俺に従いなさい 2
次にきよみが目を覚ましたとき、目の前には青空が広がっていた。しかし、先程と違って落下感は無く、背中に硬い感触が当たっている。
「地上……? ってわあああ!!」
確認しようと寝返りを打てば、背中の硬いものがそこにはなく、きよみは再び落下する。
しかし、着陸は速かった。
緑色の芝生が、ちくちくと頬を刺す。
「いったた……。もう、ここどこ?」
起き上がって周りを確認すれば、視界に入ったのはいっぱいに広がった緑色の芝生に、その上でフリスビーをする人やキャッチボールをする親子。
どうやら公園のようだ。
きよみは公園のベンチで寝かされていたらしい。
(っていうか何でこんなところに……)
きよみが首を傾げたとき、芝生を踏む音が聞こえてきた。
「調子はどう?」
聞こえてきた声は、先ほどきよみを飛行機から落とした男のもの。
瞬間、カッと頭に血が上り、きよみは勢いよく彼を振り返った。
「あんたね! いきなり何てことを――」
しかし、きよみの威勢はすぐに削がれてしまった。
清潔感溢れる黒い短髪は前髪の部分だけ掻き上げられていて、形よく張り出した額を惜しみなく晒している。頬から顎のラインに掛けて削げた輪郭は、男らしさを演出し、彫りの深い目鼻立ちは、はっきりしていて整然と並んでいる。
要するにイケメンに分類されるタイプの顔なのだが、この男はそれだけではなかった。
やたらと高いところから見下ろす垂れ目がちな瞳は、どこか逆らえない光を放っていた。それは、きよみが座り込んだままの姿勢であるからかもしれないが、背中に太陽の光を背負って威風堂々とする様は、彼が高貴な人であると思わせるかのようだ。
そして、この人物を、きよみは知っていた。
「あれ……あなたは……えっとえっと」
「瀬田。瀬田恵」
「そう、瀬田さん! 昨日の見学者の!」
「ようやく思い出してくれたみたいだ」
目の前の男性はにっこり微笑んできよみの前にしゃがみ込んだ。人好きのする笑顔に、じわじわときよみの記憶が蘇ってくる。
彼――瀬田は、きよみが所属しているアマチュアオーケストラの昨日の練習に参加したバイオリン弾きの見学者だった。合奏中は特に絡むこともなかったが、その後の居酒屋で色々と話した記憶がある――内容までは覚えていないが。
(何だ、知っている人だったのね)
思わず安堵の息が漏れかけて、きよみは頭を横に振った。謎に嬉しそうな彼の笑顔に絆されそうになったが、騙されてはいけない。
「ちょっと待って。何で私、空から落とされたの?」
そう、自分は空から問答無用で落とされたのだ。本気で死ぬかと思ったのに、目の前の男は申し訳なさそうな素振りを一切見せない。
それどころか、瀬田はとびきりいい笑顔を浮かべた。
「あれはきよみへのお仕置きだ」
「お、お仕置き……? ってか何でいきなり呼びすて!?」
「それくらい構わないだろ? これから付きっきりで矯正してやるんだから」
「は? 矯正?」
瀬田の口から出てくる単語はどれもこれも意味不明で突拍子もない。大体どうして初対面同然の彼にお仕置きとか矯正とかされなければならないのか。
きよみの胸中を察したのか、瀬田はニッと笑みを深めて頷いた。
「夕べ、きよみが俺に言ったの覚えてる? 自分は女子力皆無で部屋が汚い。お酒にもだらしないし、自分が男だったら自分に惚れないって」
「え、そんなこと言っていたの、私……」
「やっぱり覚えてなかったか――まぁ、泥酔していたから仕方ない。で、それなら二度ときよみがあんな風に酔いつぶれたくならないように、早速ペナルティをしてみたってわけ」
やたら楽しげに説明を繰り広げる瀬田に、きよみは開いた口がふさがらない。
未だ頭が追いつかないが、なんとなく分かったことが一つある。
(こいつのペースに飲まれるな、きよみ!)
きよみは一つ咳払いすると、すくっと立ち上がり、腰に手を当て瀬田を見下ろした。
「分かった。今回は許してあげる。でも、こんなことされたって無駄だから。第一昨日はちょっぴり飲み過ぎちゃっただけだし、禁酒なんて絶対しないもの!」
「よし、それじゃあ次はバンジージャンプでもしてもらおうか」
「しないってば! バンジーも禁酒もしないから!」
「はぁ、分かってないな、きよみ」
わざとらしくため息を吐くと、瀬田はまっすぐ立ち上がった。流石の高身長で、見下ろしていたはずのきよみは、すっかり彼に見下ろされてしまう。
瀬田は一歩きよみに近づくと、無造作に下ろされたきよみの長い髪を掬った。
「これからきよみに与えられる選択肢は、俺に従うか、恐怖体験をするかの二つだけ」
「だから意味が分からない……」
きよみが不快げに睨み付ければ、瀬田はクスリと笑った。
「俺は何も、禁酒しろって言っているわけじゃないし、そもそも酒に限った話じゃない。要するに、きよみの欠点をなくし、きよみが魅力的な女になるのを協力しようって言う話だ」
「何それ、いらない! 結構!」
「そ、じゃあやっぱりバンジーかな」
「やんないってば! 大体、バンジーとか空から落とすとか、何でそんな恐怖体験が必要なの!」
「だから何度も言ってるだろ? ペナルティだって」
瀬田はきよみの頬に手を伸ばし、強い力でそれを引っ張った。
痛みに呻くきよみの顔を見て、ニッと口角を持ち上げた。
「言うことをちゃんと守ればそれでいいんだ。飲みに行っても呑まれない、部屋はちゃんと毎日綺麗にする、言われたことはきちんとこなし約束を守る――出来なければ、恐怖体験のペナルティ」
「何それ……横暴……」
「この歳になって欠点直すには、それくらい必要だろ」
瀬田はきよみの頬を離すと、彼女から一歩距離を取り、そして腕を伸ばして人差し指を突きつけてきた。
「さて、ここできよみに与えられた選択肢は二つ。俺に従って徹底的に欠点を直すか、太平洋に沈められるか」
「えええ! さっきよりひどくなってるってば! 第一そんなのできるわけ……」
「出来るよ、俺なら。こちらもやるからには本気。もし逃げようっていうなら、そのときはどうしてくれようか?」
瞳を細めて薄い笑みを浮かべた瀬田に、きよみは寒気がした。
(何これ! 結局選択肢は一つしかないじゃない!)
果たしてそれは本当にきよみのためのことなのか、ただ単に彼のおもちゃにされている気がして、断じてその選択をしたくない。
しかし、待ち受けているペナルティが恐ろしすぎる。何せ、いきなり空の上からきよみを落とした彼だ。どれも現実味のないことばかりだが、彼なら絶対それをしてのける気がしてならない。何か、いい言い訳はないか?
そう思っていると、こちらに突き立てていた手を引っ込め、瀬田は顔の横で手を広げた。
「カウントダウン、五……」
「んな!!」
突然始まったそれに、きよみの頭はもうパニックだ。必死に手を探すが、こんな状況では思いつかない。
そうしているうちに、瀬田の指が次々折られていく。
「二、一……」
(もお――……っ)
「分かった、分かりました! 従います!!」
指が全て折られると同時にきよみが声を上げれば、瀬田はとても楽しそうに笑みを深めた。
「じゃあ、これからビシバシやるから、覚悟してろよ」
何も知らない状態であったなら見惚れていたであろう瀬田の小首傾げ。
もはや今のきよみには、恐ろしいもの以外の何者でもなかった。




