第61話『討伐隊』
勇者という言葉を、グレイは知らなかった。
人間の記憶の中にはあった。
レオンが酒場で聞いた話。
ニルが憧れた遠い存在。
ハルクが冗談混じりに口にした英雄譚。
魔物を倒し、村を救い、王都に名を刻む者。
強い人間。
特別な人間。
人間の群れの中で、さらに選ばれた個体。
それが勇者。
けれど、グレイにはまだ分からない。
その言葉が、自分たちへ向かって歩き始めていることを。
下層の奥で、グレイは黒雨の落ちる音を聞いていた。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
地下水脈の天井から、黒い水滴が落ちる。
腐肉獣の血。
煙の煤。
鉱毒。
人間の薬剤。
それらが混ざった水。
二体目は、その水滴の落ちる場所を避ける道を作っていた。
腐肉獣の皮を敷き、骨で縁を作り、幼生たちが近づかないように匂いを残す。
一体目は入口にいる。
地下水脈へ来てから、一体目はほとんど眠らない。
少し休んでも、すぐ入口を見る。
人間。
魔物。
煙。
どれかが来るかもしれない。
そう思っている。
新しい四体は、少しずつ回復していた。
煙を吸った一体はまだ呼吸が浅いが、餌を食べれば動ける。
腐った死骸を勝手に食べた個体も、今のところ大きな異常はない。
ただ、動きが少し荒い。
空腹になると、他の個体より先に前へ出ようとする。
個性。
その言葉が、レオンの記憶から浮かぶ。
グレイは、その言葉を嫌なもののように感じた。
群れは一つでなければならない。
そう思いたい。
だが、現実には違う。
一体目は前へ出る。
二体目は匂いを読む。
煙を吸った個体は弱い。
腐った死骸を食べた個体は飢えに弱い。
残る二体は、まだグレイの近くを離れたがらない。
全部違う。
繋がっているのに、違う。
だから守るのが難しい。
グレイは地下水脈の入口へ向かった。
一体目がすぐにこちらを見る。
「グレ」
外は今、静か。
そういう感覚が流れる。
グレイは低く返した。
「グ」
分かった。
以前なら、声を出さなくてもよかった。
自分の感覚だけで十分だった。
今は違う。
声は群れの中で合図になっている。
短い音。
低い音。
強い音。
弱い音。
そこに匂いと感情が乗る。
人間の言葉ではない。
でも、意味がある。
地下水脈の外へ顔を出すと、煙の匂いは薄れていた。
完全には消えていない。
上層へ続く通路には、まだ焦げた薬品の気配が残っている。
だが、人間は火を止めたらしい。
ラグドが止めたのか。
別の人間が判断したのか。
分からない。
代わりに、別の匂いが増えていた。
金属。
清潔な布。
魔力。
磨かれた革。
薬草。
そして、強い人間の匂い。
ただの探索者ではない。
封鎖班でもない。
匂いが整っている。
恐怖が少ない。
緊張はある。
だが、怯えではない。
訓練された人間。
戦うために来た人間。
グレイは、黒岩へ身体を押しつけた。
遠い。
しかし、確実にいる。
数は五。
いや、六。
その周囲に監視班がさらにいる。
大きな動きが始まっていた。
王都側。
その頃、地上では討伐隊が編成されていた。
下層入口の臨時拠点。
木と石で作られた簡易の詰所に、集められた者たちがいた。
ギルドの上級冒険者。
王都防衛局の魔導兵。
研究院の観測員。
そして、勇者認定を受けた若者たち。
彼らは英雄譚の中のように輝いているわけではなかった。
鎧は綺麗だが、傷がないわけではない。
剣も杖も、飾りではない。
目には緊張があり、口数も少ない。
彼らは、善人だった。
少なくとも、自分たちをそう信じている者たちだった。
村を守るために来た。
王都を守るために来た。
下層で死んだ者たちのために来た。
灰の巣主と呼ばれる災害を止めるために来た。
その中で、最も若く見える男が地図を見ていた。
名はアレン。
勇者認定者。
剣士。
年齢は二十を少し越えたくらい。
茶色の髪を短く切り、癖のない顔をしている。
英雄というより、誠実な青年に見えた。
だが、腰の剣には強い魔力が宿っていた。
彼は、地図の上に置かれた黒い印を見つめている。
「ここが巣の推定位置ですか」
ラグドが頷いた。
「正確じゃない。確定してるのは、巣があるってことだけだ」
アレンの隣に立つ女が眉を寄せた。
名はエリシア。
聖術師。
治療と浄化を得意とする。
「幼体がいるという話は本当なんですか」
ラグドは少し黙った。
「足跡と痕跡だけなら、ほぼ間違いない」
「数は?」
「最低六。増えてる可能性もある」
エリシアの表情が曇る。
幼体。
その言葉に、彼女は人間の子供のようなものを思い浮かべてしまう。
だが、資料に描かれた灰巣眷属の想像図は、どう見ても魔物だった。
黒灰色の外皮。
多脚。
未発達の牙。
巣主と同じ匂いを持つ小型個体。
危険。
それでも、幼体という言葉は心を乱す。
防衛局の魔導兵が冷たく言った。
「幼体だからこそ危険です。今のうちに処理しなければ、増えます」
エリシアは彼を睨んだ。
「処理って言い方、やめてください」
「では何と?」
「討伐です」
「同じです」
「違います」
短い衝突。
アレンが間に入った。
「今は言葉で争っても仕方ない。目的は、被害を止めることです」
もう一人、長身の弓使いが壁にもたれていた。
名はロウ。
無駄口の少ない男。
彼は地図ではなく、下層入口の暗闇を見ている。
「その被害ってやつが難しい」
アレンが振り返る。
「どういう意味ですか」
ロウは言った。
「黒雨は、こっちの煙が原因なんだろ。腐肉獣が流れたのも。なら、全部あの魔物の被害って言っていいのか?」
防衛局の魔導兵が顔をしかめる。
「君は何を言いたい」
「別に。相手が悪くないって言いたいわけじゃない。ただ、押したら押し返される場所に入るんだって確認してるだけだ」
ラグドは、その言葉に少しだけ視線を向けた。
この弓使いは、思ったより見えている。
ラグドはそう感じた。
アレンは地図へ視線を戻した。
「それでも、放置はできません。周辺村に警戒通達が出ています。家畜被害が出る前に、あるいは人が襲われる前に止める必要がある」
「人はもう死んでる」
魔導兵が言った。
部屋の空気が重くなる。
下層監視班の死者。
探索者の行方不明。
人族捕食疑惑。
その全てが、灰の巣主の周囲に積み上がっている。
ラグドは低く言った。
「今回の目的は討伐じゃない」
魔導兵が顔を上げる。
「局地災害指定が下りています」
「知ってる」
「なら討伐が最優先では?」
「違う」
ラグドは地図を叩いた。
「巣へ踏み込んで殺そうとすれば、群れが散る。散った幼体が地上へ出たらどうする。全部追えるのか」
魔導兵は答えられない。
ラグドは続ける。
「まずは外縁の確認。巣の移動先。逃げ道。水脈側の接続。地上への最短経路。それを押さえる。戦闘は最後だ」
アレンは真剣な顔で頷いた。
「了解しました」
エリシアも頷く。
ロウは無言。
魔導兵だけが不満そうだった。
「相手は魔物です。こちらが慎重になりすぎれば、時間を与えるだけです」
ラグドは、静かに言った。
「時間を与えたら学ぶ。刺激したらもっと学ぶ。追い込んだら変わる。だったら、どれを選んでも危険なんだよ」
誰も何も言わなかった。
その通りだった。
灰の巣主に対するあらゆる選択は危険だった。
早く殺す危険。
遅らせる危険。
封鎖する危険。
火を使う危険。
血を使う危険。
近づく危険。
近づかない危険。
正解がない。
その中で、一番被害が少なそうな道を選ぶしかない。
アレンは、静かに剣の柄へ触れた。
「もし、戦うしかなくなったら」
ラグドは答えた。
「その時は迷うな」
アレンの目が少しだけ細くなる。
「幼体も?」
エリシアが息を止めた。
ラグドは、一瞬だけ黙った。
それから、硬い声で言った。
「地上へ出る危険があるなら」
その言葉は、部屋に重く落ちた。
アレンは目を伏せた。
「分かりました」
善人だからこそ、苦しい。
彼は村を守りたい。
でも、幼体という言葉に反応してしまう。
それが魔物だと分かっていても。
放置すれば、もっと多くが死ぬと分かっていても。
エリシアも同じだった。
ロウも、表には出さないだけで同じだ。
この討伐隊は、魔物を憎んで集まった者たちばかりではなかった。
守りたいから来た。
救いたいから来た。
だから、殺さなければならない時が最も苦しい。
その苦しさを、グレイは知らない。
だが、少し似たものを、下層で感じ始めていた。
地下水脈の奥で、グレイは人間の匂いを探っていた。
強い人間たち。
整った足音。
乱れない呼吸。
近づいてくる気配。
一体目が低く唸る。
グレイは鳴いた。
「グ」
まだ動くな。
一体目は止まる。
だが、怒りはある。
煙の記憶。
黒雨の記憶。
封鎖の音。
人間に対する敵意が、群れの中に残っている。
二体目は奥で震えていた。
人間の匂いが増えると、二体目の中では二つの感覚がぶつかる。
怖い。
でも、声を出せば動く。
助けてという音。
それを使いたい衝動。
グレイは二体目へ強い制止を送った。
駄目だ。
二体目は小さく鳴いた。
「グレ」
不安。
従う。
だが、完全には消えない。
新しい幼生たちは、まだ何も理解していない。
人間の匂いが来ると、ただ不安が広がる。
その中で、腐った死骸を食べた個体だけは少し違った。
匂いへ顔を向ける。
空腹と興味が混ざる。
グレイは、それも警戒していた。
群れの中から、勝手に動く個体が出る。
それが一番怖い。
外敵よりも。
人間よりも。
グレイは、地下水脈の奥に簡易の巣を作っていた。
元の巣ほどではない。
骨も足りない。
匂いも定着していない。
だが、腐肉獣の骨と皮、黒岩の欠片、水を避ける溝、煙が流れにくい窪み。
それらを組み合わせて、群れを隠している。
今、ここへ人間が来ればどうなる。
戦うか。
逃げるか。
地下水脈をさらに奥へ進むか。
その先は知らない。
知らない場所へ六体を連れて行く。
危険。
だが、ここに留まれば人間が来る。
グレイは、判断を迫られていた。
その時、遠くで人間の声がした。
「ここから先は湿地化している。足元注意」
ラグドではない。
若い男。
落ち着いている。
アレン。
グレイは名前を知らない。
ただ、声の響きから強い人間だと分かった。
「煙の残留があります。浄化しますか」
女の声。
エリシア。
柔らかい。
だが、魔力がある。
危険。
「最小限で」
ラグドの声。
「強い魔力は残すな。あいつらが覚える」
ロウの低い声が続く。
「骨がある。並んでる」
足音が止まる。
全員が警戒する。
彼らは、地下水脈の外縁部へ入ってきていた。
巣の本体ではない。
だが、グレイたちが一時的に作った外側の警戒線。
腐肉獣の骨。
黒岩の溝。
落ちる水を避ける皮。
それを見つけた。
アレンが小さく言った。
「これは……魔物が作ったんですか」
ラグドが答える。
「たぶんな」
エリシアの声が震えた。
「人の手みたい」
ラグドは否定しない。
「そう見えるから厄介なんだ」
グレイは遠くから聞いていた。
人間たちが自分の作ったものを見ている。
巣の外縁。
骨。
皮。
匂い。
それらを読み取っている。
討伐隊。
そう呼ばれる者たちが、もう近くにいる。
グレイの中で緊張が高まる。
一体目も反応する。
戦う。
そういう感情。
二体目は幼生たちをさらに奥へ押す。
新しい幼生たちが鳴く。
きゅ。
きゅ。
グレイは低く鳴いた。
「グ」
静かに。
群れが少し静まる。
人間側。
アレンは、骨の配置を見ていた。
魔物が作ったとは思えないほど、意味がある。
水滴を避けるための皮。
足を取らせる骨。
小型の通り道。
大きな個体が通った擦れ跡。
巣。
いや、道具。
いや、生活。
彼は、その光景に言葉を失っていた。
エリシアが小さく言う。
「本当に、討伐対象なんですよね」
魔導兵が冷たく返す。
「迷うな。これが地上に出れば村が終わる」
「分かっています」
「なら、その顔はやめろ」
アレンが魔導兵を見た。
「やめてください」
魔導兵は黙る。
ラグドは、三人のやり取りを聞きながら黒岩の奥を見ていた。
いる。
近い。
灰の巣主。
たぶん、こちらを見ている。
そう感じていた。
ラグドは低く言った。
「今日はここまでだ」
魔導兵が驚く。
「まだ何もしていません」
「見た。それで十分だ」
アレンも少し驚いた顔をした。
「ここで撤退ですか」
「そうだ」
「理由を聞いても?」
ラグドは骨を指差した。
「ここは外縁だ。巣の本体じゃない。それでも、これだけ作り込まれてる。奥に入れば、もっと複雑になる。今日の装備じゃ駄目だ」
ロウが頷いた。
「同感だ。水音で距離が狂う。骨も多い。奥から見られてる感覚がある」
エリシアも静かに言った。
「それに、空気が変です。煙の残りだけじゃない。魔物の気配が混ざりすぎている」
魔導兵は不満そうだったが、勇者隊の三人が撤退に同意したため、口を閉じた。
アレンは、最後に奥の暗闇を見た。
そこに何かがいる。
灰の巣主。
災害指定された魔物。
人を食ったかもしれない魔物。
群れを増やす魔物。
討伐しなければならない相手。
しかし、今見た骨の配置は、ただの化け物の巣には見えなかった。
生きるために作られた場所。
守るために作られた場所。
そのことが、彼の胸に小さな重さを残した。
「戻ります」
アレンは言った。
人間たちの足音が遠ざかる。
グレイは動かなかった。
完全に消えるまで。
一体目が、追いたがる感情を流した。
グレイは止めた。
「グ」
追わない。
今は。
一体目は不満を残したまま止まる。
二体目が奥から出てくる。
不安。
人間は行った。
でも戻ってくる。
その感覚。
グレイも同じだった。
今日の人間は、今までと違った。
叫ばない。
深追いしない。
火を乱用しない。
骨を読む。
巣を読む。
そして、強い。
一体目でも止められないかもしれない。
グレイでも、複数相手は危険かもしれない。
勇者。
その言葉をまだ知らないのに、グレイは感じていた。
新しい種類の人間が来た。
避けるだけでは済まない。
群れを守るには、もっと変わる必要がある。
地下水脈の暗闇で、グレイは静かに目を閉じた。
遠くで討伐隊の足音が消えていく。
近くでは幼生たちが震えている。
そして、グレイの中に新しい警戒が残った。
人間は本気になった。
なら、群れもまた。
次の形へ進まなければならない。




