彼女の願いごと
部屋が真っ暗だと眠れない。もう高校二年生なのに、いまだに暗闇が怖い。だから寝るときは枕元の電気スタンドを点けっぱなしにしている。部屋全体が蛍光灯のオレンジ色になって温かく感じて、怖さと寂しさがちょっとだけ緩和される。
寝つきは良い方だと思う。横向きになってスマホをいじっているといつの間にか朝になっている。
でも、今日は様子がおかしい。出窓の方から何か気配がする。
とはいえ、ここは二階。よじ登れるような足場や管はない。なのにカーテンの向こうに何かいる気がする。
私は怖くなって強く目を閉じ、手探りで電気を点け、ゆっくりと目を開けおそるおそる出窓に視線を移した。特に変わった様子はない。いつものようにクマやネズミのぬいぐるみがこっちを向いて仲良く並んでいるだけだった。
良かった、気のせいか。
また電気スタンドに切り替えようとした。
「こんばんわー」
出窓からの声に目をやると、クマのぬいぐるみの後ろにアゲハチョウのような羽が見えた。私が理解をする前に羽が揺れ、クマの後ろに隠れていた羽を持つ何かが顔まで三十センチくらいの距離に飛んできた。
「あのー、こんばんわー」
「キャー!」
「ちょっ、静かに!」
私の声が響く前に手で口を押さえられた。
妖精? 上下緑色の服を着て、羽でホバリングしている。けっこうイケメン。
「あなたの願いを一つだけ叶えに来ました」
「えっ……? 何それ?」
「ユカさん、今日の十六時十五分頃、杖をついたおばあさんに電車の座席を譲りましたよね?」
確かに譲った。良いことをしようなんて気持ちはなかったけど、他の人が誰も譲らなかったから席を立ったらおばあちゃんにお礼を言われた。
「『良いこと』としてはベタですが、なかなかできることじゃないですよ、素晴らしい」
「……はぁ」
彼、といっていいのか分からないけど、彼は拍手をした。褒めてくれているみたい。
「さぁ、願いごとをどうぞ」
左足を前に出して身体を横に向け、両手を広げてポーズをとった。
「あの、どうゆうこと?」
「ユカさんの善意に感銘を受けた私の上司からの命令なんです。ユカさんの元に行って、願いを一つ叶えてやれと」
よく分からないけど、怖い。これは何? 夢?
確認のため太腿を強く抓ってみた。痛い。ついでに脇腹を抓るとちょっとだけお肉が掴めた。それも含めて夢であってほしいけど、どうやら現実みたい。
「さぁ、願いごとをどうぞ」
また同じポーズ。
「ちょっと待ってよ、いきなり言われても……。そもそも誰?」
「誰って、ご覧の通り妖精ですよ」
「あ、やっぱり……。それにしてはちょっと大きい気がするけど」
よく見たら五〇〇ミリリットルのペットボトルくらいの大きさはある。握れるくらいの手の平サイズかと思ってた。
「人間に人種があるように、妖精にも妖種があるんですよ。大きさや顔つきが違うんです。さぁ、願いごとをどうぞ」
「待ってってば。頭が追いつかないよ」
私は両手で両頬を押さえた。
どうしよう、何かおかしなことに巻き込まれているのかも。妖精が現実に存在する? 願いごとを叶える?
「まぁそんなに深く考えずに。どうでもいいじゃないですか、願いが一つ叶うんですから」
妖精があっけらかんと言う。
「何でも叶うの?」
「ええ、私にできることなら大抵は。さぁ、願いごとをどうぞ」
いちいち決めるポーズにうんざりしてきた。でも、確かに妖精の言う通り、願いが叶うなら詳細はどうでもいいかもしれない。信じた訳じゃないけど、言うだけ言ってみようかな。
「じゃあ、同じクラスのスズキくんと付き合いたい」
先月の席替えで隣になってから気になっているスズキくん。少しずつ会話が増えてきて連絡先の交換もしたけど、それから進展しない。向こうが私をどう思っているのか分からなくて、どうしたらいいか分からずにいた。
「年頃の女性らしいステキな願いごとですね……。しかしながら、申し訳ありません。それは私にはできかねます」
「え? どうして?」
「それはキューピットの管轄なんです」
「え? いや、ちょっと……はぁ?」
管轄? 何でも叶えてくれるんじゃないの?
「ご存知ありませんか? キューピットが弓でその人の思いを込めたハートの矢を射つと、意中の人がその人になびく」
「そこじゃなくて! それは聞いたことあるけど、そうじゃなくて管轄ってどうゆうこと?」
「『管轄』というのは、取扱う事務につき地域的、内容的、人的に限界付けられている範囲のことで……」
「言葉の意味じゃなくて! あぁもう……」
この妖精、ウザい。妖精ってもっと可愛いものじゃないの? イケメンだからって調子に乗ってる。それにキューピットって、あのキューピット? キューピットも実在するってこと?
「さぁ、他の願いごとをお願いします」
それなら、こうゆうのはどうだろう。
「願いごとを三つにして下さい!」
これが叶えば無限ループ。三つ目でまた三つに増やしてもらえば半永久的に願いが叶う。飽きたらやめればいい。
妖精は呆れた顔で決めポーズのまま身体をこちらに向けて、審判にレッドカードを出されたサッカー選手のようなポーズをした。
「あぁ……言っちゃったかぁ。たまにいるんですよね、こうゆうずる賢いというか、卑怯な人」
半分怒ったような口調。その表情は妖精どころか悪魔みたい。
「無理に決まってるじゃないですか。一つだけだと決まってるんですから。さぁ、改めて願いごとをどうぞ」
仕方ない、他を考えてみよう。何か物をもらうというのはどうだろう。買い替えたかったバッグとか、この前ショッピングモールで見たあのスカートとか……。
「うーん……じゃあ、お金持ちになりたい」
これならどっちも買える。時給九〇〇円の焼肉屋のアルバイトで月に五万円くらい稼いでいるけど、あっと言う間に使っちゃう。欲しいものを買って何度か友達とご飯を食べに行ったらいつの間にかなくなっている。これが叶ったらバイトなんか辞めちゃおう。
「それを言う人多いんですけどね、お金を作ることはできません。日本銀行が適切な量を発行しているんですから、我々が勝手に作ってしまったら経済破綻が起こりますよ。妖精が偽札騒ぎの発端になる訳にもいかないですしね」
妖精は溜め息をつき、ポケットから四角くて厚みのない瓶のウイスキーを出して飲んだ。お風呂上がりに腰に手を当てて缶ビールを飲むウチのお父さんの姿に似ている。
「ユカさん申し訳ありませんけど、早めにお願いできますか? 後が詰まってるんですよ。後一時間であなたを入れて三件回らなくちゃいけないんです」
「え? 他の人のところにも行くの?」
「はい。次は駅前で道に迷っていた人に道案内をした高校生、その次は捨てられていたマルチーズを拾って帰った中学生。これでも私忙しいんですよ。妖精世界も不況なんで、残業するなと上司にきつく言われていますし……」
愚痴が始まった。彼のせいでどんどん妖精のイメージが崩れていく。
「じゃあ、他の人はどんなお願いをしてるの?」
愚痴を遮るように訊いた。もう他人の願いごとを参考にするしかない。
「そうですね、一件前はナイスバディになりたい、二件前は頭が良くなりたい、でした」
「え? それは叶うの?」
「はい。エステの無料体験チケットと塾の入学金無料券をそれぞれにお渡ししたので、ここからは努力次第ですね」
うさんくささも度を増してきた。それって妖精が願いを叶えたことにならないじゃん。チケットなんか新聞屋の営業でもくれる。なんかだかもう面倒くさくなってきた。
「じゃあもういいよ、帰って下さい」
「いえ、そうゆう訳にはいきません。上司に怒られてしまいます」
「あなたに帰ってほしいのが私の願い! それでいいでしょ?」
「またそんな捻くれたことを……そこをなんとかお願いしますよ。野球とか興味ありませんか? 東京ドームの試合のチケットなら持ってま……」
「だからあんたは新聞屋かっての!」
イライラして大きな声を出してしまった。
「ユカ! どうしたの?」
お母さんだ。今の声で起きちゃったみたい。部屋のドアを二回ノックしてから勢いよく開けた。
「ユカ!」
「お母さん、見てよこれ! 変な妖精が……あれ?」
いなくなってる。さっきまでそこでホバリングしていたのに。
「妖精? 何言ってんのあんた」
「……なんでもない。変な夢見てたのかも」
「そう……ならいいけど大きい声気をつけてね」
「うん」
お母さんが部屋を出た後、部屋を見回してぬいぐるみの後ろも確認したけど妖精はいなかった。本当に夢だったの? まさか、ドラマとか映画で私が一番嫌いな夢オチ? もう一回脇腹を抓ってみたらちょっとだけお肉が掴めた。ということは夢じゃない?
混乱したまま電気スタンドに切り替えてベッドに横になった。夢だったのか現実だったのか分からないけど、うさんくさい妖精はいなくなったことだし早く寝よう。
目を閉じると自然にスズキくんの顔が瞼の裏に映った。日本史の授業を受けながら眠そうな目を擦る顔、英語の授業で先生に当てられて教科書を読む恥ずかしそうな顔、体育のサッカーでシュートを決めた後の嬉しそうな顔、カッコイイもカワイイも兼ね揃えている。彼と付き合えたら死んでもいい。悩みなんか全て吹き飛びそう。
それから十分くらい経ち、今にも寝つくというときだった。
「ユカさん、ユカさん」
遠退く意識の中で男の人の声が聞こえた。
もしかしてスズキくん?
でも、彼は普段私のことを苗字で呼ぶ。声も違う気がする。
「ユカさん、起きて下さいって!」
死んだフリをしたまま周りに熊がいないことを確認するかのようにゆっくりと目を開いた。
「戻りました。さぁ、さっきの続きを……」
「もう、帰ってよ!」
案の定妖精だった。正直、途中からそんな気がしていた。
「いいんですか?」
「何?」
「私がどこに行っていたのか知りたくないですか?」
心の底からどうでもいい。本当にムカつく。でも、たぶん訊かないと一生帰らない。
「はいはい、どこに行ってたの?」
「やっぱり知りたいんですね、仕方ないなー」
ヘアアイロンのパワーを最大にして、その綺麗な顔を挟み潰してくれようか。
「実はですね、スズキくんの部屋に行っていたんです」
「あーそうなんだ、はいはいもう帰って……えっ?」
私は起き上がって電気を点けた。一瞬目が眩んだけど、すぐに妖精の足を握って顔に寄せた。童話に登場する大男の気分だ。
「何しに?」
「好きな人がいるのか尋ねに行きました。ユカさんが最初に仰っていた願いを叶えるヒントになるかも、と」
「え? 叶えてくれるの?」
「そんな、目をハートにして言われるとプレッシャーですが、間接的に叶えるためにご協力をしようと思いまして……」
「間接的に?」
「はい。あまり派手に動くと上司にもキューピットにも怒られてしまいますから……」
リスクを背負ってまで私の願いを叶えようとしてくれたの? 意外とイイ男なのかも……?
私はベッドに座り、必要もないのに手櫛で髪を整えて、妖精の話をじっくり聞く準備をした。妖精は勝ち誇った顔でホバリングをしながら、仁王立ちならぬ「仁王浮き」をしている。
「私がスズキくんを好きってこと、本人に言ってないよね?」
「もちろん、そんな野暮なことしませんよ」
「そう、良かった。好きな人はいるって?」
「はい、ちゃんと名前も訊いてきました。大変でしたよ、なかなか答えていただけなかったので、何枚か チケットをチラつかせて、やっと釣れましたよ」
「魚みたいに言わないで」
スズキという魚はいるけれど。それにしても、意外と現金なところがちょっとだけショック。
「それで、どうします?」
「ん?」
「他に願いごとがないのなら、『スズキくんの好きな人を妖精から教えてもらう』を願いごとにしてほしいのです。とにかくあなたの願いを叶えないと私は帰れないので」
なるほど、そういうことか。この妖精頭が良い。それでいてイケメンだなんて、妖精世界じゃかなりモテるんだろうな。ウザいのがすぐにバレて、あっと言う間に嫌われるだろうけど。
「では、改めて願いごととして声に出していただけますか? 私がポーズを決めますのでそのタイミングでお願いします」
「うん!」
妖精はゆっくりと深呼吸をして、振り被るように両手両足を広げて身体を横に向けた。
「さぁ、願いごとをどうぞ!」
「スズキくんの好きな……」
そこまで言って止まってしまった。頭の中で考えが巡った。
もし、スズキくんの好きな人が私じゃなかったら、それを知った私はどうなってしまうだろう。すぐに諦めて、気持ちを切り替えられる? 電気スタンドみたいにカンタンに切り替えられるものじゃない。それに、今までと同じように接することができる?
「ユカさん?」
「あ、ごめん」
「大丈夫ですか? では、改めて……さぁ、願いごとをどうぞ!」
出窓のカーテンから漏れる光で十時頃目を覚ました。今日は土曜日で学校は休み。お昼まで寝るつもりだったけど、なんだか目覚めが良いから起きることにした。
ベッドから起き上がり、出窓にあるクマのぬいぐるみの後ろを確認した。脇腹を抓ってお肉が掴めることも確認した。そして、机の上には遊園地のチケットがある。
結局、スズキくんの好きな人のことは訊かなかった。知ることへの恐怖もそうだけど、やり方がフェアじゃないと思った。恋愛はゲームではないけど、出来レースでは冷めてしまう。交際までの過程も恋愛で、付き合い始めよりもそこまでの方が楽しかったりする。スズキくんとはちゃんと楽しく正式に恋愛したい。
願いごとは、「遊園地のチケットを二枚もらう」にした。今日、スズキくんに電話して、明日二人で行こうって誘うんだ。結局、妖精は新聞屋みたいな仕事だけして帰った。そんな自分に苛立ったのか、帰る前にウイスキーを一気飲みしていた。
洗面所で歯を磨いた後、電話越しだから気にすることもないのに、マウスウォッシュをして口臭予防のタブレットを噛んだ。マスカラを塗ると、ほんのちょっとだけ可愛くなれている気がして、すっぴんの時より自信がつく。そんな、妖精よりも優れた魔法を女子は使える。
部屋に戻り、ベッドにもたれ掛かった。ガラステーブルの上のスマホを手にして深呼吸。手を当てなくても分かるくらい心臓がドキドキしている。
でも、大丈夫、出窓のぬいぐるみたちも応援してくれている。なんて、ちょっと痛いけど言い聞かせてみる。
トゥルルルル……。
「わっ!」
突然スマホが鳴った。
「スズキくん!」
思わず声に出してしまった。どうしよう、今までどちらからも掛けたことがないのに、すごいタイミング。どうしたんだろう、こっちはまだ心の準備が……。
もう一度深呼吸をしてから通話ボタンをフリックした。
「もしもし」
声が震えていないか心配。
「もしもし、スズキだけど」
「うん」
「元気?」
「うん……ってか、昨日学校で会ったばかりじゃん」
「あ、そっか」
笑いながらも不思議な緊張感が伝わってくる。学校で話す時とは全然違う。
それから五分くらい雑談をした。先生の話や部活の話。普段話す内容と変わらない。
「バイトは焼肉屋だっけ?」
「そうだよ」
「今日は?」
「五時から九時まであるよ。だるいなぁ」
「食べに行っちゃおうかなー」
「ダメだよ恥ずかしい! しかも高いから無理だと思うよ」
そんなの、考えただけで汗が吹き出そう。緊張で声が出せなくなっちゃう。親が来たときでさえ緊張したのに。
「明日は?」
「明日は休みだよ」
そう、明日はあなたと遊園地に行きたい。さっきからそれを言いたくてウズウズしている。でも、なかなか切り出せない。
沈黙が続いた。実際は「続いた」というほど長くない数秒なんだろうけど、一分にも二分にも感じられた。それを破ったのはスズキくんだった。
「あの、さぁ……」
「うん……」
じりじりとした様子の伺い方が、剣道の有段者同士の試合みたい。スズキくんが何を言おうとしているのか分からないけど、悪い話ではないと思う。むしろ、期待してしまっている。
「明日、遊園地に行かない?」
「えっ……?」
一字一句違わず私が言おうとした台詞だった。
観覧車の中で私は訊いた。
「どうして遊園地なの?」
「どうしてって?」
「実は、私も誘おうと思ってたんだ。だからびっくりして」
スズキくんは笑顔になった。くしゃっとしてカワイイ。
「信じてもらえるか分からないけど、昨日駅前で道に迷ってた人に道案内をしたら、夜中にウチに変な妖精が来て、チケットを二枚置いて行って……いや、何でもない」
意図したのか分からないけど、どちらからでも誘える状況になっていたんだ。
あの新聞屋、なかなかやるな。