第82話『古い排水路』
水の音が、ずっと続いていた。
ぽたり、ではない。
さらさら、と細く流れる音。
地下水脈。
黒雨が染み込み、長い時間をかけて地下へ集まり、暗い石の間を流れている。
グレイは、その音を聞きながら進んでいた。
人工坑道の奥。
崩れた支柱。
腐った木箱。
割れた皿。
人間の匂い。
その全てを背にして、群れはさらに深部へ入っていく。
一体目が先行する。
入口側ではなく、前方警戒。
もう役割が変わり始めている。
以前なら、一体目は“外敵へ最初に噛みつく個体”だった。
だが今は違う。
群れを導く側。
先を見て、危険を嗅ぎ、道を探す。
二体目は中央。
新生幼生たちをまとめている。
腐肉個体は、そのすぐ近く。
完全には落ち着いていない。
人間の匂いが濃い場所へ来てから、余計に。
「こわい……」
時々、そう漏らす。
新生幼生の一体が真似しかける。
二体目がすぐ止める。
「グ」
静かに。
そのやり取りも、群れの中では自然になり始めていた。
グレイは前方の空気を嗅ぐ。
湿り。
錆。
古い油。
そして、もっと濃い人間の痕跡。
ここは、ただの坑道ではない。
もっと奥。
もっと“使われていた場所”。
グレイは、壁へ爪を触れた。
ざらつく。
だが途中から、質感が変わる。
削られている。
均一。
人工。
そして、奥へ進んだ瞬間。
空気が変わった。
広い。
天井が高い。
自然洞窟ではない。
長い通路。
左右に並ぶ古い鉄管。
壁に沿って走る溝。
水。
排水路。
グレイは止まった。
群れ全体も止まる。
一体目が低く唸る。
新生幼生たちは落ち着かない。
ここは自然じゃない。
石が、人間の形をしている。
それが本能的に怖い。
グレイはゆっくり進んだ。
足音が反響する。
かつ。
かつ。
かつ。
多脚の音が、人工通路へ響く。
まるで、人間の場所へ侵入しているみたいだった。
いや、実際そうなのかもしれない。
グレイは、左右の壁を見た。
古い文字。
錆びた番号。
赤い線。
矢印。
意味は分からない。
だが、レオンの記憶が揺れる。
案内。
方向。
人間は、道へ意味をつける。
誰でも迷わないように。
群れとは違う。
群れなら匂いで分かる。
感覚で分かる。
でも人間は、石へ意味を書く。
グレイは、その違いをぼんやり理解し始めていた。
一体目が、突然立ち止まった。
「グレ」
前。
危険ではない。
違和感。
グレイは近づく。
そして見つけた。
扉。
巨大な鉄扉。
半開き。
片側が歪んでいる。
かなり昔に壊されたのか。
押し開けられたのか。
そこから冷たい風が流れてくる。
水の匂い。
もっと強い人間の匂い。
グレイは、ゆっくり近づいた。
扉へ触れる。
冷たい。
硬い。
骨とも岩とも違う。
人間は、こんなものを作る。
閉じるために。
守るために。
その感覚。
グレイの中で、少しだけ“家”という記憶が揺れる。
レオン。
扉。
帰る。
閉める。
安心。
その感覚。
グレイは扉を押した。
ぎぃ、と低い音。
群れが緊張する。
だが、何も出てこない。
奥は、さらに広かった。
そして。
明らかに、人間の施設だった。
床は平ら。
壁には配管。
崩れた照明。
古い作業机。
棚。
箱。
腐った紙。
そして、奥へ流れていく排水路。
グレイは立ち尽くした。
ここには、人間がいた。
多く。
長く。
働いていた。
暮らしていた。
その痕跡が、空気の中へ沈んでいる。
新生幼生たちは怯えて、二体目へ寄る。
一体目は、低く唸りながら周囲を確認する。
腐肉個体だけが、ぼんやり壁を見ていた。
「いたい……」
小さく呟く。
何か思い出したのかもしれない。
人間の記憶。
作業員。
怪我。
怒鳴り声。
ここに近い感覚。
グレイは、排水路の奥へ進んだ。
水が流れている。
黒雨ほど汚れていない。
透明に近い。
グレイは少し飲んだ。
冷たい。
地下水。
腐っていない。
群れへ感覚を流す。
飲める。
二体目が新生幼生を連れてくる。
幼生たちは恐る恐る水へ近づく。
飲む。
安心。
その感覚が広がる。
グレイは、そこで初めて少しだけ息を緩めた。
安全。
完全ではない。
でも、以前の巣よりは。
人間はまだここを知らない。
一体目が壁際を嗅いでいた。
そして、何かを見つける。
「グレ」
グレイは近づいた。
棚。
その上に、小さな布の塊。
腐っている。
だが、形は残っている。
人間の服。
グレイは、それを見た瞬間、レオンの記憶が大きく揺れた。
服。
寒さ。
肌。
人間は外皮を持たない。
だから、布を着る。
守るために。
隠すために。
人間を、人間の形にするもの。
グレイは布へ触れた。
柔らかい。
外皮と違う。
骨とも違う。
腐肉個体が近づいてくる。
その布の匂いへ反応している。
人間。
強い。
腐肉個体は震えながら、布を抱え込んだ。
「やだ……」
何が。
グレイには分からない。
だが、腐肉個体の中で、人間の記憶が揺れている。
寒い。
痛い。
怖い。
布。
安心。
それらが混ざっている。
二体目が、その様子を見ていた。
新生幼生たちも。
グレイは布を見つめた。
人間は、布を使う。
隠す。
守る。
形を整える。
その感覚が、グレイの中へ少しずつ残っていく。
その頃。
人間側では、追跡が難航していた。
崩落地点の奥。
ラグドたちは、新しい地図を広げていた。
古い坑道資料。
地下水脈図。
採掘記録。
セヴィルが、埃まみれの紙を机へ広げる。
「おそらく、ここです」
ラグドが覗き込む。
「何だこれ」
「旧排水路です」
セヴィルは指で線をなぞった。
「王都建設以前に使われていた地下施設。古い鉱脈と地下水処理を兼ねていたらしい」
防衛局の男が顔をしかめる。
「そんなものが残っていたのか」
「記録上は封鎖済みでした」
「ならなぜ」
「崩落か、地下水侵食でしょう」
セヴィルは淡々と続ける。
「灰の巣は、おそらくそこへ入った」
アレンが聞く。
「安全なんですか」
「人間にとっては危険です」
セヴィルは即答した。
「老朽化。地下水。崩落。地図欠損。ですが、群れにとっては違う」
ラグドが苦い顔をする。
「隠れ場所になるってことか」
「ええ」
セヴィルは目を細めた。
「しかも問題は、それだけではありません」
彼は別の紙を出した。
古い排水路構造図。
そこには、地下施設からさらに複数の分岐が伸びていた。
地下水脈。
旧倉庫。
作業員通路。
廃棄区画。
そして、一部は地上近くへ繋がっている。
ラグドが舌打ちする。
「巣ごと移動できるじゃねぇか……」
セヴィルは頷いた。
「はい。固定巣ではなくなります」
その言葉が重かった。
今までなら、灰の巣には中心があった。
場所。
入口。
封鎖できる。
だが、もし移動するなら。
もし群れ全体が地下施設を利用し始めたら。
もう“巣を囲う”ことができない。
防衛局の男が低く言った。
「……本当に災害だな」
誰も否定しなかった。
地下施設では、グレイたちがさらに奥を探索していた。
排水路の先。
狭い部屋。
崩れた寝台。
棚。
工具。
そして。
壁に掛かったままの小さな絵。
腐っている。
色も消えている。
だが、人間が描いたもの。
グレイは近づいた。
人間が、人間を描いている。
なぜ。
記憶のためか。
忘れないためか。
群れは、そんなことをしない。
必要なら匂いで残す。
でも、人間は形を残す。
グレイは、その違いをまた感じた。
二体目が新生幼生を寝台近くへ集める。
柔らかい。
石より暖かい。
幼生たちは少し落ち着く。
腐肉個体は、まだ布を抱えている。
一体目は入口を見ている。
役割が自然と出来上がっていく。
グレイは、その光景を見た。
群れ。
でも、以前の巣とは違う。
骨の山ではない。
人間の残骸の中に、灰の群れがいる。
それは、奇妙だった。
まるで、人間の暮らしを真似し始めているみたいで。
その時。
新生幼生の一体が、寝台の上へよじ登った。
柔らかい。
安心。
小さく鳴く。
「グ……」
二体目が近づき、身体を寄せる。
まるで、守っているみたいだった。
グレイは、それを見て動けなかった。
人間の記憶。
群れの本能。
空腹。
恐怖。
全部が混ざって、新しい形になり始めている。
《環境適応段階を更新》
《定住模倣行動を確認》
また、声。
グレイは目を閉じた。
嫌だ。
そう思う。
だが、否定できない。
群れは、人間の場所へ入り込んでいる。
人間の道を使い。
人間の布を拾い。
人間の寝台で幼生を休ませている。
模倣。
その言葉の意味を、グレイはまだ知らない。
でも、群れは確実に人間へ近づこうとしていた。
そして、そのたびに。
もっと人間ではなくなっていく。




