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俺は、階段から落ちた。
足元もろくに見ずに友人と喋っていて、踏み外してそのまま一番上から真っ逆さま。
背中に大きな衝撃が走ったのを覚えている。痛みの中で途切れていく意識も、覚えがある。
目を覚ませば保健室か何処かで寝ているのだろうと、ごく普通の考えに至り、瞼をこじ開けた。
俺は、階段から落ちた、はずだった。
けれども俺が立っている場所は、保健室ではなく、ましてや落ちた時のままの階段でもなく、はたまた落ちた事さえ夢だったと考えられるような自室でもなく。
俺が呆然と佇むのは、色を無くした世界の、駅のプラットホームだった。
「…何だ、ここ」
ハハ、と笑い混じりに呟くも、その声はひどく掠れていた。
笑っている場合ではない。とりあえず家へ戻るんだ。
頭の片隅で誰かが言った。
けれども、それは出来ないと冷静な自分が頭の誰かをねじ伏せる。
だって、色の無い世界なんて、俺は知らない。知らない世界なんて、俺は歩けない。
臆病者だって?
笑うなら笑えよ。罵るなら罵るがいい。
けど、仕方ないだろう?
そんな勇気を今まで必要として来なかったんだ。そんな平和ボケした世界で、生きてきたんだ。
だから今、俺がどうしようもなく震えているのも、仕方のない事なんだ。
と、ここまで独白を続けてきた訳だが、要するに俺は非常に混乱しているのである。
辺りに誰一人居ないのが助かった。さもなければ、目を見開き口を半開きにしたまま固まっている俺の間抜け面が晒される事になったのだから。
そう、誰も、居ないのだ。
その事実を再認識した途端、どうしようもない恐怖が俺を襲い、思わずその場に膝をついた。
まるで、世界に俺一人だけが取り残されたような。自分だけが生き残ってしまったような。そんな恐怖。
目頭が熱くなり、視界が霞む。
涙が出そうなのだと気づき、咄嗟に上を向いてぼんやりと滲むモノクロの空を見上げる。
ばあちゃん家で見た写真みたいだ、と現実逃避に思考が傾きかけた時。
とん、と肩が軽く叩かれた。
あまりに唐突な出来事で、予想していなかった出来事だったものだから、大きく肩を揺らして驚いてしまった。
後ろに誰かが居る。
俺以外に、人が居る。
その事に対する安堵と恐怖と、少しの好奇心が絡まった複雑な心境を抱えたまま、俺はゆっくりゆっくりと顔を後ろへ向けた。
瞬間、息を飲んだ。
モノクロの世界に浮かぶ、流れるような金糸。
吸い込まれるほどに、深く澄んだ青。
「まるで人形のような」という形容でさえ凌駕する程に美しい少女が、そこに立っていた。
思いもかけない登場に暫し目を見開いて、その少女を凝視する。
大人びた雰囲気を持つものの、顔には多少の幼さが残っている。年は中学生ぐらいだろうか。腰まで伸びた金髪のストレートヘア。青い瞳。少し大きいダボッとした白いニットのワンピース。茶色いブーツ。
少女も俺の顔をじっと見つめてくるのだが、その青い瞳は無感情で、本当に人形ではないかと錯覚してしまう。
少女が、抱えていた紙の束を一枚めくって手元に視線を落としたところで、俺もはっと我に返り、ちゃんと動くのか、と当たり前の事を思った。
紙をまじまじと見つめていた少女は唐突にぴっと俺を指差し、ゆっくりと顔を上げた。そして、年相応には思えない、ひどく落ち着いたトーンで「確認致しました」と一言、呟いた。ぽかんとした表情の俺に構う事なく少女はいつの間にか持っていたペンで手元の書類に何かを書き込んでいく。
次いで、俺に向かって何か寄越せとでも言いたげに手の平を上に向けて、ずいと手を差し出してきた。
「えーと、今は何も持ってないんだけど…」
飴の類でも持ち歩いていればいいのだが生憎俺は甘いものが嫌いだ。
手の平をひらひらと振って何も持っていない事を強調する。しかし少女は尚も食い下がるように、俺の目の前へと小さな手を押し付ける。
だから、何も持ってないんだって。
そう言おうと口を開くと少女の淡々とした声に遮られた。
「切符を、拝見します」
まったく予想していなかった言葉に口を開いたまま数秒間。
何だって?キップ?何で?今?きっぷ?
あらゆるクエスチョンが頭の中をめぐり、最終的に俺が漏らした言葉は、
「…は?」
などという極めて間抜けなものであった。恐らく、顔も相当間抜けであっただろう。
「ですから、切符を拝見します。さっさと寄越してくださいウスノロ」
余計なオマケの一言を付け加え、相も変わらぬ無表情で少女は同じ言葉を繰り返す。何と言うか、返す言葉が見つからないというか……キャラ変わりすぎだろ。しかし、ここで相手のペースに飲み込まれてはいけないと冷静に考え直し、咳払いを一つこぼした。こっちは得体の知れない迷子のごっこ遊びに付き合ってる場合ではないのだ。
「あ、あのさ…君だれ?どこから来たの?お母さんは?」
「おや、現状を把握していらっしゃらないのですか」
泣かれでもしたら困るからと、片膝をついて目線を合わせ、できる限り優しく声をかけてやれば、ふっと鼻を鳴らして少女は肩をすくめた。無表情のままだが、今のは明らかに嘲笑だった。明らかに俺の事を馬鹿にしていた。
この糞餓鬼。心の中でそう罵倒しながら、笑顔は崩さない。先ほどよりも幾分か引きつったものにはなったと思うが。
「こんな状況下に普通の幼女が居るはずないでしょう。いや、私の見た目は幼女とは言い難いので少女と言い換えておきましょうか」
「そこの訂正はどうでもいい」
思わずツッコミを入れてしまったが、少女の言う通りだと思った。現実離れしたこの世界に、ただの普通の迷子が、居るはずない。とすると、こいつは一体何者なんだ。いくらか冷静さを取り戻した頭で疑問を浮かべつつ、膝をポンポンとはたきながら立ち上がる。そんな心中を読み取ったかのように少女は俺を見上げながら淡々と述べた。
「私は4989番線係を務めておりますコード427と申します」
「……よん、にー…?」
「コード427です」
「…それ、名前?」
「名前というより管理番号ですね。他にご質問が無ければ切符を拝見しますのでご提示願います」
淡々と。ただ、淡々と。
「……」
ジーンズやパーカーのポケットに手を突っ込んで、切符とやらを探しながら質問を重ねる。
「ここは何処?」
「通称“狭間の駅”4989番線です」
「何で色が無いの?」
「申し訳ありませんが明確な回答が存在しませんのでお答えできません」
どうやら分からない事もあるらしい。当たり前といえば当たり前なのだけれど。未だに見当たらない切符を探して脱いだ靴をひっくり返す。ここにもない。
そして、大きく息を吐き出して、まっすぐに青い瞳を見つめ、
「…俺、どうなったの?」
自分のなかで既に出ている答えが間違いであることを祈りながら、静かに尋ねた。
「…簡潔に述べますと、貴方は、
死にました」
まるで、プログラムされた通りにしか動かない機械のように。嘲りも哀れみも一切含んでいない、ひたすら無感情な声で彼女は答えた。
「…そっか」
「意外と冷静なんですね」
本当は、最初から分かっていたのかもしれない。けれども、自分が死んだなんて、認めたくなかった。もちろん、今だって信じたくはない。目の前の少女に当たり散らして嘘だ嘘だと吠えてしまいたい気持ちもある。
だけど、彼女は何も関係ない。ただ、聞かれた事に対して答えただけなのだから。
「階段から落下し後頭部を強打、意識不明のまま学校の保健室に運ばれるも既に心臓は停止。○月×日午後4時44分48秒に死亡確認。
こちらが貴方の死亡カルテです。よろしければ差し上げますが」
手元の書類をまた一枚めくって、変わらぬトーンで読み上げる。そして読み終われば、その一枚だけをピッと綺麗に抜き取り、俺の方へと差し出した。
「俺が持ってても仕方ないだろ。いらないよ」
ああ、あと少しでゾロ目だったのに。なんて事をぼんやり考えながら要らないと手を振れば、少女は即座に紙を破り捨てた。
…せめて隠れてやれよ、そういう事は。
「あ、切符。見つからなかったんだけど大丈夫か?」
そういえば、結局切符はどこにも無かったのだ。ポケットの中も靴の中も、ありそうなところは全部探した。
「ふむ、おかしいですね。切符が見つからない…」
少女…もとい427は、その時初めて無表情を崩し、眉を寄せた難しい顔で首を傾げた。手元の紙の束を繰って、あるページで視線を固定する。パラパラとめくる時に上から覗き込んだだけで、どのページにも目が回るくらいの量の活字が並んでいて、その中から目的の紙を探し出す事を考えると自分には関係ない事なのに気が遠くなった。
「…切符が見当たらない場合。即座にチーフに連絡し指示に従う」
指で文字を追いながら、427は独り言のように読み上げて面倒だとばかりに溜息を漏らした。そして此方へと向き直り、俺のせいだと責め立てているかのように、再度大きく溜息をつく。
「…何だよ」
「いいえ何も」
そのままスタスタと早足で歩みを進める427。何処に行くのかと見守っていれば、ホームにちょこんと備え付けられた小さな古ぼけた公衆電話の前で足を止めた。受話器を手に取りボタンを押して、暫しの間を空けて受話器の向こうの誰かへと言葉を向ける。
「こちら4989番線コード427。切符不所持の乗客を一名確認しました」
機械のような淀み無い口調で。
端的に、義務的に、ただ必要な事のみを。
「はい……はぁ?いえ、何も」
…ちっ、と舌打ちが聞こえた辺り、まだ人間味は失っていないようだが。
ガシャンと乱暴に受話器を切った427はもう一度、大きな大きな溜息を俺に向かって吐いてみせた。どうやらとことん嫌われているようだ。思わず苦笑を漏らしながら近づいていくと、427は説明を始めた。
「貴方は完全に死んでいない、つまり仮死状態にあると考えられます。幽体離脱、と言えば分かりやすいでしょうか」
ピタリと足を止め、今の言葉を頭の中で繰り返す。一度は失くしかけた“生”への執着心が、むくむくと膨れ上がる。
「じゃ、じゃぁ、生き返る事が…!」
「まあ可能性は低いですがね」
それでも、少しだけでも可能性があるのならば。また、生きていけるのならば。
「しばらくは此処で待機だそうです。まったく、すぱっと潔く死んでいればこんな面倒無かったのに」
さらりと暴言を吐く彼女は、相変わらずの無表情。だから暴言を吐かれても、ダメージがかなり少ないのかもしれないと気がついた。
無感情での棘に、毒はないのだ。
「はは、渋といんだよ俺は。しばらくよろしくな、えーと…何て呼べばいい?」
「何とでもお好きに。私に名前はありませんから」
「じゃぁ…ニーナ」
「…に、な?」
無表情から、パチクリと目を瞬かせた怪訝な表情へと転換する。
「よんにーなな。だから“ニーナ”」
簡単な事だ。名前が無いというなら、作ってしまえばいい。呼ばれる名を持たないなら、与えればいい。
「…まぁ、好きにしてください。ちなみに貴方の名前を呼ぶつもりは微塵もありませんのでご了承ください」
「いいよ、別に」
「…変な人ですね」
最後に諦めたかのように溜息を一つ零して、ニーナは小さな歩幅で小さな駅舎へと歩みを進めていった。
こうして、俺の奇妙な臨死体験が始まった。