第8話:どん底②
日が、急速に傾き始めていた。
空は燃えるような茜色から、湿り気を帯びた深い群青へと塗り替えられていく。
王都の喧騒は、夜の帳が下りるのを前にして、むしろその熱量を増していた。仕事を終えた労働者たちが酒場へと流れ込み、家路を急ぐ馬車が石畳を激しく叩く。通りは昼間以上の混雑を見せ、人々の体温と吐息が混じり合って、街全体が巨大な生き物のように脈動していた。
だが。
レイシアには、その濁流のような人の流れに入る余裕など、もう微塵も残されていなかった。
「……はぁ……っ……く……っ……」
呼吸が浅い。肺が酸素を拒絶しているかのように、いくら吸い込んでも胸の苦しさが取れない。
一歩を踏み出すたびに、視界がぐにゃりと歪む。足取りは明らかにおかしく、左右にふらつきながら、壁に寄りかからなければ直立を保つことすら困難な状態だった。
空腹。
疲労。
そして――際限なく膨れ上がる不安。
それらが津波となって押し寄せ、彼女の細い体を飲み込もうとしていた。
「……まだ、歩ける……私は、まだ……」
震える唇で、自分に言い聞かせる。
止まれば、終わる。
明確な根拠があるわけではない。だが、本能が警鐘を鳴らしていた。この喧騒の中で、一度でも膝を折れば、二度と立ち上がることはできない。行き交う人々に踏みつけられ、泥の中に埋もれ、そのまま夜の闇に溶けて消えてしまう。そんな根源的な恐怖が、彼女の背中を無理やり押し動かしていた。
――止まったら、もう立てない。
だから、歩く。
どこへ行くのかも、何を求めているのかも分からないまま。
「……っ!」
不意に、石畳の僅かな段差に足を取られた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に右手を伸ばして壁を掴み、持ち堪える。
体が、言うことを聞かない。脳が下す命令が、末端の神経に届く前に霧散してしまうかのようだった。
昨日まで。
こんな無様な姿を晒すことなど、一度としてなかった。
どれほど過酷な騎士訓練に身を投じても。どれほど魔力を使い果たして意識を失いかけても。
公爵令嬢としての矜持が、彼女の姿勢を支えていた。ここまで無様に、生物としての限界を突きつけられるほど崩れることはなかった。
だが今は違う。
身を飾る宝石もなく、守ってくれる騎士もおらず、胃袋を満たす一切の蓄えもない。
――何も、足りていない。
生命を維持するための最低限の基盤すら、今の彼女からは奪い去られていた。
「……こんな……あり得ない……っ……」
冷たい石の壁に額を押し当てる。
ざらついた感触が、現実の厳しさを肌に刻みつける。
体温が、みるみると下がっていくのが分かった。春先とはいえ、夜の空気は鋭い刃のように冷たく、薄汚れた制服一枚では防ぎようがない。
否定したかった。
こんなものは自分ではないと。何かの間違いだと叫びたかった。
だが、現実は残酷なほど沈黙を守り、彼女に救いの手を差し伸べることはなかった。
◇
逃げるようにして、大通りから外れた路地裏へとたどり着く。
そこは、建物の影が深く落ちる、湿った闇の世界だった。
――逃げたのだ。
あの、値踏みするような視線から。
自分を好奇の対象として眺め、あるいはゴミを見るような目で一瞥する通行人たちから。
今の、誇りも何もかも失いかけている自分を、誰の目にも晒したくなかった。
「……は……っ、ぁ……」
その場に、ゆっくりと膝をつく。
もう、一歩も動けなかった。限界だった。
足からは感覚が消え、呼吸を整えようとしても胸が締め付けられるように痛む。
腹の奥からは激しい空腹感が、吐き気を伴ってせり上がってくる。
「……っ……う、ぁ……」
喉が震えるが、まともな声にならない。
これが、空腹という名の暴力か。
これが、明日をも知れぬ弱者が抱く絶望の感覚か。
――知らなかった。
本当に、何も知らなかった。
昨日まで自分が見下していた者たちが、これほどの苦痛の中で生きていたことを。
「努力が足りない」「身の程を知れ」と切り捨ててきた言葉が、どれほど残酷に彼らの胸を抉っていたのかを。
自分が立っていた場所が、どれほど温かく、守られた揺り籠であったのかを。
◇
通りの向こう、光の差す場所から、明るい笑い声が聞こえてくる。
「今日の飯、うまかったな! あの店にして正解だったわ」
「ああ、肉が食えるって最高だよな。明日もまた頑張れるぜ!」
何気ない、日常の会話。
だが、その一言一言が、鋭い毒を塗った針となってレイシアの心臓を刺した。
――当たり前だったもの。
座れば運ばれてくる食事。笑い合える仲間。明日を疑わない安心感。
それらすべてが、今の彼女には、星を掴むよりも遠い夢物語となっていた。
「……」
ぼんやりと、視線を落とす。
自分の手を見る。泥と埃に汚れ、細く震える白い指。
かつてはペンを持ち、魔法の杖を握り、王子の手を取っていたはずの指。
今は、何も掴んでいない。
何も持っていない。
――空だ。
物理的にも、精神的にも。自分という存在の中身が、すべて零れ落ちてしまったかのようだった。
「……どうして……っ」
乾いた唇から、掠れた言葉が漏れる。
意味はない。問いかけても、壁が冷たく跳ね返すだけだと分かっている。
だが、それでも。
「……どうして、こんな……私が、何をしたというのです……っ」
止まらない。
何が間違っていたのか。何を見誤ったのか。
どれだけ思考を巡らせても、答えには行き着かない。
ずっと、正しく生きてきたはずだ。公爵令嬢としての義務を全うし、厳格に自分を律し、高潔であろうと努力し続けてきた。
積み上げてきた時間は、決して嘘ではなかったはずなのに。
なのに。
すべて、奪われた。
名前も、家も、愛していたはずの婚約者も。
世界そのものが、自分という存在を拒絶している。
「……私は……私は……」
声が、激しく震え始める。
喉の奥が熱く焼ける。言葉が形を成さず、ただの鳴咽となって溢れ出す。
そして――。
ぽたり、と。
冷たい地面に、一雫の熱い水滴が落ちた。
「……っ」
気づいたときには、視界は滲んで何も見えなくなっていた。
涙だ。
あり得ない。
泣くなど、最も卑しむべき行為だ。
感情に流され、弱さを見せるなど、誇り高いアルヴェリアの人間として、許されるはずがなかった。
泣いたところで、現状は何一つ変わらない。無意味だ。無価値だ。
脳内では、自分を叱責する冷徹なレイシアの声が響く。
だが。
止まらなかった。
決壊したダムのように、一度溢れ出した感情は、彼女の強固な理性すらも押し流していく。
「……っ……ぁ、ぁ……ぐ……ぅ……」
息が崩れる。
抑え込んできた絶望が、慟哭となって路地裏に響く。
美しく整えられていた髪を泥だらけにし、顔を覆い、彼女は子供のように泣きじゃくった。
「……たすけ……て……」
――出てしまった。
その言葉が。
自分の口から、決して発してはならないと思っていた、敗北の言葉。
「……たすけて……だれか……お願い、です……」
小さく。
掠れる声で。
誰に向けるでもなく。
ただ、漆黒の絶望の中に沈みゆく自分が、無意識に掴もうとした一筋の光。
彼女は、生まれて初めて、他者の慈悲を乞うた。
◇
泥まみれの地面に、両手をつく。
もう、立てない。
指一本動かす力も、残っていない。
視界が、急速に暗くなる。
意識が、遠のく。
――このまま。
そう思った。
ここで、終わるのかもしれない。
誰にも気づかれず、誰にも知られず。
かつて栄華を極めた公爵令嬢は、名前のない骸となって、明日にはゴミと共に片付けられる。
それが、“弱者の現実”。
昨日まで、自分が見ようとしなかった、見下していた世界の冷たさ。
今、自分がその孤独な暗闇の真ん中にいる。
「……」
レイシアは、最期の抗いとして微かに指を動かしたが、そのまま意識の糸が切れた。
冷たい地面に、その白い頬を預けて。
完璧だった女は、すべてを失い、静かに路地裏の泥の中に沈んでいった。




