第25話『人間の声』
人間の音は、他の魔物と違っていた。
足音だけではない。
金属。
革。
布。
瓶の中で揺れる液体。
光石を包む袋。
剣の柄が防具に当たる小さな音。
息。
声。
それらが、ひとつの群れのように近づいてくる。
けれど、魔物の群れとは違う。
同じ方向へ動いているのに、全員の気配が違う。
重い足音。
軽い足音。
慎重な足音。
苛立ちを含んだ足音。
恐怖を隠そうとする呼吸。
興奮を抑えきれない息。
それぞれが、ばらばらだった。
なのに一つのまとまりとして進んでいる。
グレイは、黒岩の天井に張りついたまま、じっとそれを聞いていた。
脱皮したばかりの身体は、まだ完全には固まっていない。
だが、動ける。
むしろ、以前より静かに動ける。
黒くなった外皮は、下層の岩影によく馴染む。
脚は長くなり、岩の凹凸を以前より細かく掴めるようになった。
動けば動くほど、身体の違いが分かる。
軽い。
静か。
柔らかい。
硬い。
矛盾した感覚が同時にある。
外皮は薄く硬くなった。
けれど関節は以前より滑らかで、狭い場所でも動きやすい。
まるで、下層の影へ潜るために作り直されたような身体だった。
グレイは、その身体を使って、人間たちの気配へ近づいていた。
追うつもりではなかった。
人間の血を追うのは危険だ。
前に血痕へ近づいた時、罠があった。
網。
鈴。
薬草。
人間は、グレイが血に引かれることを読んでいた。
だから、追ってはいけない。
分かっている。
だが、今回は血ではなかった。
声だった。
人間たちが話している。
自分について。
グレイラーヴァについて。
捕獲。
討伐。
観察。
それらの言葉が、黒岩の通路を伝って届いた。
その声を聞いた瞬間、グレイは止まれなかった。
知りたい。
人間たちが何を考えているのか。
自分をどう扱うつもりなのか。
誰が危険なのか。
誰を避けるべきなのか。
それを知らなければ、生き残れない。
そういう理由がある。
だが、本当はそれだけではない。
人間の声は、意味を持つ。
魔物の唸りや足音とは違う。
誰かが誰かへ何かを伝える音。
自分を指す音。
世界を切り分ける音。
グレイは、それに惹かれていた。
血ほど強烈ではない。
だが、静かに頭を引く。
知りたい。
聞きたい。
理解したい。
そう思ってしまう。
グレイは天井の亀裂に身を沈めた。
その下の通路に、人間たちが集まっている。
四人ではなかった。
増えている。
ラグド。
ニル。
セヴィル。
ガラン。
それに、知らない人間が二人。
一人は細身で、弓の匂いがする。
革。
油。
羽根。
弦。
もう一人は魔力の匂いが濃い。
魔力。
その言葉が自然に浮かぶ。
火ではない。
だが熱に近い。
空気を少し歪ませるような匂い。
人間の中でも、何か違う。
杖を持っている。
魔法を使う者かもしれない。
グレイは、以前見た火を飛ばす人間を思い出した。
危険。
魔力の匂いは覚える必要がある。
ラグドの声がした。
「ここから先は、無理に進まない」
低く、静か。
「痕跡だけ取る。接触したら下がる。追うな」
弓の人間が言った。
「追うなって、相手は幼体なんだろ?」
声は軽い。
だが、油断の匂いがある。
「もう幼体とは限らない」
ラグドはすぐに返した。
「外皮片、食い跡、移動痕。どれも変わっている。少なくとも、最初に発見された灰幼生ではない」
セヴィルが割り込む。
「仮称グレイラーヴァ。現在は捕食幼種相当と見るべきでしょう」
その声には、相変わらず興奮があった。
グレイは天井でじっと聞いていた。
捕食幼種。
人間の言葉で、自分がまた定義される。
不快ではない。
だが、落ち着かない。
言葉を与えられるたび、自分がその形へ押し込められるような感覚がある。
自分は、それだけなのか。
喰う幼い種。
危険個体。
研究対象。
討伐候補。
人間の言葉は便利だ。
だが、鋭い。
「捕食幼種なら、討伐判断を上げるべきでは?」
魔力の匂いを持つ人間が言った。
女性の声。
冷静だが、警戒が強い。
「進化速度が異常です。下層でこれ以上変化される前に処理した方がいい」
ニルの呼吸が少し乱れた。
恐怖。
彼はこの意見を聞いて、安心したのかもしれない。
殺せば終わる。
そう思いたい匂い。
だが、ラグドはすぐには頷かなかった。
「処理できるならな」
「できないと?」
「正面からならできるかもしれない。問題は、正面から出てこないことだ」
ガランが短く言った。
「あれは逃げる」
ラグドが頷く。
「逃げる。隠れる。誘導する。痕跡を切る。血と水と毒を使う。弱い魔物を餌にする。最近は、こちらの仕掛けも読んでいる可能性がある」
弓の人間が鼻で笑った。
「考えすぎじゃないか?」
その瞬間、グレイはその人間を強く記憶した。
軽い声。
油断。
弓。
距離から攻撃する人間。
危険ではある。
だが、ラグドほどではない。
セヴィルほどでもない。
油断する人間は、動きが読みやすいかもしれない。
そう判断してしまう。
グレイは、自分が自然に人間の弱点を探していることに気づいた。
声を聞きながら。
名前も知らない人間に対して。
どこを噛めるか。
どう動くか。
何を恐れているか。
それを考えている。
人間を理解したい。
同時に、必要なら殺す準備をしている。
その二つがまた近づいていた。
セヴィルが言った。
「討伐は反対です。現時点で殺すのは損失が大きい」
魔力の女が冷たく返す。
「損失?」
「ええ。異常な適応能力、捕食による性質獲得、罠への学習、さらに人族血液への反応。これほどの研究対象は滅多にありません。捕獲して管理下に置くべきです」
「管理できる根拠は?」
「檻、薬剤、魔封印、給餌制限。手段はいくらでもあります」
ラグドの匂いが硬くなった。
怒り。
「セヴィル。前にも言った。あれに制限を与えれば、その制限に適応する可能性がある」
「だからこそ観察価値がある」
「人里に持ち込む気か?」
セヴィルは一瞬黙った。
だが、その沈黙は迷いではない。
言葉を選んでいるだけだった。
「王都の研究院には専用施設があります」
「専用施設が何を想定しているか知らないが、あいつは想定外へ進む個体だ」
ラグドの声は低いままだった。
「下層の毒水に触れて耐性を得た。黒岩喰いを食って体色を変えた。追跡獣とやり合って逃げた。人間の血痕に反応し、罠に触れても逃げた。今度は何に適応する?」
セヴィルが答えない。
ラグドは続けた。
「檻か。薬か。魔封印か。それとも人間の言葉か」
グレイは、その言葉に身体の内側がざわついた。
人間の言葉に適応する。
それはもう始まっている。
意味が分かる。
感情の揺れも少し分かる。
名前を覚えた。
自分をグレイと呼び始めた。
それは適応なのか。
人間の言葉に、自分が作り変えられているのか。
グレイは、天井の亀裂にさらに深く身を沈めた。
聞いてはいけないのかもしれない。
だが、聞いてしまう。
魔力の女が静かに言った。
「なら、討伐が一番安全では」
「安全だ。成功すればな」
ラグドが返す。
「失敗したら?」
「失敗?」
「半端に傷つける。追い詰める。燃やす。毒を撒く。魔法を当てる。殺しきれず逃がす。その後、あいつは何に適応する?」
誰もすぐには答えなかった。
ニルの匂いが強くなる。
恐怖。
彼は想像した。
人間の攻撃に適応するグレイを。
グレイ自身も想像した。
火。
毒。
網。
剣。
魔法。
檻。
もし、それらを受けて生き残ったら。
自分の身体は変わるのだろう。
火に耐える外皮。
毒を分解する内臓。
網を裂く爪。
剣を避ける反応。
魔法を感じ取る器官。
檻を噛む顎。
あり得る。
そう思った。
自分でも。
そのことが怖かった。
ラグドが言った。
「だから今は観察だ。接触を減らす。追い詰めない。痕跡を読む。動きの範囲を掴む。必要なら、通路を封鎖して上層へ出さないようにする」
弓の人間が言った。
「つまり放置かよ」
「管理だ」
「魔物相手に慎重すぎる」
ガランが低く言った。
「お前は見てないからそう言える」
弓の人間が口を閉じる。
ガランの声には重さがあった。
この男は多くを語らない。
だが、一度言えば空気が少し変わる。
ガランはグレイを恐れている。
ただし、ニルのような震える恐怖ではない。
戦場で危険物を見た者の恐れ。
盾を構えるための恐れ。
グレイは、その匂いを覚えた。
セヴィルが紙をめくる音がした。
「では、記録上の分類はどうします?」
ラグドは少し沈黙した。
「仮称グレイラーヴァ。捕食幼種相当。危険度は調査継続。討伐判断は保留。捕獲判断も保留」
セヴィルが不満そうに言う。
「捕獲判断も保留、ですか」
「保留だ。勝手に生け捕りを試すな」
「研究院の判断が上なら?」
「現場に入るなら俺の判断が上だ」
ラグドの声は静かだった。
しかし、その奥に硬いものがあった。
セヴィルはしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「分かりました。少なくとも報告にはそう書きます」
少なくとも。
グレイはその言葉を覚えた。
セヴィルはまだ諦めていない。
報告では従う。
だが、別の形で動くかもしれない。
血を使う。
餌を置く。
薬を撒く。
別の人間を呼ぶ。
彼は危険だ。
ラグドは避ける危険。
セヴィルは近づいてくる危険。
ニルは血の危険。
ガランは盾の危険。
弓の男は油断の危険。
魔力の女は魔法の危険。
人間は増えるほど、危険の種類も増える。
グレイは、身体を一度低く沈めた。
脱皮後の外皮が、黒岩に擦れる。
音はほとんど出ない。
ラグドの声が再び聞こえた。
「それと、呼称を統一する」
セヴィルが言う。
「グレイラーヴァで?」
「そうだ。現場内ではその名で呼べ。灰幼生、黒い幼体、捕食幼種、言い方が散ると伝達が遅れる」
ニルが小さく言った。
「グレイラーヴァ……」
その声には、恐怖があった。
だが、それだけではない。
あの血痕の記憶の中で聞いた“ニル”とは違う。
それでも、確かに自分へ向けられた音だった。
グレイは、天井で動かずにその音を聞いた。
グレイラーヴァ。
長い。
人間の口で呼ばれる音。
恐れと警戒を含んだ音。
自分はもう、それを短くして持っている。
グレイ。
そのことを人間たちは知らない。
人間たちは、危険を共有するためにグレイラーヴァと呼ぶ。
自分は、自分を失わないためにグレイと呼ぶ。
同じ音から生まれたのに、意味が違う。
それが少し不思議だった。
魔力の女が言った。
「そのグレイラーヴァがこちらを聞いている可能性は?」
空気が変わった。
グレイは動かない。
ラグドは即答しなかった。
「ある」
短い答え。
ニルの呼吸が乱れる。
弓の男が小さく舌打ちした。
ガランが盾を持ち直す。
セヴィルの匂いが、恐怖より先に興味で強くなった。
ラグドが続ける。
「声も、匂いも、足音も学習対象だ。無駄な情報を出すな」
セヴィルが薄く笑った。
「なら、この会話も聞かれているかもしれませんね」
ラグドが言った。
「だから言っている」
グレイは、ほんのわずかに全身を固くした。
気づいている。
完全ではない。
居場所までは分かっていない。
だが、聞かれている可能性を考えて話している。
つまり、ラグドは今の言葉を自分にも聞かせているのかもしれない。
追い詰めない。
血を使わない。
呼称を統一する。
接触禁止。
それらは人間への指示であると同時に、グレイへの伝達にもなっているのかもしれない。
人間の声は、ただの音ではない。
相手が聞いているかもしれないと考えて発する音。
そういう使い方もある。
グレイは、人間の言葉の複雑さに少しだけ圧迫された。
魔物の唸りは直接的だ。
威嚇。
恐怖。
怒り。
空腹。
だが、人間の言葉は違う。
味方に向けながら、敵にも聞かせる。
隠しながら、示す。
命令しながら、警告する。
名前をつけながら、縛る。
グレイにはまだ、その全ては理解できない。
だが、危険だということは分かる。
ラグドが言った。
「今日はここまでだ。セヴィル、痕跡採取は許可する。ただし、血液誘引はなし。魔法刺激もなし。罠の追加設置もなし」
セヴィルが不満を隠さず言う。
「それでは採取できるものが限られます」
「限られた範囲でやれ」
魔力の女が言った。
「私は魔力痕を確認します。こちらから刺激はしません」
ラグドが頷く。
「短時間で終わらせる」
人間たちが動き始めた。
足音が分かれる。
セヴィルが黒岩の壁に近づき、外皮片らしきものを探す。
魔力の女が通路の奥を確認する。
ガランは中央で盾を構えたまま。
ニルは後方。
弓の男は通路の入口付近。
ラグドは全体を見ている。
隙が少ない。
人間は、役割を分ける。
誰かが調べ、誰かが守り、誰かが警戒し、誰かが判断する。
一匹ではない。
群れ。
だが、ただの群れではない。
それぞれに名前があり、考えがあり、恐怖があり、目的がある。
グレイは、天井の亀裂から彼らを見ていた。
ラグドの言う通り、観察している。
人間を。
声を。
動きを。
弱点を。
目的を。
彼らが自分を観察するのと同じように。
セヴィルが壁に付着した小さな外皮片を見つけた。
脱皮前の欠片。
グレイが移動中に擦り落としたものだ。
「ありました」
セヴィルの声が明るくなる。
「外皮片。以前のものより色が濃い。硬度も上がっている」
彼は小さな器具で外皮片を採取した。
グレイは、その動きを見ていた。
自分の身体の一部が、人間の手に入る。
それが不快だった。
食べられるよりも、持っていかれることが嫌だった。
その殻は自分だったものだ。
もう捨てたもの。
それでも、セヴィルが喜んで持っていくと、腹の奥がざらついた。
ラグドが言う。
「短くしろ」
「分かっています」
セヴィルは答えながら、瓶へ外皮片を入れた。
瓶。
閉じる。
持ち帰る。
調べる。
グレイはその瓶を強く記憶した。
危険。
自分の一部を閉じ込める道具。
魔力の女が通路の奥から戻る。
「微弱な魔力反応があります」
「グレイラーヴァの?」
セヴィルが反応する。
「断定できません。下層の結晶由来かもしれない。ただ……」
彼女は少し言葉を選んだ。
「痕跡が妙です。魔力を使ったというより、周囲の魔力に触れて変質したような」
セヴィルの目がさらに輝いた。
「魔力適応の兆候」
ラグドが低く言う。
「決めつけるな」
「可能性です」
「その可能性を報告書で大きく書くな」
魔力。
グレイは、その言葉を意識した。
火を飛ばした人間。
魔力の匂いを持つ女。
結晶の光。
もし自分が魔力に触れ続ければ、変わるのか。
また一つ、危険な可能性が増えた。
セヴィルが外皮片を瓶にしまい終える。
その瞬間、彼の手からほんの少し薬液がこぼれた。
黒岩に落ちる。
刺激臭。
グレイの嗅覚が反応する。
強い。
だが、それだけではない。
その薬液には、生き物を引き寄せる匂いが混ざっていた。
餌。
血ではない。
肉でもない。
だが、小型魔物が好む匂い。
セヴィルはわざとか。
ラグドがすぐに気づいた。
「セヴィル」
声が冷える。
セヴィルは微笑んだ。
「失礼。手が滑りました」
嘘。
グレイにも分かった。
匂いが違う。
セヴィルは意図して落とした。
小型魔物を寄せる。
その小型魔物を追ってグレイが近づくか見るためか。
あるいは、グレイ自身が誘われるか試すためか。
ラグドが一歩近づいた。
「次に同じことをしたら、帰還させる」
セヴィルの匂いがわずかに変わる。
怒り。
しかし表情は見えない。
「了解しました」
人間同士も割れている。
グレイはそれを強く理解した。
人間は一つではない。
意見が違う。
目的が違う。
命令があっても、抜け道を探す者がいる。
仲間を守る者もいれば、実験を優先する者もいる。
その違いは、利用できるかもしれない。
そう思った瞬間、グレイの腹の奥が冷たくなった。
利用。
また、その考えだ。
人間同士の割れ目を見る。
そこへ入り込む。
生きるためには役立つ。
だが、それは人間に近い考え方にも思えた。
罠。
誘導。
情報。
判断。
目的。
グレイは、人間を観察するほど、人間のような考え方を覚えていく。
それが良いのか悪いのかは分からない。
ただ、身体は魔物として異形になっていく。
思考だけが、人間の言葉へ近づいている。
そのズレが、気味悪かった。
ラグドが言った。
「撤収する」
今度こそ、人間たちは動き始めた。
セヴィルの薬液は、ラグドが粉をかけて匂いを弱めた。
完全には消えていない。
小型魔物は来るだろう。
だが、すぐではない。
グレイは動かず、人間たちが遠ざかるのを待った。
足音。
金属音。
ニルの浅い呼吸。
ガランの盾。
魔力の女の杖。
弓の男の軽い足。
セヴィルの瓶。
ラグドの静かな歩き。
全てが遠ざかる。
完全に気配が消えてからも、グレイはしばらく動かなかった。
ラグドは、聞かれている可能性を考えていた。
なら、去ったふりをして待っている可能性もある。
そう考える。
待つ。
待つ。
待つ。
やがて、通路は静かになった。
グレイは天井から降りた。
人間のいた場所へ近づく。
セヴィルがこぼした薬液の匂いが残っている。
甘い。
苦い。
小型魔物を誘う匂い。
グレイの腹も少し反応した。
だが、血ほど強くはない。
罠。
そう判断する。
薬液そのものより、それを置いた意図が危険だ。
グレイは、近づきすぎず、周囲の匂いを読む。
人間の足跡。
セヴィルの手袋の匂い。
ラグドがかけた粉。
外皮片が剥がれた壁。
自分の痕跡。
人間に持ち去られた自分の一部。
グレイは、壁の傷を見つめた。
自分は観察されている。
声も、痕跡も、外皮も、血への反応も、全て。
そして自分もまた人間を観察している。
どちらが先に相手を理解するのか。
それとも、理解する前に喰うか、殺すか、捕まるか。
分からない。
薬液の匂いに、小さな魔物が近づいてきた。
黒岩喰いの幼体。
さらに、細い虫型魔物。
二匹。
三匹。
セヴィルの薬液は効果がある。
グレイは天井へ戻った。
これは罠かもしれない。
だが、人間はいない。
今なら、小型魔物を狩れる。
薬液を利用できる。
セヴィルが置いた誘引を、自分が使う。
そう判断する。
待つ。
小型魔物が薬液に集まる。
警戒が緩む。
グレイは落ちた。
一匹目を噛み殺す。
二匹目を前脚で押さえる。
三匹目が逃げる。
追わない。
音を出さない。
短く殺し、すぐに死体を影へ引く。
《小型魔物を捕食しました》
《薬液誘引下での狩猟行動を確認》
《嗅覚識別が微量上昇しました》
セヴィルの仕掛けを利用した。
その事実が、グレイの中に沈む。
人間の道具は危険だ。
だが、使える。
その理解は強い。
そして危険でもある。
人間に近づけば、道具を学べる。
罠を学べる。
言葉を学べる。
血を知れる。
しかし近づきすぎれば、捕まる。
グレイは食べ終えた後、薬液の場所を離れた。
長居しない。
セヴィルが後で確認に来るかもしれない。
ラグドが痕跡を読むかもしれない。
食い跡を残せば、また知られる。
だが、完全には消せない。
人間は読む。
なら、読ませるものを選ぶべきかもしれない。
グレイは、ふとそう考えた。
痕跡を消すだけではなく、残す痕跡を選ぶ。
人間に誤解させる。
強く見せる。
弱く見せる。
別の方向へ行ったように見せる。
それは高度なことだ。
まだできるか分からない。
だが、考えは浮かんだ。
人間の声を聞いたから。
人間の意見の割れを知ったから。
人間が痕跡を読むと知ったから。
観察するほど、できることが増える。
グレイは、黒岩の通路を進んだ。
水場へ戻る前に、別の裂け目へ入る。
一時的な隠れ場所。
そこで身体を丸める。
脱皮後の外皮は少し固まってきた。
薬液の匂いはまだ口の奥に残っている。
人間の声も残っている。
ラグド。
ニル。
セヴィル。
ガラン。
弓の男。
魔力の女。
それぞれの匂いと声と危険。
グレイラーヴァ。
捕食幼種。
観察継続。
討伐保留。
捕獲保留。
その言葉も。
人間の会話は、魔物の肉より消化しにくい。
頭の中に残り続ける。
グレイは、暗い裂け目の奥で目を閉じた。
自分は魔物だ。
喰って変わる。
それは変わらない。
だが、人間の声も自分を変えている。
聞けば聞くほど、考え方が変わる。
言葉が増える。
名前の意味を知る。
罠の意味を知る。
目的の違いを知る。
仲間を餌にしない判断を知る。
それは肉ではない。
だが、確かに自分の中に入っている。
グレイは小さく口を動かした。
「グレイ」
自分を保つための音。
外では、人間たちが自分をグレイラーヴァと呼ぶ。
危険を共有するために。
自分は、自分をグレイと呼ぶ。
変わり続ける身体を繋ぎ止めるために。
その違いを抱えたまま、グレイは暗闇でしばらく動かなかった。
遠くで人間の足音が薄く響いている。
その音は、もうただの危険ではなかった。
情報だった。
誘いだった。
そして、いつか喰ってしまうかもしれないものの声だった。




