第87話『声の練習』
最初に真似をしたのは、ミルだった。
当然と言えば当然だった。
見る。
覚える。
写す。
それが、この個体の本能に近い。
グレイが「クロ」と呼べば、少し遅れて「クロ」と鳴く。
ニィが「チイ」と幼生を集めれば、「チイ」と真似する。
カラが骨を鳴らせば、同じように床を叩く。
アカが「こわい」と漏らせば、少し離れた場所で同じ音を繰り返す。
意味を理解しているわけではない。
ただ、形を写す。
だが、その速度が異常だった。
名前がついてから二日ほど。
群れの中で、音が増えていた。
以前は感覚だけだった。
匂い。
圧。
空腹。
危険。
それだけで通じていた。
しかし今は、そこへ音が混ざる。
クロ。
ニィ。
アカ。
チイ。
呼べば反応する。
呼ばれた個体が動く。
グレイは、それを便利だと感じていた。
感覚だけでは届きにくい場所へ、音が届く。
排水路の奥。
寝台の陰。
狭い通路。
そこへ向かって声を出せば、個体が振り返る。
それは、群れをさらに一つへまとめていく。
だが、問題もあった。
声は、感覚より曖昧だ。
同じ音でも、違う意味になる。
特に、人間の言葉は危険だった。
アカが、その中心にいる。
腐肉個体。
人間の血を食べ、人間の記憶を抱えた個体。
アカは、時々ひどく人間らしい声を出す。
「こわい」
「やだ」
「ごはん」
「いたい」
断片。
感情に結びついた音。
それを、ミルが覚えてしまった。
「こわい」
排水路の奥で、ミルが真似する。
ニィがすぐ反応した。
「グ」
違う。
やめろ。
そういう感覚。
ミルは首を傾げる。
なぜ止められるのか分からない。
アカが言っていた。
だから真似した。
それだけだ。
グレイは、少し離れた場所からそれを見ていた。
古い食卓の部屋。
割れた皿。
壊れた椅子。
その中で、ミルが人間の言葉を繰り返す。
「こわい」
「ごはん」
「いたい」
新生幼生たちが、それを聞く。
まだ意味は分からない。
でも、音として覚える。
一体が小さく真似した。
「ご……」
別の個体が続く。
「いた……」
ニィが慌てて止める。
チイたちを抱き寄せる。
その動きに、グレイは少し戸惑った。
なぜ止める。
危険だからか。
それとも。
ニィは、人間の言葉を嫌がっていた。
いや、怖がっていた。
アカが人間の声を出すたび、ニィは不安になる。
群れの感覚が乱れるからだ。
人間の声は、感覚の繋がりと相性が悪い。
匂いではない。
群れの圧でもない。
音だけが独立して飛ぶ。
だから、誤解が生まれる。
その日の夜。
グレイは、一匹で排水路を歩いていた。
完全な一匹ではない。
群れの感覚は繋がっている。
クロが入口を見ている感覚。
ニィがチイを寝かせている感覚。
アカが布人形を抱えて震えている感覚。
全部、薄く流れてくる。
それでも、身体は一つ。
静かな排水路。
水音。
古い鉄管。
壁の文字。
人間の残骸。
グレイは、それらの間を歩きながら、人間の声を思い出していた。
レオン。
酒場。
笑い声。
怒鳴り声。
母親の子守唄。
兵士の悲鳴。
アレンの低い声。
エリシアの優しい声。
ラグドの荒い声。
全部違う。
でも、人間はそれで通じている。
群れの感覚を持たないのに。
音だけで。
どうして。
グレイには、それが不思議だった。
その時。
後ろから、小さな足音。
ミルだった。
勝手についてきた。
グレイは振り返る。
ミルはすぐ止まる。
怒られると思ったのか、身体を低くする。
だが、目だけは好奇心で動いている。
グレイは追い返さなかった。
ミルは真似る。
だから、今の群れに必要な個体でもある。
グレイは歩き出した。
ミルもついてくる。
排水路の奥。
そこには、古い作業員部屋が並んでいる。
いくつかは崩れている。
いくつかは水没している。
だが、一部はまだ形を残していた。
グレイは、そのうちの一つへ入った。
小さな部屋。
寝台。
棚。
そして、壁に残る古い絵。
人間の子供が描いたような線。
丸い顔。
家。
空。
歪んでいる。
でも、誰かが何かを伝えようとした跡。
ミルが、その絵へ近づいた。
爪で触る。
グレイは止めない。
ミルはじっと見ている。
それから、小さく鳴いた。
「……おいで」
グレイは振り返った。
ミル自身も驚いている。
人間の声。
しかも、かなり自然だった。
アカほど歪んでいない。
ミルは、すぐに別の音も真似した。
「ごはん」
「こわい」
「いたい」
それから。
「グレイ」
グレイの身体が、わずかに固まった。
ミルが、自分の名を人間の声に近い形で呼んだ。
感覚ではない。
ただの音。
なのに、妙に直接胸へ響いた。
グレイは低く鳴く。
「グ」
止めろ。
ミルはすぐ黙る。
だが、目はまだ輝いていた。
覚えた。
使えた。
その感覚。
グレイは、そこで初めて少し怖くなった。
名前は便利だった。
だが、人間の言葉まで覚え始めたらどうなる。
群れは、どこまで人間を真似する。
その頃。
排水路の外側。
人間側でも、異変が報告されていた。
見張りの兵が、青い顔で話している。
「聞いたんです」
防衛局の男が苛立つ。
「何をだ」
「声を……」
兵は震えていた。
「人間の声です。地下から」
ラグドが目を細める。
「内容は」
兵は唾を飲み込んだ。
「“ごはん”って」
部屋が静まる。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
セヴィルが低く聞く。
「他には」
「“こわい”とか、“おいで”とか……」
エリシアが顔を伏せる。
アレンは拳を握る。
ラグドは舌打ちした。
「最悪だな」
防衛局の男が怒鳴る。
「なら今すぐ焼き払うべきだ!」
「地下施設ごと崩れるぞ」
「構わん!」
ラグドが睨み返す。
「お前だけでやれ」
男は黙る。
セヴィルは記録板を見ていた。
そして、小さく呟く。
「声の模倣段階に入った……」
アレンが聞く。
「そんなに危険なんですか」
セヴィルは答える。
「危険です。ですが、それ以上に」
彼は少し迷った。
それから、本音を言った。
「悲惨です」
誰も理解できなかった。
セヴィル自身も、うまく説明できない。
ただ、地下で起きていることが、ひどく歪んでいると感じていた。
魔物なら、もっと単純でよかった。
襲う。
食べる。
増える。
それだけなら、討伐できる。
でも、今の灰の巣は違う。
食卓を真似する。
名前を持つ。
声を覚える。
子守のようなことをする。
それなのに、人間ではない。
だから、余計に怖い。
地下では、ミルの真似が広がっていた。
「ごはん」
ミルが言う。
チイたちが真似する。
「ご……」
「は……」
ニィが止める。
だが、止めきれない。
アカも時々口を開く。
「こないで」
「たすけて」
「やだ」
その言葉が、群れの中を漂う。
意味は完全には伝わっていない。
だが、感情は少し伝わる。
怖い時の音。
食べる時の音。
拒絶する時の音。
助けを求める時の音。
人間は、これで互いを動かしている。
グレイは、それを理解し始めていた。
感覚だけでは届かないものを、声が動かす。
その時。
チイの一体が、寝台の陰で小さく鳴いた。
「おいで」
ニィが振り返る。
その個体は、別のチイへ向かって声を出していた。
一緒に来い。
そういう意味で使った。
グレイは、その瞬間、ぞっとした。
真似ではなくなり始めている。
使い始めている。
人間の言葉を。
群れの中で。
ミルも気づいたのか、嬉しそうに鳴く。
「おいで」
別のチイが寄ってくる。
偶然かもしれない。
でも、反応した。
声で動いた。
グレイは、部屋の中央で立ち尽くした。
排水路の天井から水が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
その音の中で、灰の群れが人間の言葉を覚えていく。
「ごはん」
「おいで」
「こわい」
「いたい」
「グレイ」
名前と感情と行動が、少しずつ結びついていく。
クロは、それを嫌がっていた。
入口で低く唸る。
人間の音は落ち着かない。
戦いに向かない。
匂いの方が確実だ。
ニィも不安そうだった。
チイたちが、群れの感覚より声へ反応し始めている。
アカは逆に、少し落ち着いていた。
人間の記憶が、声を欲している。
カラは面白がっている。
言葉の合間に骨を鳴らす。
から。
「ごはん」
から。
「おいで」
まるで、人間の会話に合わせているみたいだった。
マエは、チイたちが声で集まると、自然と前へ立つ。
守るように。
グレイは、その全部を見ていた。
群れが変わっている。
確実に。
人間を真似るたび、人間に近づいているように見える。
でも、違う。
もっと別のものになっている。
その夜。
グレイは、一匹で古い食卓の前にいた。
割れた皿。
壊れた椅子。
誰もいない家。
そこへ、群れの声だけが響く。
「ごはん」
「こわい」
「おいで」
「グレイ」
歪んだ人間の言葉。
それは、温かい家の音に似ていた。
そして同時に、地下から聞こえてはいけない怪異の声だった。
グレイは、壊れた椅子へ前脚を置いた。
前のように無理には座らない。
ただ、触れる。
人間は、こうして向かい合って声を交わしたのか。
名前を呼び、食べ、笑い、怒り、眠ったのか。
グレイには、まだ分からない。
でも、少しだけ理解したことがある。
声は、群れを繋ぐ。
そして。
声を持てば持つほど、群れはもう後戻りできなくなる。
ただの巣ではなくなる。
ただの魔物ではなくなる。
地下の家に響く「ごはん」という声を聞きながら、グレイはぼんやり思った。
もし人間が、この声をもっと聞いたら。
きっと、もう自分たちを“ただの魔物”とは呼べなくなる。




