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「お前は悪だ」と断罪された元公爵令嬢、真実を暴く力で全てを覆す  作者: 慈架太子


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第7話:どん底①

石畳の通りは、暴力的なまでの熱気と人で溢れかえっていた。

 王都の下層区。そこは、昨日までレイシアが暮らしていた「白亜の世界」とは正反対の場所だった。

 

 商人の野卑な呼び声が耳を突き、行き交う荷車の車輪が軋む音が鳴り止まない。入り混じる笑い声と、些細なことで弾ける怒鳴り声。そして、何より彼女を戸惑わせたのは、そこら中に充満する正体のしれない「臭い」だった。

 饐えた残飯の臭い、獣の排泄物、そして大勢の人間の汗。それらが熱気に蒸され、粘り気を持って肌にまとわりつく。


レイシアは、その混沌の渦中に立ち尽くしていた。

 

 違う世界だ。

 昨日まで、自分が教科書の上で「統治の対象」として眺めていた場所とは、何もかもが違っていた。

 道は泥と埃で汚れ、空気は肺を刺すように濁っている。そして、行き交う人々の目には、貴族社会特有の「計算された敬意」など微塵もない。そこにあるのは、剥き出しの好奇心と、容赦のない無遠慮だ。


――値踏みするような視線。

 高級な生地で仕立てられた、しかし今は薄汚れ、装飾品を剥ぎ取られた彼女の制服を見て、男たちが下卑た笑みを浮かべながら通り過ぎる。


「……」


レイシアは、何も言わず、ただ前を見据えて歩く。

 背筋は、まだ伸びている。一寸の歪みもなく、頭の先から一本の糸で吊り下げられているかのような、完璧な姿勢。

 崩れない。崩してはいけない。

 それこそが、彼女が自分自身を「レイシア」として保つための、最後の防衛線だった。ここで背を丸めてしまえば、自分は本当に「ただの泥にまみれた女」になってしまう。その恐怖が、彼女の体を鉄のように硬く強張らせていた。


だが。


「……っ」


足が、わずかに止まる。

 意識とは無関係に、体の奥底から突き上げてくる不快な感覚があった。

 空腹だ。


腹の奥が、重く、鈍く痛む。

 昨日の断罪以来、彼女は何も口にしていない。いや、昨日も極度の緊張と混乱で食事どころではなかった。まともな食事を摂ったのは、もう二日も前のことになる。

 これまで生きてきた中で、考えたこともない感覚だった。

 彼女にとって、空腹とは「食卓に着く直前の、わずかな食欲」を指す言葉でしかなかった。食事は、望まずとも完璧なタイミングで用意される。それが世界の摂理であり、空腹という名の苦痛など、この世に“存在しないもの”だとさえ思っていた。


だが今は、はっきりと分かる。

 足りない。何かが、致命的に欠落している。

 体中の力が抜け、視界の端が時折チカチカと明滅する。


「……」


視線が、抗いがたい力に引かれるように、ふらりと流れた。

 通りの脇にある、粗末な屋台。

 そこで焼かれている、脂の乗った肉の塊。立ち上る香ばしい煙と、肉汁が炭に落ちて弾ける音。その暴力的なまでの匂いが、彼女の理性を激しく揺さぶった。


腹が、浅ましく反応する。喉の奥が勝手に動き、唾液が溢れる。


「……いくらだ」


気づけば、自分でも驚くほど掠れた声で、彼女は店主に向かって問いかけていた。

 店主の男が、脂ぎった顔を上げ、値踏みするようにレイシアを睨みつけた。


「あ? これか。銅貨三枚だ。嬢ちゃん、そんな格好してんのに、一本の値段も知らねぇのか?」


銅貨。

 レイシアは、ほんの一瞬、呼吸を忘れた。

 価値が分からないわけではない。知識としては、帝王学や経済学の基礎として知っている。一食、数枚の銅貨。それは極めて安価で、彼女がかつて寄付した金貨一枚にすら満たない価値だ。


だが――持っていない。

 学院から渡された小さな麻の袋。その中身を、彼女は先ほど確認した。

 入っていたのは、申し訳程度の着替えと、数枚の銀貨だけ。それも、宿代や今後の当面の生活を考えれば、迂闊に消費できるものではない。ましてや、銅貨などという端金は、一枚も持っていなかった。


「……」


何も言えない。立ち尽くす彼女を、店主の目は次第に不審なものへと変えていく。


「なんだ、冷やかしか? 買わねぇならさっさとどけよ。邪魔だ」


――邪魔。

 その二文字が、物理的な衝撃を伴ってレイシアの胸に刺さる。

 昨日まで。いや、数時間前まで。

 誰も、自分にそんな言葉を向けた者はいなかった。

 彼女が進む道は自然と開き、差し伸べる手には誰もが跪き、彼女が望むものは、その言葉一つで世界が用意した。


――“邪魔になる側”では、絶対になかった。

 自分は世界を整え、導く側だったはずなのに。


「……失礼した」


震える声でそれだけを言い残し、レイシアはその場を離れた。

 背筋は、まだ伸びている。誇りだけは捨てていない。

 だが、その足取りは、先ほどよりも明らかに重く、不安定になっていた。



通りの端。

 行き止まりの小路に近い、人通りの少ない場所に、彼女は立ち止まった。

 壁に手をつき、荒い呼吸を整える。冷や汗が額を伝い、泥と埃の混じった空気が肺を焼く。


「……空腹、程度で……」


自分自身に言い聞かせるように、歯を食いしばる。


「これしきで、動揺するなど……誇り高き者のすることではありません。落ち着きなさい、レイシア」


そう。落ち着けばいい。自分にはまだ知恵がある。教養がある。

 自分は、アルヴェリア家の――


「……」


言葉が、無残に途切れた。

 もう、その名はない。名乗ることを許されず、守ってくれるはずの父にすら切り捨てられた。

 名も、地位も、権力も。

 自分を「自分」たらしめていたすべてが、今は、ない。


「……っ」


不意に、静まった小路に、腹の鳴る音が響いた。

 低く、はっきりとした、動物的な音。

 

 恥だ。

 誰も聞いていない、汚れた路地裏であるにもかかわらず、彼女は顔を真っ赤に染め、屈辱に震えた。完璧であるべき、理想の王妃として育てられた自分が、これほどまでに醜い音を漏らす。


だが、それ以上に。

 暗い恐怖が、じわりと彼女の心を侵食し始めていた。


理解してしまったのだ。

 このままでは、食べることはできない。

 そして、食べられなければ――。


「……死ぬ?」


小さく、震える声で呟く。

 昨日まで、死とは戦場で華々しく散るか、あるいは天寿を全うする、高潔な物語の一部だった。

 しかし今、眼前に突きつけられている「死」は、それらとは無縁のものだ。

 路地裏で野垂れ死に、誰にも気づかれずにゴミのように処分される、ただの「生命の終焉」。


それが、あまりにもリアルな未来として、彼女の目の前に広がっていた。

 今、自分は。

 盾も剣も持たず、裸のまま戦場に放り出された、ただの一人の人間に過ぎない。

 守る者も、支える者も、自分の価値を保証するものも、何一つない。

 ただの、無力な弱者。


「……」


足が、目に見えて震え始める。

 初めてだった。

 これほどの、底の見えない暗闇に触れたのは。

 魔獣と対峙したときも、政治の駆け引きで窮地に立たされたときも、彼女は常に「持っている者」として戦っていた。


――何もないことが、これほどまでに恐ろしいなんて。

 

「……どう、すれば……」


震える問いが、虚空に浮かぶ。

 だが、答えてくれる者はいない。導いてくれる教官も、指示を仰ぐ父も、もういない。

 これまでの人生で、誰かに助けを請う必要など一度もなかった。常に助ける側、教える側、裁く側であった彼女にとって、自力でこの泥沼から這い上がる方法など、想像することすら不可能だったのだ。


「……」


レイシアは、暗い小路の壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちた。

 膝を抱え、完璧だった髪が泥に触れるのも構わず、ただ震えていた。


何もできず。

 ただ、残酷な真実だけを理解してしまった。


自分は――。

 かつて自分が「自業自得だ」と切り捨ててきた、あの“助けを求める側の人間”になったのだということを。






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