11.巳丘珈琲店
意識が浮上して、瞼をゆっくりと開けると見知った天井が見えた。体を起こして周囲を見渡す。どうやら私はリビングのソファに横になっているようだ。壁にかかっている時計を見れば、意識を手放してからそんなに時間が経っていないことが分かった。
「あっ彩智!目が覚めた?蒼生ちゃんが貧血だって言ってたけど大丈夫?」
キッチンで夕食を作っていたと思われるお母さんが心配そうに駆け寄ってきた。
その心配そうな顔を見て思わず自分の体を触る。触れたのは硬い男の体ではなく、ちゃんと女の子の体だった。いつの間に戻ったんだろう。
「どうしたの?どこか痛む?」
「ううん、大丈夫。えっと、私玄関でどうしたの…?」
恐る恐るお母さんに尋ねる。
「玄関で倒れたの。覚えてない?本当に焦ったんだから。蒼生ちゃんが支えてくれたから頭を打たなくて済んだけど。救急車呼ぼうと思ったくらい心配したんだからね。」
「そっか…心配かけてごめん。」
お母さんに見られる前に私は女の子に戻ったみたいだ。
「いいの。何ともなさそうで良かった。それより何でそんなブカブカな服着てるの?」
男の私に合わせた服装は今の私には大きすぎて、裾が大分余ってしまっている。
「えーと…その、今わざとオーバーサイズの服着るの流行っててさ!兄ちゃんの借りてただけ。」
「へぇー、若い子の中では変な流行りがあるのね。」
雑な言い訳だが、お母さんは若い子たちの流行ということで納得してくれたようだ。
私が元気なことを確認できたからか、お母さんは立ち上がりキッチンへと向かう。
その背中に反射的に声をかけた。
「ねえ!」
「ん?何?」
「…もし私がさ、あの…男の子になっちゃったらどうする?」
「何、いきなり…どういうこと?」
困惑するお母さんを前に勢いで質問したことをちょっと後悔する。
「えっと…その、例えばの話!今日そういう夢みてさ。」
「んー…例えばねぇ。まあ、うちには祥がいるから男の子はもう十分かな。ほら、一姫二太郎って言うでしょ?順番は逆だけど女の子もいたらいいなって思ってたから彩智が生まれた時本当に嬉しかったのよ。」
「…そっか。」
もし、私が男の子になって元に戻れなくなっちゃったらお母さんは受け入れてくれるのかな。お母さんの言葉を聞いて、秘密を打ち明ける勇気を失ってしまった。
自分の部屋に戻ってスマホを見てみると、蒼生から私の体調を心配するメッセージが届いていた。
返信する気力があまりなくて、簡単に『大丈夫、心配かけてごめん』とだけ返してアプリを閉じた。
*
「なぁ詩貴のおすすめのゲーム今さーちゃんが持ってるって聞いたんだけどほんと?」
「持ってるよ。」
「マジで!?もしやってなかったら貸してくれない?」
教室内では相変わらず松原が話しかけてくる。今までは何の中身もない会話だったのが、最近は専ら詩貴についての会話が増えた。
というのも、松原とは映画を観た日以降頻回にメールでやり取りをするようになったのだ。
学校で松原に会うと、高確率で詩貴の話をしてくる。一緒に映画を観に行った話、イチオシのホラー映画が一緒だった話、詩貴からオススメのホラーゲームを教えてもらった話。どれも本当の話だけど、私が松原に話した詩貴の情報は嘘だらけだ。
名前、生年月日、家族構成、通っている高校、住んでいる町、部活動、その他諸々。実在しない人物なんだから当たり前だけど。
詩貴を通して私も松原のことをたくさん知る事ができた。
歳の離れた妹と2つ上のお兄ちゃんがいる事、中学生の頃はサッカー部だった事、将来は学校の先生になりたい事、1人行動が好きで休日は1人でよくぶらぶらしている事。
特に将来の夢が学校の先生だなんてびっくりした。松原って意外としっかりしてたんだなぁ。私には特に夢がないので目標を持っている松原が少し大人に見えた。
松原に対するイメージがここ最近で随分変わった。人って第一印象だけで決めつけちゃいけないな、と1つ勉強になった。
*
とある土曜日の昼下がり、私と春は喫茶店の前に立っていた。
『巳丘珈琲店』と看板が掲げられたその店の外壁は蔦で覆われ、不思議な雰囲気を醸し出していた。築何十年なんだろう…ここが現役で営業中だなんて、通りすがりの人なら思わないだろう。春が見つけてこなければ私も絶対廃墟だと勘違いしていたと思う。
「入口こっちだよ。」
春に案内されて今にも壊れそうな木製の扉の前に立つ。
身長160cmの私がギリギリ屈まなくても通れるくらいの小さめの扉だ。目立たないので全然気づかなかった。
内開きになっているその扉を開けると、中は案外広かった。窓が道路側にしかないから薄暗いけど、店内は暖色系の照明でぼんやりと照らされていて幻想的な雰囲気だ。お店の中にはほとんどお客さんは見当たらない。
春曰く、ここの店主はかなりのミステリー好きらしく、一部の人たちの中では有名なお店のようだ。
確かに店内には変わった置物や人形、その他用途の分からないモノが至る所に飾ってある。
ドアベルの音を聞き、店主がこちらにやってきた。
「いらっしゃいませ。」
お店の様子から勝手に店主は白髪のおじいちゃんみたいな人だと思っていたが、やってきたのは20代くらいの若い男の人だった。肩にかからないくらいの色素の薄い茶髪をハーフアップにしており、耳にはピアスがいくつかついている。服装こそ白いワイシャツに黒エプロンと清潔感ある感じだが、なんだかチャラそうな人だ。…ってこの前第一印象で人を決めつけちゃいけないって学んだじゃん。
私達の姿を見ると、パッと店主の雰囲気が軽くなった。
「えっ女の子2人?珍しいね、しかもめちゃ可愛いじゃん!」
前言撤回。この人は本当にチャラい人かもしれない。
「おいやめろ。困ってるだろ。」
反応に困っていると、カウンターに座っていた男性が助け舟を出してくれた。あれ?でもこの声どこかで聞いたことがあるような…
「神田先生じゃん!なんでいるの!?」
「ん?…えっ芦田と橋元?!」
カウンターに座っていたのは数学の神田先生だった。悠くんのお兄さんだ。
お互いにこんな所で会うとは思わず驚いている。
「えー何奏多、この子達教え子なの?」
わずかな沈黙を店主が破る。
「ああ、担任じゃないけど数学の担当クラスの子。」
「へぇー月夜野高校でしょ?じゃあ2人とも頭いいんだね。」
私たちの通う高校は県内の中では偏差値が高く、歴史が古い自称進学校だ。なので県内の年配の方達からは頭いいのね〜って褒められることも多いけど、実はそうでもなかったりする。
「何言ってんだよ、お前の母校だろ。」
「えっそうなんですか?」
店主のお兄さんも私達の先輩だったみたいだ。っていうより…
「ていうか、店長さん何者ですか?神田先生とどういう関係?」
私が疑問に思ってたことを春が口にする。
「こいつは巳丘建都。俺の高校の同級生。あだ名は『オカケン』。俺は巳丘って呼んでたけど。」
「オカケン?なんで?」
「『ミオカケント』だから間をとってオカケン。」
「なるほど…確かに間はオカケンだけど…」
「なんか、珍しいあだ名の付け方ですね…」
「いや、それだけじゃなくてこいつオカルト研究部の部長だったから。」
「あっ前神田先生が言ってた…!」
思わず春と顔を見合わせる。
「えっ何その反応、奏多変なこと言ってないよね?」
「変な儀式して部室の窓ガラス割ったり、未確認生物捕まえようとして作った罠に教頭がはまって親が呼び出されたことなんて言ってねぇよ。」
「今言ったじゃん!!」
神田先生とオカケンさんはわーわーと言い争っている。仲良さそうだなぁ。大人になってからもこうやって気兼ねなく接することのできる友達がいるっていいなと先生たちを見て思う。私達4人もずっと友達でいられるかな。
「オカケンさんはいつからこの喫茶店をやってるんですか?」
注文したカフェオレを出してくれたオカケンさんに向かって話しかけるが、後ろを向いたまま何も答えてくれない。聞こえなかったのかな。
「『オカケンさん』呼ばれてるぞ。」
神田先生がつんつんとオカケンさんの腕をつつきながら話しかけるとこちらへ振り向いてくれた。
「ん?あっごめん。オカケンってしばらく呼ばれてないから反応遅れた。普通に巳丘でいいよ。てゆうかオカケンって呼び名あんま好きじゃなかったんだよね、なんか絶妙にダサいっていうか…」
「じゃあ巳丘さんで…。」
巳丘さんの気持ちめっちゃ分かる…。春が私のことを『さっくん』と呼んだ時のことを思い出した。
この喫茶店は元々は巳丘さんのおじいさんが営んでいたお店で、5年前におじいさんが亡くなってからは巳丘さんが引き継いたとのこと。だからこの喫茶店にはおじいさんが経営していた頃からの常連さん、そしてオカルト好きな人という2種類のお客さんが来るらしい。
「春ちゃんと彩智ちゃんはどっちのお客さん?」
巳丘さんがカウンターに頬杖をつきながら訊ねてきた。
「そりゃあオカルトのほうですよ!ネットでも話題になってますよ!」
春が興奮混じりで答えた。
「へぇー、そうなんだ。そんなに目立たないようにはしてるんだけどなぁ。」
「目立っちゃうとダメなんですか?」
「いや、ダメじゃないけど忙しいの嫌いだし。毎日ずーっとコーヒーばっか挽いてたらつまんないじゃん。」
気怠そうに答える巳丘さんを見て、神田先生は呆れたように笑った。
「ほんとお前昔から変わってないよな。特に興味のあることにしか本気出さないところ。さっきの台詞、喫茶店店主が言っちゃダメだろ。」
「コーヒーには興味がないんですか?」
さっきの巳丘さんの言葉に引っかかり、思わず直球で聞いてしまった。おじいさんのお店を継いだってことはそれなりに喫茶店に対する情熱があったんじゃないかと思うけど。
「んー…まあそんなにって感じ。この店はあくまでも不思議な噂やモノを集めたり、広めたりする場所としてやってるからね。あ、でも一応喫茶店だしそれなりの物は出せるようにしてるよ
。」
「そうなんですね…」
変わった人だ。この人にとってはオカルトが生活の中心になっているみたいだ。
「あ、もう時間だ。」
神田先生がスマホで時間を確認しながら立ち上がった。
「未来とデート?」
「いや、今日は悠と買い物。」
「悠くんと仲良いんですね。」
「そー、年離れてるから可愛くてさ。色んな物買ってあげたくなる。」
年が10個以上離れているとそういう感覚になるのかな。私達兄妹の場合は2歳差だからしょっちゅう喧嘩してるけど。
「ていうか、未来って誰!?先生の彼女!?」
「まぁな…」
「そうそう、俺たちより3つ年上の美人なお姉さんだよー。」
「おい巳丘余計なこと言うな。」
「へぇーそうなんだぁ。これは大スクープだね。」
「芦田、学校で言いふらすなよ?」
「しませんよー。」
「どうだか…」
神田先生は疑心たっぷりの顔でこちらを見ている。でも、意外と春ってそういうところはしっかりしてるんだよね。
「で、2人はどんな事聞きたくて来たの?」
神田先生が帰った後、巳丘さんは『やっと本題に入れる』とでもいうかのようにキラキラした目で訊ねてきた。
「旧校舎の鏡のことなんですけど、何か知ってます?!」
春もうずうずしていたようで、前のめりになって答える。
「あぁ、あの噂まだ途切れてないんだ!」
巳丘さんはとても嬉しそうに目を細めた。
「知ってるんですか!?」
「知ってるよ。今はどんな噂になってるの?」
「えっと…満月の夜、深夜2時22分に鏡の前で願い事をすると代償が必要だけど願いが叶えられるって。」
「へぇー…」
巳丘さんは口元を手で覆い、何か考えている様子だ。
「巳丘さんの時代も同じ噂でしたか?」
「んー…まあそんな感じ。何で2人は鏡のこと調べてるの?」
「それは…」
今日初めて会った人に秘密を伝えるにはまだ少し抵抗があり、言い淀む。春も同じようでバツの悪そうな顔をしている。
「ふふっ。まあ、無理に話さなくてもいいよ。またおいで。」
巳丘さんは穏やかに笑いながら言った。大人の余裕を感じる。
「ありがとうございます…」
「ここには不思議な物いっぱいあるから楽しいと思うよ。」
改めて辺りを見渡すと、どれもこれも見たことのない物ばかりだ。
「ずっと気になってたんですけどこれは何ですか?」
早速春が辺りを見回して質問した。春が指差したのはカウンターの奥にある黒い球体だった。水晶を飾るように台座の上に置かれている。お客さんが触れないような位置に置いてあり、何か他より特別な物なんだなと分かる。
「あぁ、これは新月の時しか使えないんだよね。」
「そうなんですね…」
あの鏡とは逆なんだな…と何となく思った。
「どうやって使うんですか?ていうかコレなんですか?」
巳丘さんはカウンターの奥から黒い球体を私たちの目の前まで持ってきてくれた。
「うーん…何て言えばいいんだろう…まあ、水晶…かな?これはじいちゃんの代からこの店に置いてあるんだけど、"忘れている記憶を思い出させる特別な力を持っている"って聞いてる。新月の日に手をかざすと、その日の夜に夢という形で忘れていたことを思い出せるって感じ。昔はお告げが聞けるって大人気だったみたいだけど…実際は忘れているだけでただの自分の記憶なんだけどね。」
「へーすごい!新月の日にやってみてもいいですか!?」
春はさらに興味津々な様子で目を輝かせている。
「もちろん。」
「巳丘さんは使ったことあるんですか?」
「あるよ。そんな大事な事は思い出せなかったけど。」
その後もあれこれと巳丘さんのコレクションの話を聞いていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。結局鏡のことはほとんど聞けなかったな…。巳丘さんには他にも色々と聞きたいことがあるしまた来よう。
結局閉店時間まで居座ってしまったため、他にお客さんはおらず、巳丘さんは外まで見送りに来てくれた。
「お邪魔しました!今度オカルト研究会のことも教えてください!」
「ありがとうございました。」
「またねー。困ったことがあればいつでもおいで。」
すっかり陽が落ちてしまったため手を振る巳丘さんの表情が見えず、黒いシルエットのように見える姿が何故か不気味に感じた。
優しくも私を見透かしてくるような巳丘さんの眼を思い出し、ゾワっとしながらも喫茶店を後にした。