第5話:冤罪確定
講堂の空気は、まだ凍りついたままだった。
先ほど告げられた「婚約破棄」という断頭台の刃。それだけでも、この国を揺るがす十分すぎる衝撃だ。しかし、エドワード王子の瞳に宿る冷徹な光は、単なる関係の解消で満足するような甘いものではなかった。
彼は、逃げ道をすべて塞ぐつもりだ。
「以上の証言、および提出された物証により――」
王子は、さらに一段と声を張り上げた。その声は高い天井に反響し、逃げ場のない宣告となって講堂を埋め尽くす。
「レイシア・フォン=アルヴェリアの罪は、疑いようのない事実として、本日この場をもって確定したものとする」
確定。
その一言が、鉛のような重さでレイシアの、そして聴衆の頭上に落ちる。
それは司法の場を介さずとも、王位継承権を持つ者の言葉として、この学院における「絶対的な真実」に固定されたことを意味していた。
「待ってください」
レイシアが、声を上げた。
――初めてだ。
入学以来、あるいは彼女が公の場に姿を現すようになって以来、一度として乱れることのなかった彼女が、激情を隠さず自ら声を荒げたのは。
「私は、そのようなことをしていません。汚職も、隠蔽も、強迫も。アルヴェリアの娘として、私は常に潔白です」
強い口調だった。毅然とした態度は崩していない。
だが、その声の端々には、生まれて初めて「正論が通じない恐怖」に直面した者の必死さが滲んでいた。
「証言はすべて虚偽です。側近たちが何を約束されてあのような嘘を口にしたのかは知りませんが、根拠がありません。証拠とされる書類も、印章の管理状況を調べれば、捏造の可能性が――」
「黙れ」
短く、氷を叩きつけたような拒絶が彼女を遮った。
エドワード王子の顔には、もはや慈悲の欠片も残っていない。
「見苦しい弁明はやめろ。これだけの証拠と、お前を支えていた者たちの生の声があるのだ。それを捏造だと言い張るその傲慢さこそが、お前の罪の深さを物語っている」
ざわめきが、急速に悪意の色を帯びて広がる。
――“弁明”と断じられた。
彼女がどれほど論理的に反論しようとも、それはもはや高潔な抗議ではなく、往生際の悪い「言い訳」として処理されていく。
「……殿下」
レイシアの声が、わずかに、だが残酷なほどはっきりと震える。
「どうか、冷静な判断をお願いいたします。一度でもいい、私の言葉に耳を傾けてはいただけないのですか? 私は貴方の隣に立つ者として、これまで一刻も――」
「冷静なのは、こちらだ」
王子は一歩も譲らず、壇上から彼女を見下ろす。その視線は、かつて彼女に向けられていた憧憬など最初からなかったかのように冷淡だった。
「物証も、信頼すべき側近たちの証言も揃っている。これ以上、何を疑えというのだ。お前の言う『正しさ』とは、自分に都合の悪い事実をすべて嘘と決めつけることなのか?」
正論の形をした、完璧な封殺。
レイシアがかつて他者を追い詰める際に使ってきた武器が、今、より巨大な質量を持って彼女自身に突き刺さっている。
「……っ」
言葉が詰まる。
確かに、外から客観的に見れば、外堀は埋まりきっていた。
一分の隙もなく揃えられた証言、完璧に偽造された書類、そしてタイミングを見計らったかのような告発。
――“整いすぎている”。
あまりにも鮮やかすぎるその手際に、リオは背筋が凍るような思いがした。これは突発的な事件ではない。時間をかけ、彼女のプライドを逆手に取り、逃げ場を完全に消し去るために練り上げられた罠だ。
だが、それを今の彼女が指摘する術はない。
そのとき。
「私からも、申し上げます」
静寂を裂いて、別の声が上がった。
参列していた上級貴族の一人だ。彼を皮切りに、堰を切ったように声が上がり始める。
「レイシア様に関しては、以前より強引な徴収を行っているとの噂が絶えませんでした。我が領地の商人も、彼女の息がかかった者に不当な圧力をかけられたと訴えております」
――追撃。
これまでは彼女の権勢に恐れをなして黙っていた者たちが、ここぞとばかりに石を投げ始めた。
「私の耳にも、似たような事例が届いております。逆らう者は社会的に抹殺されると、皆が怯えていたのです」
「教育改革という名目で、下級貴族の資産を不当に没収していたという話も、あながち嘘ではなかったようですね」
次々と重なる声。
どれも「噂」であり、「聞いた話」だ。確固たる証拠など一つもない。
だが。
数が揃えば、それは「疑いようのない事実」という形を成す。集団心理という名の怪物が、彼女の潔白を食い潰していく。
「違います……! それは、制度の適正化のために行った調整で、私腹を肥やすためなどでは……!」
レイシアが叫ぶ。だが、その声は数多の罵声と嘲笑にかき消されていく。
誰も、彼女の言葉を聞いていない。
いや、聞こうとしない。
すでに「高慢な令嬢が没落する」という、最高の娯楽を伴った「結論」が出ているからだ。
「レイシア・フォン=アルヴェリア」
三度、王子がその名を呼ぶ。
「お前は公爵家の名と、私の婚約者という地位を最大限に利用し、私欲を満たすために国を汚した。その罪は、万死に値するほどに重い」
断定。もはや彼女を人間として扱っていない、冷たい宣告。
「もはや、この場にお前を擁護する者は一人としていない。それがお前の歩んできた道の終着点だ」
――その言葉通りだった。
リオは講堂を見渡した。
かつて彼女の靴の裏を舐めるようにして賞賛していた者たち。
彼女の美学を神聖視し、忠誠を誓っていた側近たち。
誰も、立たない。
誰も、声を上げない。
全員が、判で押したように目を逸らしている。
関わりたくない。巻き込まれたくない。
昨日まで「太陽」と崇めていた存在が泥に落ちた瞬間、彼らにとって彼女は、ただの「触れてはいけない汚物」へと成り下がったのだ。
「……父上は。お父様はどう仰っているのですか」
レイシアが、幽霊のような掠れた声で呟く。
アルヴェリア公爵。この国の盾と称される強大な父。
それが、彼女に残された最後の、そして最強の拠り所だった。
「すでに正式な通達は届いている」
王子が、事務的な口調で淡々と告げた。
「アルヴェリア公爵は、本件における娘の振る舞いに深い遺憾の意を表明された。そして、『我が家に国を裏切る者は不要である』とし、本件に関して一切の関与をせず、裁きは王家に委ねるとの意思を示された」
――切り捨て。
実の親から下された、非情な絶縁宣言。
「……っ」
レイシアの呼吸が止まった。
目を見開き、ただ虚空を見つめる。
完全に。
完全に、彼女は孤立した。
家も、地位も、婚約も、誇りも。
これまで彼女を形作っていたすべてが、砂の城が波にさらわれるように、一瞬で消え去った。
「以上をもって――。レイシア・フォン=アルヴェリアの罪は確定とする。これより彼女を拘束し、追って沙汰を下すものとする」
王子が右手を振り下ろす。
もはや覆らない。決定だ。
「……っ……あ……」
レイシアは、その場に立ち尽くしたまま、ピクリとも動かない。
いや、動けないのだ。
完璧だった女。常に「正解」を選び続け、迷う者を導いてきたはずの女。
そんな彼女が、人生で初めて、「どうすればいいか分からない」という困惑と絶望をその顔に張り付かせていた。
周囲の冷笑と、勝利を確信した王子の冷たい眼差し。
そして、静寂。
誰一人として、泥濘に沈みゆく彼女の手を取る者はいなかった。
リオは、その孤独の深さに寒気を覚えながら、ただ黙って事の顛末を網膜に焼き付けていた。




