第6話:全てを失う
講堂の巨大な扉が、重く、鈍い音を立てて閉じられた。
その振動は、石造りの床を伝い、レイシア・フォン=アルヴェリアの足元を微かに揺らした。
――終わった。
何が、ではない。すべてが、だ。
彼女が生まれてから今日まで信じて疑わなかった価値観、積み上げてきた努力、そして自分という人間を定義していた外殻。それらすべてが、あの重厚な扉の向こう側に置き去りにされた。
人々は、潮が引くように去っていく。
つい数日前まで、彼女が通るたびに一分の狂いもなく道を開け、最敬礼で迎えていた学生たち。彼らは今、まるで最初から彼女などそこに存在しなかったかのように、あるいは道端に転がる汚れた石を避けるかのように、冷淡に散っていく。
「まさか、あんな厚顔無恥な女だったとはな」
「怖いわね……あんなに澄ました顔をして、裏では民を苦しめていたなんて」
「結局、上に立つ者ほど腐るものだ。選ばれた人間だなんて、思い上がりも甚だしい」
背後から、あるいは横から、棘を含んだ囁きが聞こえてくる。
それらの言葉に、かつての賞賛の余韻はない。昨日までの彼女は「理想の象徴」であり、今日の彼女は「正義によって裁かれた悪」という最高の娯楽だった。
――さっきまでの、あの耳を劈くような賞賛が、嘘みたいだ。
レイシアは、その場に立ち尽くしていた。
動かない。いや、動けないのかもしれない。
彼女の指先は、誰にも悟られないほど微かに震えていた。だが、背筋だけは依然として凍りついたように伸びたままだった。それが、彼女に残された最後の方杖だった。
さっきまで、彼女の影のように付き従っていた側近たちは、もういない。彼らは証言台で彼女を裏切る言葉を吐き捨てると、一度も振り返ることなく王子の後を追った。
王子もまた、彼女を見なかった。冷徹な断罪の宣告を終えた彼の背中に、かつて通わせたはずの情愛の欠片も見当たらなかった。
残っているのは――。
光の届かない、寒々とした“何もない場所”だけだ。
「……レイシア様」
背後から、感情を押し殺した、掠れた声がかかる。
振り向くと、そこにいたのは学院の事務を担当する中年の職員だった。かつては彼女の顔を見るたびに揉み手をして擦り寄ってきた男だが、今のその目には、忌まわしい事務処理を押し付けられた者の辟易とした色しかなかった。
「こちらへ。……手続きがございます」
感情のない案内。レイシアは、わずかに視線を上げた。その青い瞳には、まだ意志の光が残っていたが、その周囲は酷く虚ろだった。
「……何の用でしょうか。私はまだ、無実を証明する権利を放棄してはおりません」
声は、まだ整っている。アルヴェリアの教育が叩き込んだ、気品ある発声。だが、その中身は、空洞を抜ける風のように空虚だった。
「正式な通達を、お渡しします。……陛下の裁可が下りました」
短い言葉。それだけで、彼女は理解した。
反論の機会も、再調査の猶予もない。これは議論のための場ではなく、確定した終わりを宣告するための儀式なのだと。
◇
学院の応接室。
かつては高貴な来客を迎え、彼女もまた主賓として座っていたその場所は、今はただの取調室のように寒々しく感じられた。
質素な木の机の上に、一枚の封書が置かれる。
「こちらが、アルヴェリア公爵家からの書簡です」
レイシアは、無言でそれを見つめた。
見慣れた紋章。白銀の地に剣を交差させた、勇猛なる公爵家の印。
見慣れた封蝋。その色は、彼女の血と同じくらい親しみ深いもののはずだった。
――自分の“家”の証。
それが、今は毒を孕んだ手紙のように見える。
ゆっくりと、彼女は手を伸ばした。
震えはない。どれほど内側が崩壊していても、指先の動きを制御することこそが彼女の美学だった。
封を切る。ペーパーナイフが紙を裂く乾いた音が、静かな室内に響いた。
中身は、あまりにも短かった。
公爵である父が、愛娘に宛てる最後の言葉としては、余白が多すぎた。
「……」
読み終えた瞬間。
レイシアの指が、紙の端を掴んだまま、わずかに止まった。
表情に変化はない。叫び声を上げることも、涙を流すこともない。だが、その瞳から最後の灯火がふっと消えるのを、冷たい空気だけが知っていた。
その一文が、すべてだった。
『本件に関し、アルヴェリア公爵家は一切関与しない』
『よって、レイシア・フォン=アルヴェリアの名を剥奪し、平民へと降格させる。二度と敷居を跨ぐことは許さぬ』
切り捨て。完全な、親子の縁の否定。
彼女が守ろうとした「家」こそが、彼女を真っ先にゴミのように放り出したのだ。
「……そう、ですか」
小さく、呟く。
声は、崩れていない。
だが、その中身は、完全に空だった。
彼女を支えていた骨組みが、目に見えない次元で粉々に砕け散った。
「以上により」
職員が、事務的に手続きを進める。彼にとって、これは単なる定型業務に過ぎない。
「あなたの貴族籍は、本日をもって剥奪されます。戸籍上は、ただの『レイシア』となります」
「王立学院からも、本日付で退学処分となります。これは王命によるものです」
「所持している魔法具、資産、移動権利についても、すべて凍結・没収されます。今、身につけているもの以外の私物は、後ほど公爵家によって処分されるとのことです」
淡々と、容赦なく。
彼女が昨日まで当たり前のように享受していた空気が、一つ、また一つと奪われていく。
――何も残らない。彼女という人間を装飾していた輝かしい属性は、剥製から羽を毟り取るようにして、すべて消し去られた。
「……ご理解いただけましたか」
確認の言葉。レイシアは、少しだけ間を置いた。
理解などしたくなかった。だが、彼女の理性が、これが逃れようのない現実であることを冷酷に告げていた。
「……はい。理解、いたしました」
答えた。それしか、できなかった。
反論するための言葉も、怒るためのエネルギーも、今の彼女には残されていなかった。
◇
応接室を出る。
廊下は、不気味なほど静かだった。
だが、その静けさは安らぎではない。“避けられている”ことによって生じた、真空のような孤独だった。
誰も近づかない。誰も話しかけない。
ただ、遠くの物陰から、あるいは教室の扉の隙間から、無数の視線が刺さる。
さっきまで、彼女を女神のように称えていた目。
それが今は、腐敗した死骸を眺めるような、あるいは呪いを恐れて遠ざけるような目に変わっていた。
「……」
レイシアは、歩く。
石畳を叩く靴の音だけが、虚しく響く。
背筋は伸びたまま。足取りも乱れない。
それが、彼女に残された最後の、そして唯一の「自分自身」だった。どれほど泥を塗られようとも、歩き方さえ忘れるわけにはいかない。
だが。
学院の巨大な正門を出た瞬間。
その足が、ほんのわずかに止まった。
学院の外。
そこには、もう何もない。
いつも自分を待っていた、豪華な紋章入りの馬車はない。
跪いて扉を開ける、従順な使用人もいない。
その日の出来事を語り、温かいスープが用意されているはずの屋敷も、もう彼女の居場所ではない。
――すべて、消えた。
手元にあるのは、事務員から渡された小さな麻の袋だけ。
最低限の着替えと、わずかばかりの平民用の硬貨。
それだけが、彼女という存在の全重量になった。
「……」
言葉が、出ない。
出るはずがなかった。
昨日まで、“すべてを持っていた女”が。
今、この夕闇の中で、何一つ持っていない。
完全な、ゼロ。
レイシアは、ゆっくりと、燃えるような夕焼け空を見上げた。
青と赤が混ざり合い、美しく、そして残酷なほどに広い空。
――世界は、何も変わっていない。
太陽は沈み、星が昇る準備をしている。木々は風に揺れ、鳥は巣に帰る。
変わったのは、ただ自分という存在が、この世界から拒絶されたということだけだ。
「……」
何も言わず。
レイシアは、震える足で最初の一歩を踏み出した。
どこへ行くのかも、今夜どこで眠るのかも分からないまま。
ただ。
“すべてを失った者”として、彼女は一人、沈みゆく太陽に向かって歩き始めた。




