午睡
エニシダの枝を手に走って行く小さな背中を見送り、厨房へと戻る。
アレクはテーブルの上、たった今書き換えの儀式が終わったばかりの札にじっと目を落としていた。窓から差し込む正午の光で朱金の髪は輝いている。
「オリキュレール……」
「知り合いですか?」
考え込むように呟いた同居人に尋ねると、否と首を振った。
「貴族の知り合いなんているわけがない」
そのセリフは嘘だろうと思っている。鼻に付くアクセントやちょっとした身のこなし。アレクはどう見ても貴族だった。それもかなり洗練された育ちだ。
田舎貴族の知り合いはいないと否定したのか、貴族の知り合いなんて欲しくもないと思っているのか。
身の上話を一度もしない彼のおかげでラシェルも言葉の裏に想像をたくましくするようになってしまった。
「寝る」
ラシェルの邪魔が入ったせいで興味を失ったのか、アレクは腕を上げて猫のような伸びをした。
「おやすみなさい」
何気ない言葉に、薄氷の瞳が恨めしげにこちらを見た。
冷たい色の中に混ざる甘やかなものに、どきりと心臓が跳ねる。一年以上ともに暮らしてきたと言うのに、時折見せる彼のこうした空気には慣れない。
「独り寝させるつもりか?」
掠れた低い声が耳をくすぐる。理解するより早く頰がかっと熱くなった。ラシェルの返事を待たず、荷物のように抱え上げてしまう。
「ア、アレク!」
「叩き起こされてすっかり眠気が吹き飛んじまった。添い寝くらいしてもらわないとな」
「でも、まだ仕事が……」
「今日は店仕舞いにしろ」
「横暴な」
「嫌か?」
面白がるような顔で覗き込んでくる。断られると思ってもいない。
アレクは整ってはいるが、とびきり美形というわけでもない容貌だ。負けず嫌いそうな生意気な目元や皮肉屋な薄い唇、神経質そうな指先。
彼の長所ではなく短所に惚れてしまっているのだからタチが悪い。ラシェルは諦めて彼に身を任せた。
アレクは時折よろけながら階段を登り、主寝室の扉を行儀悪く足で開ける。
ずかずかと寝台まで進み、これまた荷物のように放り投げられた。柔らかい寝台に受け止められて慌てていると、乱暴にブーツを引っ張って脱がされる。つま先が靴から解放され、心地よい。
そう思えたのも一瞬で、次は上衣のボタンに手をかけられて慌てた。
「アレク、自分で出来ますから!」
顔中に血がのぼった。早足で鳴る心臓の音を身の内に聴きながら、震えそうな指でボタンを外す。
やがてシュミーズ一枚の心許ない姿になったラシェルを男の腕がすっぽりと抱え込み、寝台の上に寝転がった。背中のぬくもりとともに耳元で満足げな溜め息が聴こえる。
指先がラシェルの黒い髪を梳かしていく。覚悟を決めてもうどうにでもなれと思うのに、アレクは一度としてラシェルを求めたことはなかった。
ラシェルのつむじに顔を埋めたまま、アレクがふと笑った。
「よく考えたな。死の呪いを護りの呪いに書き換えるとは……」
たった今まで死にかけていた少女にかけられていた呪いを間近で目にして興奮しているらしい。
「貴方がいたから考えついた手ですよ。私だけなら燃やして終わりです」
アレクは少しだけ身体を離してラシェルを覗き込んだ。ムッとしているようだ。
「お前は自分の分を主張しなさすぎる」
「そんなことないですよ」
「欲がない」
ラシェルは声を立てて笑った。
「何がおかしい」
「貴方がそんなに私を心配してくれるなんて」
「違う、呆れてるんだ」
なおも笑いながら、自分を包む男の胸へ額を擦り付けた。
雪面を反射して寝室に差し込む昼の光が、ラシェルとは違う骨太な肩や腕の輪郭を照らしている。
「欲ならありますよ。この土地でずっとこうして暮らしたい」
しばらくしてから、溜め息のようにそう返すと、いつの間にか瞼を閉じていたアレクが重たそうに片目を開く。
「お前、それは欲とは言わねえよ……」
眠たそうに枕に顔を埋めながら口角を釣り上げる。
ラシェルは彼の頰に落ちかかった髪を優しく搔き上げてやりながら、そっと囁いた。
「おやすみなさい」