第90話『人型』
人間は、二本の足で立つ。
それは、当たり前のことだった。
レオンの記憶の中では。
王都の通りを歩く人間。
酒場で立ち上がる人間。
剣を構える人間。
荷物を背負う人間。
転び、起き、走り、座り、振り返る人間。
みんな、二本の足で立っている。
腕は二つ。
顔は一つ。
布を纏い、声を出す。
グレイは、それを知っていた。
知っているのに、できなかった。
グレイの身体は人間ではない。
脚は多い。
外皮は硬い。
背は曲がり、関節は違い、顔に当たる部分の形も違う。
人間のように立とうとすれば、身体のどこかへ無理が出る。
椅子へ座ろうとした時もそうだった。
人間の道具は、人間の形に合わせて作られている。
そして、人間の形は、グレイの身体とあまりにも違っている。
それでも、ミルは真似を続けていた。
古い鏡の前。
割れた鏡。
そこへ映る、半分だけの姿。
ミルは布を被り、後ろ脚を無理に伸ばし、前脚を布の内側へ隠そうとする。
ふらつく。
転ぶ。
壁にぶつかる。
それでも立つ。
何度も。
何度も。
ミルにとって、それは遊びではなかった。
学習だった。
見る。
真似る。
失敗する。
また真似る。
そこに恐怖は少ない。
ミルは、自分が人間に近づいているなどとは考えていない。
ただ、グレイが見たもの。
アカが抱える記憶。
布に残る人間の形。
それらを写そうとしている。
グレイは、ずっとそれを見ていた。
最初は止めるべきだと思った。
危険だから。
人間の形を真似れば、人間へ近づきたくなる。
近づけば見つかる。
見つかれば撃たれる。
斬られる。
殺される。
あるいは、相手を殺してしまう。
分かっている。
それでも、目が離せなかった。
ミルが布を被って立った時、遠目には本当に人影に見える瞬間がある。
一瞬だけ。
暗い場所で。
揺れる灯りの奥で。
輪郭がぼやけている時だけ。
だが、その一瞬は確かにあった。
グレイは、その一瞬を見逃せなかった。
人間に見える。
そう感じた瞬間、レオンの記憶が強く反応した。
夜道。
外套を被った旅人。
遠くを歩く人影。
顔は見えない。
でも、人だと思う。
近づくまで。
声をかけるまで。
その“近づくまで”の間だけ、人間として扱われる。
グレイは、その意味を考えた。
人間に見えれば、人間はすぐ攻撃しないのか。
近づけるのか。
話せるのか。
あるいは、騙せるのか。
その考えが浮かんだ瞬間、グレイは自分の内側に嫌なものを感じた。
騙す。
人間の弱さを利用する。
二体目が「たすけて」を使った時と同じだ。
声で近づける。
布で近づける。
形で近づける。
それは危険だ。
でも、使える。
群れを守るためなら。
グレイは、その考えを振り払おうとした。
だが、完全には消えない。
なぜなら人間も同じだからだ。
人間は匂い誘導剤を置いた。
毒を用意した。
逃げ道に見える罠を作った。
グレイたちを動かそうとした。
なら、自分たちだけが真っ直ぐでいる必要があるのか。
生きるためなら。
その言葉が、また浮かぶ。
生きるためなら、形を変える。
生きるためなら、声を真似る。
生きるためなら、人間の姿を真似る。
それが灰の巣の根にある。
グレイは、割れた鏡の前へ歩いた。
ミルが振り返る。
布を被ったまま。
「グレイ」
人間の声に近い音。
グレイは返事をしない。
鏡に映る自分を見た。
黒灰色の外皮。
長い脚。
人間のような顔ではない頭部。
広がる身体。
どう見ても魔物。
神話の失敗作。
人間が見れば、剣を抜く。
それが当然。
グレイは、床に落ちていた布を拾った。
古い外套。
汚れている。
穴だらけ。
だが大きい。
人間なら肩からかけるもの。
グレイは、それを自分の背へかけた。
重い。
湿っている。
外皮へ貼りつく。
匂いが邪魔になる。
クロなら嫌がる。
戦いに向かない。
だが、輪郭が少し隠れる。
グレイは、前脚を内側へ折った。
後ろ側の脚を二本だけ目立つように残し、他を布の陰へ寄せる。
身体を起こす。
首に当たる部分を前へ出す。
人間の上体に見えるように。
痛い。
関節が合わない。
重心が崩れる。
一歩動くと、すぐに身体が横へ倒れそうになる。
ミルが見ている。
真似たい。
でも、今はグレイの動きを見るだけ。
グレイは、一歩進んだ。
ぎこちない。
もう一歩。
布が揺れる。
鏡の中に、影が映る。
怪物。
しかし、部屋の端から見れば、少し違う。
暗闇。
外套。
前へ傾いた上体。
二本の脚のように見える影。
ほんの一瞬。
人影に見える。
グレイは、鏡の前で止まった。
胸の奥が冷えた。
できた。
ほんの少し。
ミルが小さく鳴いた。
「ヒト……」
その音は、アカの記憶から拾ったものだろう。
人。
人間。
グレイは、その音を聞いて動けなくなった。
ヒト。
自分はそれではない。
分かっている。
でも、鏡の中には、人に近い影がいる。
近いだけ。
中身は違う。
近づけばすぐ分かる。
匂い。
動き。
形。
声。
全部が違う。
だが、遠くなら。
人間は騙されるかもしれない。
それは希望にも見えた。
同時に、恐怖だった。
その時、入口でクロが強く鳴いた。
「グレ」
人間。
近い。
グレイはすぐ布を脱ごうとした。
だが、思いとどまった。
この姿。
試せるかもしれない。
いや、危険だ。
人間が近い場所で試すべきではない。
だが、もう遅い。
人間の気配は、かなり近づいていた。
見張りか。
少人数。
ラグドたち本隊ではない。
二人。
いや、三人。
排水路の別通路から来ている。
古い生活区画を確認する偵察。
グレイは、群れへ感覚を送る。
隠れろ。
ニィがチイたちを布の奥へ押し込む。
マエが前に立つ。
カラが骨を持って入口横へ移動する。
アカは布人形を抱えて震える。
ミルは鏡の陰へ。
クロは低く構える。
グレイは迷った。
普通に隠れるか。
威嚇するか。
それとも。
布を被ったまま、部屋の奥の暗がりへ立った。
人間の形に近い影として。
排水路の向こうから声が聞こえる。
「こっち、生活区画だ」
若い声。
「深入りするなよ。報告だけだ」
慎重な声。
「でも、さっき布が動いたように……」
三人。
全員、本隊ではない。
防衛局の偵察兵。
装備は軽い。
手には魔導灯。
光が揺れる。
グレイは動かない。
部屋の奥。
外套を被り、二本脚に見えるように立つ。
かなり無理がある。
身体が痛い。
でも、動かなければ崩れない。
最初の兵が、扉の隙間から灯りを向けた。
光が部屋へ入る。
壊れた机。
割れた皿。
布の山。
そして、奥の人影。
兵が止まった。
「……誰かいる」
後ろの兵が息を呑む。
「生存者か?」
「こんなところに?」
灯りが近づく。
グレイは動かない。
心音。
人間の心音が速くなる。
警戒。
しかし、攻撃ではない。
人間だと思っている。
まだ。
グレイは、その反応を感じていた。
形だけで、ここまで変わる。
もし本来の姿なら、すぐに武器を向けられていただろう。
だが今、人間は迷っている。
人影だから。
顔が見えないから。
声をかける余地があるから。
若い兵が言った。
「おい、大丈夫か?」
大丈夫。
レオンの記憶が反応する。
怪我をした人間へかける声。
助けるための言葉。
グレイは返事ができない。
何か言えば崩れる。
黙る。
若い兵が一歩近づく。
慎重な兵が止める。
「待て。おかしい」
「でも」
「匂いが変だ」
グレイは理解した。
やはり、近づけば駄目だ。
匂いでばれる。
動きでばれる。
若い兵はまだ迷っている。
「もしかしたら、避難し遅れた人かも」
「こんな地下にか?」
「分からないだろ!」
助ける。
その感情。
まただ。
人間は、人影を見ると助けようとする。
声と同じ。
形でも、心が動く。
グレイは、そこに危険を感じた。
近づかせてはいけない。
このまま近づけば、チイたちを見られる。
クロが飛び出すかもしれない。
人間が叫ぶ。
戦いになる。
グレイは、声を出した。
低く。
無理に人間の音を真似して。
「こ……ないで」
三人が凍った。
部屋の空気が変わる。
若い兵の顔が青ざめる。
慎重な兵が即座に武器へ手を伸ばす。
「下がれ!」
グレイは動かない。
「こないで」
二度目。
今度は、少しだけ人間に近い。
それが余計に恐ろしかった。
人影が、人間の声で、来るなと言う。
だが、その声は完全な人間ではない。
喉の奥で湿り、歪み、別の生き物の響きが混ざる。
若い兵が後退る。
その瞬間、魔導灯の光がグレイの外套の下を照らした。
布の隙間。
隠していた脚。
一本。
二本。
さらに奥に、別の脚。
兵の目が見開かれる。
「う、わ……」
慎重な兵が叫ぶ。
「灰の巣だ!」
クロが飛び出そうとする。
グレイは強く制止する。
動くな。
グレイ自身も動かない。
ただ、もう一度言う。
「こないで」
その声で、若い兵は完全に恐怖へ呑まれた。
だが、三人目の兵が反射で魔力弾を撃った。
光が走る。
グレイは避ける。
布が裂ける。
壁が砕ける。
チイたちが鳴く。
ニィが押さえる。
クロの怒りが爆発する。
グレイはもう止めきれないと思った。
しかし、次の瞬間。
マエが動いた。
弱いのに。
震えながら。
チイたちの前へ出た。
クロではなく、グレイでもなく、マエがチイを守る位置へ入った。
その動きが、グレイの意識を引き戻した。
戦うな。
逃がす。
グレイは、裂けた外套を翻し、天井の木梁へ爪を立てた。
木片を落とす。
大きな音。
三人の兵が怯む。
カラが、入口横で皿の欠片を鳴らした。
からん。
からん。
音が複数方向から響く。
ミルが、グレイの声を真似した。
「こないで」
さらにアカも、震えながら言う。
「こないで……こわい……」
部屋中から声がした。
複数の人間のような声。
でも、どれも歪んでいる。
三人の兵は、完全に恐慌状態になった。
「撤退! 撤退だ!」
彼らは逃げた。
グレイは追わない。
クロも、強い制止で止めた。
兵たちの足音が遠ざかる。
その後、静寂。
チイたちの震える声だけが残る。
グレイは、裂けた外套を脱ぎ捨てた。
身体が痛い。
無理な姿勢のせいで、関節が熱を持っている。
それでも、実験は成功した。
少しだけ。
人間は、人影だと思った。
近づこうとした。
声で止まった。
匂いと光でばれた。
すべてが分かった。
布と形は使える。
だが、近づきすぎれば終わる。
そして、声と形を合わせると、人間は恐慌する。
それも分かった。
グレイは、その知識を得てしまったことが怖かった。
これは武器だ。
完全に。
人間を欺く武器。
近づかせる武器。
遠ざける武器。
群れを守るためには使える。
でも、使えば使うほど、人間はもっと恐れる。
そして、自分たちはもっと怪物になる。
ミルが近づいてきた。
裂けた外套を拾い、グレイへ差し出す。
もう一度やるのか。
そんな感覚。
グレイは首を振るように身体を動かした。
今は違う。
ミルは少し残念そうだった。
アカは布人形を抱えて震えている。
「こわい……ヒト……こわい……」
ニィが寄り添う。
クロは入口で怒りを残している。
マエはまだチイの前に立っている。
足が震えている。
グレイはマエを見た。
「マエ」
マエが小さく返す。
「マ……エ」
よくやった。
そういう感覚を送る。
マエの震えが少し弱くなった。
その頃。
逃げ帰った偵察兵の報告で、人間側は大きく揺れた。
「人影だったんです!」
若い兵は叫ぶように報告した。
「最初は人に見えました! 外套を着てて、立ってて……でも、脚が……脚が何本も……!」
防衛局の男が顔を歪める。
「擬態か」
セヴィルは真っ青になっていた。
「……人型模倣」
ラグドが低く聞く。
「どの程度だ」
兵は震えながら答える。
「遠くなら、人に見えます。近づいたら違う。でも、遠くなら……」
アレンは拳を握った。
エリシアは口元を押さえる。
ロウは目を細める。
ラグドは深く息を吐いた。
「最悪の方向へ進んでるな」
セヴィルは、記録板へ文字を書こうとして、手を止めた。
どう書けばいいのか。
声の模倣。
食事の模倣。
服の利用。
そして、人型模倣。
これは、もうただの魔物の適応ではない。
人間を理解しようとしている。
だが、その理解は、常にずれている。
人間に近づくほど、人間にとって耐えがたい形になる。
アレンは低く言った。
「もし、村の近くでそれをやったら」
誰も答えなかった。
答えは明らかだった。
混乱が起こる。
誰かが近づく。
誰かが叫ぶ。
誰かが攻撃する。
そして、血が流れる。
エリシアが震える声で言った。
「でも……向こうは、来るなって言ったんですよね」
偵察兵が頷く。
「言いました。何度も」
エリシアは俯く。
来るな。
つまり、近づかせたかったわけではない。
少なくとも今回は。
でも、人間から見ればそんなことは関係ない。
人の形を真似た怪物。
それだけで十分に恐怖だ。
ラグドは、低く呟いた。
「あいつら、本当に何になろうとしてるんだ」
誰も答えられなかった。
地下の部屋では、グレイが割れた鏡の前に戻っていた。
外套は裂けた。
姿はもう崩れている。
鏡には、ただの怪物が映っている。
だが、グレイは知ってしまった。
布を被り、脚を隠し、立ち方を変えれば、一瞬だけ人に見える。
それは、人間に近づく方法かもしれない。
それは、人間を騙す方法かもしれない。
どちらなのか分からない。
グレイは、鏡に映る自分を見つめた。
「ヒト」
小さく鳴く。
その音は歪んでいた。
人間には聞こえない。
人間のものではない。
ミルが隣で真似する。
「ヒト」
アカも遠くで震えながら呟く。
「ヒト……こわい……」
グレイは目を閉じた。
人間を真似た。
少しだけ。
だが、鏡の中の自分は、前よりも人間から遠ざかったように見えた。




