第80話『移動巣』
最初に異変へ気づいたのは、ロウだった。
外縁部の高所。
黒岩の割れ目へ身体を預け、矢を番えたまま待機していた彼は、空気の変化を敏感に感じ取った。
音。
骨の擦れる音。
湿った皮が引きずられる音。
そして、足音。
多い。
一匹や二匹ではない。
群れ全体が動いている。
ロウは目を細め、暗闇の奥を見た。
灯りは使えない。
使えば、位置を知られる。
だが、見えなくても分かる。
空気が押し出されてくる。
巣そのものが移動している。
ロウは、すぐ後方へ合図を送った。
小石を三つ。
決められた間隔で。
カッ。
カッ。
カッ。
ラグドが顔を上げる。
「来たか」
セヴィルも耳を澄ませた。
そして、静かに呟く。
「……速い」
アレンが聞き返す。
「何がですか」
「判断が」
セヴィルの目は暗闇を見ていた。
「こちらの誘導を理解した上で動いているように見えます」
防衛局の男が鼻を鳴らす。
「偶然でしょう」
セヴィルは否定しない。
だが、その目は違った。
偶然ではない。
そう感じている。
ラグドが短く指示を飛ばした。
「全員、予定通りだ。圧をかけろ。だが押し込みすぎるな」
兵たちが動く。
灯りを分散。
匂い誘導剤を設置。
毒瓶はまだ開かない。
火も使わない。
通路を塞ぐように、しかし完全には閉じない。
一方向だけを“逃げやすく”見せる。
採石場跡。
そこへ誘導する。
その作戦だった。
だが、ラグドの胸には嫌な感覚があった。
静かすぎる。
普通の魔物の群れなら、もっと乱れる。
恐慌。
怒声。
突撃。
そういうものが出る。
だが、今聞こえてくる音は違う。
規則的だ。
移動している。
まとまって。
まるで、巣全体が一つの生き物みたいに。
ラグドは舌打ちした。
「気味悪ぃ……」
その頃。
グレイたちは動いていた。
狭い通路。
黒岩の隙間。
地下水脈の湿った風。
そこを、十六の命が流れるように進んでいく。
グレイが先頭。
その左右に一体目。
少し後ろに二体目。
中心に新生幼生。
腐肉個体は、そのさらに内側。
前の四体が周囲を囲む。
グレイは、自分の足だけで進んでいなかった。
後ろの幼生がつまずく感覚。
二体目の不安。
一体目の警戒。
全部が流れ込む。
だから、自然と速度を調整できる。
新生幼生が狭い段差で止まれば、グレイは少し待つ。
一体目が前方の匂いへ反応すれば、グレイも身構える。
二体目が人間の気配を感じれば、群れ全体が静かになる。
それは命令ではなかった。
もっと反射に近い。
身体の一部が動けば、他も合わせて動く。
グレイは、もう群れを“外から見ている”感覚ではなかった。
群れの中から、自分自身を見ている。
《群体同期率上昇》
また、声。
頭の奥。
冷たい。
嫌な声。
だが、以前より意味が分かってしまう。
同期。
確かにそうだった。
群れの動きが、揃っている。
揃いすぎている。
怖いくらいに。
腐肉個体が急に立ち止まった。
その瞬間、後ろの幼生たちも止まる。
グレイは振り返らなくても分かった。
腐肉個体が、人間の匂いに反応している。
恐怖。
そして、引き寄せられる感覚。
人間の血。
記憶。
食欲。
全部。
グレイは強く感覚を送る。
進め。
腐肉個体は震えた。
「こわい……」
人間の声。
新生幼生の一体が真似しそうになる。
二体目が即座に抑える。
「グ!」
静かに。
その連携も、以前より早い。
群れ全体が、一つの危険へ反応する速度が上がっている。
グレイは、それを感じながら進んだ。
そして、外縁へ近づいた時。
人間の匂いが、一気に濃くなった。
火。
鉄。
汗。
毒。
アレン。
ラグド。
ロウ。
セヴィル。
エリシア。
全部。
グレイは止まった。
一体目も低く唸る。
前方。
誘導路。
人間が、わざと開けた道。
採石場跡へ続く広い通路。
そこだけ、圧が弱い。
人間が逃がそうとしている。
だが、それは罠。
広い場所で囲むつもり。
グレイは理解していた。
腐肉個体の記憶。
人間たちの配置。
匂い。
動き。
全部から。
一体目は進みたがる。
外へ。
広い場所へ。
戦える。
逃げられる。
その感覚。
だが、グレイは違った。
途中で曲がる。
裂け目。
下流側。
狭い道。
人間の配置が薄い。
前の四体の一体が見つけた道。
そこへ行く。
グレイは、群れ全体へ感覚を広げた。
もう少し。
静かに。
そして曲がる。
二体目が応じる。
新生幼生をまとめる。
骨個体が、持っていた骨を落とさないように押さえる。
腐肉個体はまだ震えている。
その時だった。
外縁側で、小さな音がした。
カラン。
骨。
誰かが踏んだ。
人間側の作業員だった。
慣れていない若い兵。
足元の骨を蹴った。
小さな音。
だが、群れ全体が反応した。
一体目が飛び出しかける。
腐肉個体が怯える。
新生幼生たちが鳴きそうになる。
グレイは即座に感覚を叩き込んだ。
止まれ。
静かに。
群れが硬直する。
ロウが、その異変を感じた。
「いる」
ラグドが手を上げる。
全員停止。
通路の向こう。
暗闇。
何かがいる。
多い。
気配が重なっている。
防衛局の兵が緊張する。
「来るのか……?」
アレンが剣へ手をかける。
エリシアの喉が鳴る。
セヴィルだけが、興奮を抑えきれない目をしていた。
「群れが統制されている……」
ラグドが低く返す。
「喜ぶな」
「いえ。最悪です」
セヴィルは本気でそう言った。
「これは単なる群体ではない」
その時、グレイは動いた。
誘導路へは行かない。
右側。
黒岩の裂け目。
狭い。
人間なら見落とす。
幼生なら通れる。
グレイはそこへ身体をねじ込んだ。
一体目が続く。
二体目が新生幼生を押し込む。
群れが、一気に方向転換した。
その動きは、あまりにも自然だった。
ロウが目を見開く。
「違う! 誘導に乗ってない!」
ラグドが叫ぶ。
「右だ! 右側の裂け目!」
防衛局の兵たちが動く。
だが遅い。
グレイたちは、すでに裂け目へ流れ込んでいる。
まるで、水だった。
群れ全体が、一つの意志で細道へ押し込まれていく。
人間側は混乱した。
「そんな道があったのか!?」
「地図にない!」
「毒班、回れ!」
「間に合わない!」
アレンが前へ出る。
「俺が止める!」
ラグドが止める。
「待て! 狭すぎる!」
だが、アレンは行った。
裂け目へ飛び込む。
グレイは、その気配を感じた。
速い。
一体目が迎撃しようとする。
グレイは止めない。
一体目が飛び出す。
狭い裂け目の中。
アレンの剣と、一体目の爪がぶつかった。
火花。
狭い。
動けない。
一体目は押し返される。
アレンも壁へ肩をぶつける。
その瞬間、グレイが動いた。
一体目ではない。
グレイ自身が、裂け目の天井へ爪を立てた。
黒岩が軋む。
ラグドが叫ぶ。
「崩す気だ!」
グレイは知っていた。
この裂け目は脆い。
前の四体の記憶。
白い虫の通路。
黒雨で削られた岩。
そこへ力をかければ。
崩れる。
グレイは、群れ全体へ感覚を流した。
伏せろ。
その瞬間。
黒岩が落ちた。
轟音。
裂け目が半分潰れる。
アレンが後退する。
ロウの矢が飛ぶ。
だが、岩に弾かれる。
土煙。
悲鳴。
作業員たちが下がる。
ラグドが舌打ちする。
「読まれてやがる……!」
グレイたちは、その崩落の奥へ抜けた。
完全には塞がっていない。
だが、人間側がすぐ追えない程度には崩れた。
群れは止まらない。
新生幼生たちも、怯えながら進む。
腐肉個体は、人間の叫びに震えている。
「やだ……」
「こわい……」
その声が、幼生たちへ広がりそうになる。
二体目が抑える。
一体目は後方を警戒。
グレイは前。
全部同時。
全部繋がっている。
《群体危機回避行動を確認》
《中心個体の統合演算を継続》
また声。
グレイは怒りで唸った。
演算。
違う。
これは、自分たちが生きようとしているだけだ。
だが、否定しても、身体は変わり続ける。
群れ全体の感覚が、さらに強く結びつく。
後ろで、アレンが崩落を越えようとしていた。
ラグドが止める。
「追うな!」
「でも!」
「狭い場所でやれば、また崩される!」
アレンは歯を食いしばる。
逃がした。
しかも、誘導を読まれた。
それが重い。
セヴィルは、崩れた裂け目を見ていた。
その目は青ざめていた。
「……適応している」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「こちらの意図を理解し、最適経路を選び、地形まで利用した」
防衛局の男が怒鳴る。
「ただの偶然だ!」
セヴィルは振り返る。
「偶然で崩落地点を選びますか? 群れ全体の移動速度を揃えますか? 誘導路を避けますか?」
男は答えられない。
セヴィルは続ける。
「これはもう、単体の知性ではない……」
ラグドが低く言った。
「群れそのものが考えてるみてぇだな」
その言葉に、空気が冷えた。
群れそのもの。
もし本当にそうなら。
灰の巣主を殺せば終わる、という話ではなくなる。
群れ全体が、一つの頭になる。
そんな災害。
アレンは崩落の奥を睨んでいた。
暗闇。
その先へ、グレイたちは消えた。
アレンの胸には、奇妙な感覚が残っていた。
さっき裂け目で剣を交えた瞬間。
一体目だけではなかった。
もっと多くの視線を感じた。
複数。
いや、群れ全体。
見られていた。
試されていた。
そんな感覚。
アレンは小さく息を吐いた。
「……本当に、化け物になってる」
その頃。
グレイたちは下流側の裂け目を抜けていた。
狭い。
苦しい。
だが、人間は来ない。
今のところ。
群れは無事。
新生幼生もいる。
二体目も。
一体目も。
腐肉個体も。
全員いる。
グレイは、少しだけ速度を落とした。
その瞬間。
群れ全体が、自然と呼吸を合わせるように緩んだ。
誰も命令していない。
でも揃う。
グレイは、それが怖かった。
便利だ。
強い。
でも、自分が薄くなる。
一体目の怒り。
二体目の不安。
腐肉個体の人間記憶。
新生幼生の空腹。
全部が混ざる。
どこまでが自分なのか分からなくなる。
グレイは低く、自分の名を呼んだ。
「グレイ」
返事が重なる。
「グレ」
「グレ……」
「グ……」
「こわい」
「グ……」
その声たちが、頭の中へ直接響く。
グレイは目を閉じた。
そして気づく。
もう、自分は“グレイ一匹”では足りなくなっている。
群れが増えた時点で。
人間を食べた時点で。
人間に追われ始めた時点で。
灰の巣は、別の生き物へ変わり始めていた。
移動する巣。
繋がる感覚。
共有される恐怖。
一つになる空腹。
それは、人間の知るどんな魔物とも違っていた。
黒雨の音が遠くなる。
代わりに、地下水脈の流れる音が近づいてくる。
新しい道。
新しい巣。
あるいは、もっと大きな破滅。
グレイは進む。
群れ全体を連れて。
後ろでは、人間たちもまた追い始めていた。
もう、どちらも止まれなかった。




