第9話:再会
視界が、暗い。
重く湿った泥の匂いと、どこか遠くで響く喧騒の残響。それらが、膜を隔てた向こう側の出来事のように感じられる。
意識の端が、少しずつ、だが確実に削り取られていく感覚。抗おうとする意志の力さえ、今のレイシアには残されていなかった。
――終わる。
そんな予感だけが、漆黒の闇の中で一点の光のように、残酷なほどはっきりと灯っていた。
「……」
指先一つ動かすことができない。冷たい地面の、ざらついた石の感触だけが、今の自分をこの世に繋ぎ止める唯一の錨だった。
肺が焼けるように熱い。呼吸のたびに胸が痛み、浅い吐息を繰り返すことしかできない。
誇りも、地位も、名誉も。すべてを失い、泥にまみれて野垂れ死ぬ。
それが、高慢と呼ばれた公爵令嬢に用意された、最期の舞台。
――これが、私の終わり。
諦めに似た静寂が脳内を支配しようとした、そのとき。
「……おい」
声がした。
鼓膜を震わせるその響きは、不機嫌そうな、だが確かな質量を持った生者のもの。
意識の底を、誰かが無造作に叩いたような。
近い。だが、記憶の引き出しをどれほど探っても、聞き覚えのない声。
「……大丈夫か?」
返事はできなかった。
言葉を紡ぐための喉は枯れ果て、唇を動かす力さえも、冷たい外気に奪い去られている。
それでも、レイシアは最期の力を振り絞り、微かに瞼を押し上げた。
ぼやけた視界。その中に、一人の少年の影が浮かび上がる。
見覚えがある。
王立学院の、眩い中庭。噴水の飛沫が虹を作る場所で、自分が「邪魔だ」と、塵芥のように切り捨てた相手。
「……っ……」
名前さえ覚えていない。ただの「平民」としてしか認識していなかった少年。
俺――リオ。
彼は、かつて自分に向けられた侮蔑を忘れたわけではないはずだ。
なぜ、ここにいるのか。
なぜ、路地裏の泥の中で朽ちゆく自分を見ているのか。
分からない。
ただ――彼の瞳は、あのときと同じだった。
期待も、失望も、怒りさえもない。
淡々と、ただ目の前の現象を事実として受け止める、どこか冷めていて、それでいて揺るぎない目。
「……立てるか?」
短く、事務的に問われる。
レイシアは答えの代わりに、指先を僅かに震わせた。立てるはずがない。自分の足がどこにあるのかさえ、もう定かではないのだ。
「……無理か」
少年はあっさりと、落胆する風でもなく判断を下した。
見捨てる様子はない。だが、過剰に同情する様子もない。
彼は少しの間、何かを考えるように沈黙した後、背負っていた荷物の中から一つ、包みを取り出した。
「……ほら」
差し出されたのは、使い古された布に包まれた、小さな塊。
レイシアの指先がそれに触れた瞬間、微かな温もりが伝わってきた。
そして。
暴力的なまでの「匂い」が、彼女の鼻腔を突いた。
焼きたての、香ばしいパンの匂い。そして、僅かに混じる肉の脂の香り。
「……」
脳が叫んだ。
昨日まで、洗練されたフルコースを「義務」として口にしていた自分。
だが今、この目の前の安物のパンの匂いは、過去のどんな山海の実よりも、彼女の生存本能を激しく揺さぶった。
腹が、獣のような音を立てて鳴る。
恥。
かつての彼女なら、その音を聞かれただけで自死を選んだかもしれない。
だが今は、その恥辱さえも、切実な飢餓感の前では霧散した。
ただ、それが「欲しい」と。体が、魂が、絶叫していた。
「……食え」
短い言葉。
押し付けるでも、恩を着せるでもなく。ただ、そこに腹を空かせた生物がいるから、餌を置く。そんな無頓着なまでの自然さで。
――なぜ。
そんな疑問が、薄れゆく意識の淵で、かろうじて形を成した。
なぜ、名もなき平民であるこの男が。
なぜ、すべてを失い、蔑まれるだけの自分に。
「……ど、う、して……」
やっとの思いで、声が出た。
掠れて、ひび割れ、自分でも誰のものか分からないほどの、無様な声。
「……私、なんかに……もう、何、も……ないのに……」
価値はない。
公爵令嬢という看板も、美しき王妃候補という未来も、すべては剥ぎ取られた。
今はただ、泥を啜るだけの罪人。
そんな自分に、貴重な食料を分け与える理由が、どこにあるというのか。
リオは、少しだけ眉をひそめた。
まるで、理解に苦しむ数式を突きつけられた学生のような、面倒くさそうな表情。
だが、その口から漏れた言葉に、迷いはなかった。
「腹減ってる奴に、理由なんているか?」
――一瞬。
世界の鼓動が、止まった気がした。
理解が追いつかない。
言葉の意味は、痛いほど分かる。
だが、その根底にある思想が、レイシアが学んできた世界の法則と真っ向から衝突した。
対価。交換。義務。家格。
彼女が生きてきた世界では、あらゆる行動には「理由」が必要だった。
施しをするのは、高潔さを示すため。
助けるのは、自らの陣営に引き込むため。
理由がない?
見返りも、価値も関係ない?
ただ、目の前で飢えているから、食べさせる。
それだけのことが。
それだけの単純な事実が、彼女が築き上げてきた論理の城壁を、砂の城のように崩し去った。
「……っ……」
胸の奥が、激しく、痛いほどに揺れた。
何かが壊れていく。
「こうあるべきだ」という、自分を縛り付けていた鎖が、彼の言葉一つで音を立てて砕け散った。
「……」
震える手で、温かな包みを受け取る。
布越しに伝わるその熱は、今日まで彼女が求めていた「誰からの承認」よりも、ずっと深く、冷え切った心を温めていく。
「……いただき、ます……」
小さく、呟いた。
その言葉は、誰かへの挨拶ではない。
この不条理で冷酷な世界で、自分を繋ぎ止めてくれた、目の前の命への、精一杯の祈りだった。
口に運ぶ。
固いパンを噛み締め、中に入った塩辛い肉を飲み込む。
「……っ……ぁ……」
味が、爆発するように広がった。
単純な味。粗末な材料。
宮廷料理人の作った、芸術品のような一皿とは比べるべくもない。
だが――。
涙が、溢れて止まらなくなった。
嗚咽を漏らしながら、彼女は必死にパンを胃に流し込んだ。
止めようとしても、目尻から熱い雫がこぼれ、泥に汚れた頬を洗う。
みっともない。醜い。公爵家の人間が、こんな場所で、平民に施されたパンを食べて泣くなんて。
分かっている。
それでも、生きているという実感が、喉を通るパンの重みと共に、彼女の内側に帰ってきた。
「……おい、泣きすぎてこぼしてるぞ。汚ねぇな」
少年が、呆れたように、ため息混じりに言う。
だが、その声のトーンには、学院で見せたような突き放すような冷たさはなかった。
どこか柔らかく、ただそこにある命を肯定するような。
レイシアは何も言えないまま、ただひたすらに食べ続けた。
それが、自分を奈落から引き上げた最初の「救い」であることに、彼女が気づくのは、まだ少し先のことだった。
夕闇の路地裏。
かつての女王と、名もなき平民。
二人の間に、ただパンの匂いと、微かな温もりだけが漂っていた。




