想い
アレクサンダー・ゴードウィン・フレデリック・コルネウス・アスタム。
それがアレクの名前だ。
王位を継ぐつもりはないアレクは十五の歳に父王からアスタム領を拝領した。故に宮廷では第三王子よりも、アスタム公と呼ばれる。
春分の宴に訪れた貴族はアレクの姿にざわめいた。
自領から滅多に出てこない彼はたいそうな醜男ではないかと噂されていたのだ。第二王子には劣るが、アレクと似合いの年頃の娘を持つ貴族たちは気色ばんだ。
アレク。ラシェルは名前を呼ぼうとして出来ずに、ただ見つめてくる。
美しく着飾った淑女たちの中でも凛とした空気を漂わせている。白いドレスがそれを引き立て、本物の春の精のようだ。
心臓が早鐘を打っているのは、ダンスを終えたせいだけではない。もう二度と会えないと諦めた彼女が現れた。
手を取り合って踊り、温もりを近くに感じることが出来る。春に鮮やかに萌える緑の目。視線を絡め合わせ、フェルラでの最後の日を思い出すと自然と身体が熱くなった。
彼女に出会うまでの自分は己を欠陥品のように思っていた。
兄弟や父に情はあっても、王座を狙う母は愛せず、これから先も誰かを、特に母と同じ性別の女を愛することはない。誰にも言えない諦めがあった。
ラシェルに出会ったことで、それはひっくり返された。
(お前の存在自体が、俺にとっては魔術みたいだ)
言葉で伝えられない思いを込めて、取り合っていた手の甲へキスを落とした。
周囲からどよめきが起こる。どこか遠い出来事のように気にならなかった。恋愛に疎かった王子が舞い上がっているとでも思えばいい。ただ熱い想いを込めて彼女を見つめる。緑の瞳が熱に浮かされたように潤んでいた。置いて行ってしまったことを恨んでいないのか。歓喜で胸がいっぱいになる。
離れがたく思っていると、兄のカイルが近づいてきた。
「そろそろ代わってくれないか。彼女を見初めたのは私だぞ」
彼らしくない強引さで引き離される。当然のように間へ割って入る傲慢さが今は憎らしい。
ラシェルは一瞬縋るようにアレクを見つめ、そっと瞼を伏せる。
「兄上がた、そろそろオレたちにも譲ってくれないと、他の者たちが踊れないんですが」
いかにも頭が軽そうな口調ですぐ下の弟、レスリーがしゃしゃり出てきた。
王家の血がなすのか、兄弟たちは皆金の髪をしている。レスリーはやや暗い色合いの金髪だ。底抜けに馬……明るい性格に反して、髪色と顔立ちは繊細だ。派手な刺繍と毛皮の縁取りが入ったダブレットも着こなしている。アレクより二つほど年下だ。
レスリーの傍らには同い年くらいの明るい金髪にすみれ色の目をした娘が並んでいる。
「ラシェル嬢ばかりご寵愛なさっては、あたくしどもも妬けてしまいますわ」
澄ました顔で控えているが、こういう女は宮廷では見慣れていた。天使の顔の裏は権勢欲に塗れている。
今も少しでも自分の株を上げていい王子と繋ぎを持ちたいと心の中で舌なめずりしている目つきだ。もしくは、最初のダンスを次の王太子になるカイルと踊ったラシェルへの嫉妬の炎を燃やしているか。
彼女へ視線を向けたラシェルが一瞬眉を顰めるのが視界の隅に映った。
魔術に関して、犬のように鼻が利くと以前に評したアレクだが、あれは比喩で実際に魔術の残滓を嗅ぎ取っているわけではない。微妙な魔力の気配を敏感に感じ取っているのだろう。
「それはすまなかった。皆、これより先は楽しもう!」
兄の掛け声で、楽師たちが賑やかな曲を奏で始める。
それが合図となって、若い貴族や娘たちが踊り始めた。ステップが入り乱れ、男女の楽しげな笑みが交わされる。
アレクはその場を離れ、王族席の自分の場所へ腰掛けた。
「アレク、お主があれほど踊りが上手いとは思わなんだぞ」
「相手が良かったからですよ」
父が目元を和らげて微笑む。
長兄が亡くなって気落ちしていた父王にも今宵の宴は良い気晴らしになっているのだろう。アレクも微笑み返した。
「異教徒ですから、野蛮な術でアレクを操ったのではございませんこと?」
甲高い声が父子のやりとりを遮る。顔を向けてアレクは後悔した。
自分の母親が皮肉げに唇を歪めて笑っている。自分も気が付いたら同じ表情をする。つくづく避けられない親子の縁だ。
「ゾーイ、よく知りもしない相手のことをそのように……」
「よおく存じ上げております。オーウェンはカイル殿下に取り入り、あっという間に彼の副官にまで成り上がったとか。どんな手を使ったのでしょうね」
「お前が知っているのはただの噂だ」
やっと微笑んだ王が閉口してしまった。自分も唇を曲げて彼女から目をそらす。
もういい年だというのに、派手な紅や胸元を大きく見せたドレスは痛々しい。宮廷の淑女の醜悪さを凝縮させた姿が母だとアレクは思っている。
父に窘められて興が削がれたのか、母は席を外してしまった。あんな女でも愛しているらしい、父は寂しげな顔をしている。
アレクは踊りの輪の中にいるラシェルを見つめた。
懸命に覚えたのだろう。ステップに必死で顔に笑顔を浮かべる余裕がなくなっている。愛おしさにくすりと笑いがこみ上げた。
「あの春の精に一目惚れしたか?」
驚いて顔を上げると、父が温かい目でこちらを見ていた。
居心地が悪くなり、行儀悪くテーブルに頬杖をつく。
「カイルよりもずっと前から惚れてる」
「ほう? おかしな話だな。あの娘は今宵初めて宮廷に顔を出したはず」
「おかしかろうと何だろうと……」
アレクはそこから先はゴブレットの中の葡萄酒をすすることで言葉を濁した。
おかしかろうと何だろうと、ラシェルは俺以外の男に渡したくない。
宮廷では言葉一つが命取りだ。アレクだけではない、ラシェルの立場を悪くするかもしれなかった。それならば、多少勘違いさせておいた方が都合がいい。
アレクは背後に控えている青年へ目を向けた。ロベルは幼い頃から共に育った幼馴染みでもあり、若い貴族の中において事情通でもある。
「魔術師オーウェンは自分の妹をどうするつもりだ?」
父王に聞かれぬよう、口元をゴブレットで隠して声をひそめる。
ロベルは茶色い目をオーウェンへと向けた。美しく整った顔立ちの男は娘たちの熱のこもった視線を意に介さず政治活動中だ。あの中性的な顔は男にも有効だろう。
「カイル殿下の婚約者になさるおつもりでは……」
「……」
ロベルはアレクの心境を慮ってか、控えめに答える。
口角を下げて黙り込んだ。オーウェンは魔術の腕を売り込みながら、確実に宮廷で地位を築きつつある。フェルラでは彼に魔術の手ほどきを受けたいと思っていたが、まさか今になって合間見えようとは。
彼の企みには、二つほど心当たりがあった。
一つは、ロベルも言ったカイルの婚約者にラシェルを押し立てること。
もう一つは、今夜の宴で魔術を使える人間を炙り出すことだ。
ラシェルは見た目だけの女じゃない。本人が認めていないだけで、彼女はやはり魔術師の一族だ。
黙考するアレクを心配して、ロベルがおずおずと申し出る。
「アレク様、僕でよければお役に立ちます。お望みでしたら……」
「いや。宮廷でのお前の立ち位置は誰もが知るところだ。繋ぎをつけるにしろ、会いに行く手引きをするにしろ、お前の姿と俺を結びつけるのは容易い。彼女にとってはよくない」
「ですが、それでは今夜この場限りになってしまうではありませんか」
当事者の自分よりももどかしげな幼馴染に、つい声を立てて笑ってしまう。
何故だろう、もう会わないと決めた時より晴れやかな心持ちだった。
「今夜限りじゃ、俺が我慢できそうにない」
踊りの輪の中から抜け出せずにいるラシェルへ目を向けると、彼女と視線がぶつかる。
引き合う力がそこにあるように、アレクは想いを込めて見つめた。