ことのはじまり
その日はきよみが所属しているアマチュアオーケストラの練習日だった。
隔週で行われるそれに参加したきよみは、毎回練習後に団員が通う居酒屋に行き、いつものように酒を飲んだ。
楽しく演奏して楽しく食べて楽しく飲んで。
ひととおりのことが終わるといつの間にか終電間際になっていて、きよみは慌てて楽器を持って店を飛び出した。酔っぱらった身体に、自身の演奏道具であるチェロを担ぐのはなかなか堪えたが、きよみはそれを背負って駅まで急いだ。途中、身体がよろけた気がするのは、背中のものか、あるいはいつもよりも飲み過ぎたせいか。
なんとか最終列車には間に合ったものの、きよみの身体は限界に来ていた。きよみは乗車するなり角の空席を見つけ、チェロをそばに置き、自分はそこに座って背もたれに背中を預けた。
そこからのきよみの記憶はかなり曖昧になっていた。誰かと一緒に駅まで走ったところまでは何とか覚えている。
その人が隣に座ったのも、なんとなく覚えていた。
「鈴村さん、大丈夫ですか?」
「んー……大丈夫です。これでも頭ははっきりしてるんです」
「そう言う人に限ってやばいんですよ。何だったら家まで送りますよ?」
「平気ぃ。だっていつもこんな感じですからぁ」
正直かなりしんどいのにやたらと話し掛けてくるので、きよみは面倒くさくなっていた。と同時に、喋っていないと本気で寝過ごしそうだったので、お願いだから黙ってはくれるな、などとかなり勝手なことも考えていた。
その人は大きくため息を吐いた。
「そんなことしてると、誰かに持ち帰られちゃいますよ?」
きよみは夢うつつに笑った。
重たい手を持ち上げ横に振る。
「そんなことないですよぉ。だって今まで何もなかったし、私を持ち帰りたいなんて思う人いないですってぇ」
「はぁ、そういう無防備さがやばいんですって……」
その人が呆れ口調で小言を垂れるが、きよみの耳には入っていなかった。ちょうどその時、スマートフォンが振動したからである。開けてみれば、SNSを共有している大学時代の友達が、エンゲージリングを指に嵌めた写真をアップしていた。
嬉しさと同時に這い上がってきた空しさに、きよみはスマートフォンをしまった。
「友達が結婚するんですって……。そういうラッシュなんですよねー」
愚痴というほどのものではないが、きよみの口調には不満が滲んでいたのだろう。
その人はくすりと笑った。
「鈴村さん、相手いないの? モテそうなのに」
「ええ、どこを見てそう言ってるんですかぁ? 全然ですよ、ここ三年くらいご無沙汰ぁ。でもまぁ、当然かなって思うんですよねー」
「何で?」
吹っ切れたように言うきよみに、その人は首を傾げた。
段々頭がしんどくなってきたきよみは、電車の窓に頭をもたれ掛からせながら言った。
「だって、自分が男だったら自分に惚れないなぁって。女子力ないし、部屋汚いし、だらしないし、お酒で泥酔するような女ですから。だったら直せよって思うんですけど、それもまためんどくさいし、お酒も楽しいから飲んじゃうんですよねー」
こんなに自分のダメッぷりを披露するのはいつぶりだろうか。普段なら少しでも自分を上げるために絶対言わないが、酔いすぎのせいか、きよみは気が付いたらべらべら自分の汚点を晒していた。
正直、自分でも何を言っていたのか分かっていなかったのである。
そうして会話が止まった。
いよいよきよみの睡魔は限界を迎え、そのまま目を瞑った。
そろそろ意識も手放そうかというとき、隣から手を握られた。
「――なら、二度と泥酔出来なくしてやる」
その言葉を最後に、きよみの記憶は吹き飛んだ。