も気まぐれに顔を出していたアレクを知る者はここにはいなかった。

 難しい言葉を並べ立てて議論する連中の間を、ラシェルが皿や杯を手に行き来する。彼女は給仕を手伝って忙しく働いていた。

 客がほろ酔いで騒ぐ声も大きくなってきた頃。扉が開き、一人入ってくるものがいた。

 その青年の姿が見えた時アレクは思わずげっと呻いていた。

 年の頃は十七、八だろうか。他の学生とは違い、片手にローブを持って肩に引っ掛けている。その気取った姿に見合う端正な顔立ちに、柔らかくカールした栗色の髪。深緑のダブレットは一目で仕立ての良さがわかる。

店の娘たちが頬を赤らめ瞳を輝かせ、男たちは杯を突き上げて彼を歓迎した。人好きのする男だ。本人もわかっていてそう振る舞っているのだろう。


「やあ、ラシェル」


 歓迎には軽く手を振って、男は真っ直ぐにラシェルの元へ歩み寄った。

 周囲の好意をわかっていて自分の思うように振る舞う。どこかの領主のような堂々とした態度だ。実際に何とかいう子爵の息子らしいが、アレクは聞いて一瞬後には忘れた。

 フェルラは身分の上下はないが大学出身者には王都で役人をしている者も多いので不思議はない。


「クリス。いらっしゃい」


 木の杯と皿を片手に立ち止まり、ラシェルはにこりと営業用の笑みを浮かべた。


「君がいるって聞いて来たんだ」

「そうなんですか。どこに座りますか? ご友人のところ?」

「いや、今日は一人でいたいな。暇になったら僕と少し話ししてくれないか?」

「いいですよ。席はこっちへ」


 白い手のひらでアレクの隣を示す。クリスはこちらに気付くなり嫌そうに眉をひそめた。


「君も来てたのか」

「お楽しみをお邪魔して申し訳ないね」

「相変わらずラシェルにばかり働かせてるんだな。男の風上にも置けない」


 エールを運ぶ彼女の背中にちらりと目線をやって、彼は低く吐き捨てる。アレクを見ると皆同じことを言う。肩を竦めて応戦した。


「あいつが甲斐性なしの俺でもいいと言ってるんだ」

「彼女を解放しろ」

「部外者は黙ってろ」

「ヒモめ」

「くそボンボンが」


 睨み合うと、ドン、と大きな音を立てて杯が目の前に置かれた。


「ウチは酒と食事を楽しむところだ。喧嘩はよそでやってくんな」


 エプロンを掛けた女がドスのきいた声で釘をさす。


「すまない、エリナー」

「姐さん、悪かったよ」


 跳ね馬亭店主のエリナーは腰に手を当てて分かればいいと頷いた。二人の娘を産んで年こそ中年だが、見た目は肉感的で日に焼けた肌が健康的な女性だ。彼女は背後でチラチラとこちらを伺っている娘たちを指差す。


「クリス。ラシェルばかりじゃなく、たまにはうちの娘にも声をかけてやっておくれよ」


 クリスは申し訳なさそうな顔で微笑む。


「心にもないことはできないんだ」


 聞いているこっちの歯が浮きそうだ。音を立ててエールを啜った。


「残念だよ。いい男なのに」


 エリナーは毎度同じ返事に苦笑しながら手を振って去っていく。


「いい男がヒモなんて言うかよ」

「ヒモをヒモと呼んで何が悪い」

「惚れた女が別の男に尽くしてるのが悔しいんだな」

「悪い男に騙されているのを救おうとしているだけだ」


 きっぱりと言い切ったクリスの表情は正義感に溢れていた。心の底からそう信じて疑わないのだろう。思わず鼻で笑った。


「悪い男、ねえ……」

「大学の学生らしいが、どの教授の弟子だ? 見たところ貴族の出だろう。金ならある癖に、彼女に働かせて申し訳ないと思わないのか?」

「金はあっても俺の金じゃない。お前もな」


 クリスは不満そうに唇を曲げた。


「僕の金じゃないとしても、あるものは使えばいい」


 貴族らしい図々しさだ。こいつがそのうち領地を経営するようになって、その時に果たして同じ考えであるものは使えばいいと言えるものか。呆れてまともに相手をする気が失せてしまった。


「お前と話していると馬鹿になる」


 何か言いたげに口を開こうとするのを遮るように手を振っていると、背後から大きな物音がした。

 乱暴にテーブルを叩く音、怒鳴り声。何事かと振り返ると、下町のやつらしい身体の大きい男が椅子から立ち上がり、ローブ姿の学生に掴みかかって脅している。喧嘩か。怒鳴り声とは反対に店内はシンと緊張感で張り詰めた。

 傍らでクリスが立ち上がる。それよりも早く、ほっそりとした人影が進み出た。


「エリナーに迷惑がかかります。その辺でもうやめにしてください」


 自分の倍以上はある体格の男を相手に怯えることもなく、ラシェルは丁寧に言った。酒で理性をなくした男を大人しくさせるにはいささか行儀が良すぎる。案の定男は赤ら顔を彼女に向けて歯をむき出した。


「お嬢ちゃんは黙ってな」


 お嬢ちゃんと呼んではいるが、この場合はひ弱な男子と下品に嘲っているのだろう。やはり大抵の男は服装や髪型で先入観を持つ。

 ふっと笑ってから、ラシェルは学生に摑みかかる男の手首を掴んだ。そのまま無造作に引っ張ったかと思うと男が悲痛な叫び声をあげる。


「いててててて……」


 威嚇のでかさの割に、痛がる声は小動物のようだ。

 そうこうしているうちに、掴んだ親指を後ろに回し、あっと言う間に腕を捻り上げてしまった。


「エリナー、この人どうします?」


 女店主は騒ぎに厨房から出て来ていた。エプロンの上からもわかる張り出した腰に手をやって苦笑する。


「常連だからね。今日のところはお帰りいただくだけにして」

「わかりました」


 ラシェルは男を扉の向こうまで連れて行く。


「悪いねヒューゴー、また来てくんな」


 痛いと喚く男に声をかけ、エリナーは豪快に笑った。


「エリナー、覚えてろよ!」

「酒が入ってなけりゃでかい口きけない奴がよく言うよ」


 威勢のいい店主の言葉に店内はどっと笑いが起こった。


「ありがとうよ、ラシェル」

「いいえ、誰も怪我人が出なくて良かった」


 服についた埃を払いながら戻ってきたラシェルはおっとりと微笑んだ。とても大男を捻り上げて追い出したようには見えない。すぐ隣で感嘆のため息が漏れる。


「彼女を守るために、今以上に鍛錬を積まねばな」

「……」


 スルト以上に典型的な騎士志望だ。アレクはぐるりと目を回して呆れた。


「あいつが大人しく守られるだけの女かよ」

「何を言ってる? あんなに美しい人がこんな仕事をする必要はないんだ! 僕と一緒になってくれさえすればこんな苦労はさせないのに……」

「……お前の騎士道精神には恐れ入る」


 頬杖をついたまま茹でたジャガイモをつつく。アレクの言葉はほとんど無視して、クリスはさらに語り続けた。曰くラシェルは本当はか弱く美しくたおやかな女性で、そして本心では男に守ってもらいたいと思っている。馬鹿馬鹿しい。放っておいたらいつまでも喋ってくれるので、そのままにして少しずつエールを飲み進めた。


 アレクは蒸留酒を密造する癖に酒には弱い。ラシェルを待っている間にうとうととしてしまっていたらしい。

 目が覚めた頃には自分とクリスの間でラシェルがエールの杯に口をつけていた。


「ラシェル、君はこのままでいいのか? こいつは君に色んなことを隠している」


 彼女はアレクが寝ていると思っているのか、ほんのり赤く染まった顔でうっとりしながら赤みがかった前髪を撫でている。


「この人の髪、好きなんですよ」


 ふふ、と何が楽しいのか笑っている。目を開けるタイミングを失ってしまい、狸寝入りを続けた。


「クリス。アレクが悪人だろうが善人だろうが、わたしにはどうでもいいんです。わたしは、アレクが必要だし、今のところはアレクも、わたしのそばにいてくれる」


 ざわめきの中でもよく通る声。ラシェルは酒が入ると舌足らずになる。さっきの調子で彼女を改心させようとアレクのことを批判したらしい。クリスは面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「ラシェル、それは錯覚だ。この男に騙されてそう思っているだけだ」

「騙されているならそれでも」

「君はなぜそこまで……」

「私は元から一人でも平気なんです。ただ、以前からの私に足りないところを、今はアレクが補ってくれる。だから必要なんです」

「足りないところ?」


 それを知ればアレクに成り代われると思ったのだろう。クリスの声に力がこもる。ラシェルは軽やかに笑った。


「教えません。私も弱みは見せたくない。でもアレクは気付いた。気付いて侮るわけでなく、手助けしてくれた」

「僕だって……」


 クリスがさらに言い募ろうとするのを、アレクはわざと伸びをして遮った。


「悪い、寝てた」


 我ながらわざとらしい演技だ。気付いた様子もなく、ラシェルは席を立った。


「帰りましょう。もうそろそろ店じまいですし、エリナーに言って先に帰らせてもらいます」


 女店主から今日の用心棒はもう十分だと送り出してくれたのだろう。あっさりと帰れた。

 クリスがしつこく食い下がったが、そこはラシェルが上手くやる。「おやすみなさい」と微笑ひとつで男を惚けさせるほどの美貌の持ち主だと言うのに、本人はただ挨拶をしただけだと思っている。


 芯から冷える雪の夜道を戻り、屋敷の扉を押し開く。中は暗くしんと寒さに静まり返っていた。

 二階へ登り、暖炉に火を入れている間に、ラシェルは湯浴みをしてくると言ってバスルームへ消えた。風呂好きなところが彼女の唯一の贅沢だ。香水で体臭を誤魔化した女たちと違う、外の空気を染み込ませたラシェルの髪の匂いがアレクは好きだ。

 持ち帰ったランタンをチェストに置き、マントと上衣を脱ぎ捨てた。暖炉の火の様子を見ながら、濡らした布で身体を拭き清める。

 全身こざっぱりする頃に、ようやく部屋が温まってきた。すっきりした身体で寝台のシーツに滑り込む。窓の外を見ると、青い月が庭の木の枝から顔を覗かせていた。

 髪を下ろしたラシェルが寝室に入ってきた。黒い絹糸のように広がる髪はどこまでも黒く、月明かりを弾いて発光するように輝いている。ビロード張りのスツールで濡れた髪を布で拭いながら水気を拭った。それから丁寧に髪を梳かす。横になったまま手枕でその様子を眺めた。

月を人の形にすると彼女の姿になるんじゃないだろうか。時折畏れとともに思ってしまう。

 ラシェルはアレクがいつでも去ってしまうような言い方をするが、彼女こそアレクの元をいつでも去れる。人を魅了するだけして、離れがたい気持ちを置き去りにして姿を消す残酷な月。未だに女として触れられないのは、目の前からいなくなった時の苦しみを恐れているからだ。

 家に縛られた自分とは違い、彼女はどこへでも行ける。二人の間に何かを残すことを避けて、彼女に何一つしてやれないでいた。

 絵画のような光景から無理やり視線を剥がし、枕の下に敷かれたままの本を手に取った。ページをめくるとカビ臭い古い紙の匂いがする。並んだ文字を目で追った。眠気を呼び込むためだけの読書で、内容を頭に入れるつもりはない。

 一ページめくったところでチェストの上の明かりに息が吹きかけられた。

 暖炉の揺れる火だけが頼りになり、寝室は衣擦れの音や息遣いばかりが鮮やかに聞こえる。シーツをめくってラシェルが隣に寝そべった。寄り添うようにアレクの手元を覗き込む。明るい中での添い寝は恥ずかしがるのに、夜闇の中では気にならないらしい。


「何を読んでいるんです?」

「詩集だ」

「詩は好きです。聞かせてください」

「こう暗いと読めない」


 嘘だ。祖父から譲り受けた古い本はもう何度も読み返して諳んじることが出来るほど頭の中に入っている。ページを閉じると、細い指が手に添えられた。


「お願いです」


 ラシェルにとっては誰かに読み聞かせてもらうことがひとつの喜びであり学びだった。

 家族がそばにいる間は不自由しなかったが、兄が旅立ってからは、自分の弱点を簡単に他人に晒す訳にもいかず、孤独な日々だったと言う。


「……わかった」


 アレクは再びページを開き、月明かりに照らして文字を広い読もうとした。けれど流暢に読むには難しい。記憶から呼び出しながら、一編の詩を読み上げる。


「『時よ、お前は残酷な恋人だ。お前の温もりに身を任せ、幸せな日々を過ごせたなら、私は何も知らぬまま年老いることが出来るのだろう――』」


 肩に小さな頭が寄せられた。ラシェルの髪の香りが広がる。温もりを感じながら、アレクは囁くように詩を朗じた。数節詠みあげところで、詩集を手にしていた腕を下ろす。


「たまにはお前の話も聞かせろよ」


 暗闇の中でラシェルが頭をもたげて瞬きする気配がした。


「私の?」

「サンティ・グレイルはどんなところだ?」

「わかるでしょう? ここより北で、雪国の、冷たい、寒いところです」

「祈りは女神に捧げるんだろう?」

「ええ、母なる女神と、角ある男神に。男神は女神の美しさに恋をしていましたが、死を司る男神を女神は憎んでいました。彼女が愛する生きとし生けるものは皆必ず死んでしまいますから」

「女神は生を司っている?」

「はい。それで、女神はある日男神に詰め寄りました。『お前が私の愛するものを全て殺すのならば、私のことも殺してみせろ』と」

「挑戦的だ」


 仰向けになって頭の上で両手を組むと、傍らのラシェルが頷く。


「男神は殺すつもりはありませんでした。女神の美しさに見惚れて、つい口付けてしまい、彼女の命を奪ってしまいました。冷たくなった女神を見て嘆いた男神は、息を吹き込もうと口付けて、四度目に女神は蘇りました。生まれ変わった彼女の目には、男神は雄々しく輝いて見えたそうです」


「それで夫婦になった? 自分を殺した相手と?」

「神話ですから。書物にだって調べれば載っている話なんでしょう?」

「実際に聞くと興味深い」

「お世辞はもういいです」


 拗ねた調子の声に喉の奥で笑い、彼女の髪をそっと撫でる。


「つまり、お前たちは生まれ変わりを信じているのか?」

「少し違います。愛と死と生まれ変わり、三つが人生にはあると信じています。愛するためには、生まれ変わらなければならない。生まれ変わるためには、死ななければならない。生まれ変わって愛する人を見つけるためには、愛さなければならない……」

「ややこしいな」

「この三つを支配すれば、魔術に長じるとも言いますから……」


 月明かりに慣れてきた目には、ラシェルが心地よさそうにうとうとと目を閉じる様子が映る。


「愛と死、生まれ変わり、か……」


 アレクの呟きに、返事はなかった。


ウィッカの教科書参考にしています。『バックランドのウィッチクラフト 完全ガイド』

現代の魔女、魔法使いとしての宗教をウィッカと呼び、歴史に始まり、宗派、道具の作り方、魔法陣の作り方、ルーンの書き方とか書かれています。入門書には向いているのかな。

完全に頭に入れているわけではないし、参考書内に無いやん、とか正しく無いやん、という部分があっても、創作していく上である程度いじっていると思って容赦してもらえれば幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ