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「お前は悪だ」と断罪された元公爵令嬢、真実を暴く力で全てを覆す  作者: 慈架太子


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第28話:恋の自覚


夜。

 王都を包み込んでいた喧騒が、潮が引くように遠ざかっていく時間。

 日中の熱気を残した石畳が、夜風に冷やされて微かな湿り気を帯びている。見上げれば、都会の灯りに遮られながらも、幾つかの星が意志の強い光を放っていた。


「……」


レイシアは、宿の外にある静かな路地に、一人で立っていた。

 昼間の出来事が、いまだに激しい残像となって頭の奥に焼き付いている。

 自分を射抜いた数千の視線。

 手のひらを返したように溢れ出した、感謝の言葉。

 そして――「英雄」という、今の自分にはあまりにも不釣り合いで、重すぎる評価。


「……ふぅ……」


肺の奥に溜まった熱を、ゆっくりと外気へ吐き出す。

 実感は、まだない。

 あれほど鮮やかに真実を暴き、王子の権威を粉砕したというのに、自分自身が特別な存在になったという納得は、どこを探しても見当たらなかった。


だが。

 確実に、決定的に、何かが変わっていることだけは理解していた。


「……」


ぼんやりと視線を落とし、自らの両手を見つめる。

 洗剤で荒れ、泥に汚れ、爪の間には消えない傷跡が残る手。

 かつて宮廷で、象牙のように美しいと称えられていた頃、この手は何もできなかった。誰かに守られ、誰かに支えられ、用意された道を歩むための装飾品に過ぎなかった。


だが、今は違う。

 泥を掴み、皿を洗い、暴漢の腕に縋り付いたこの手。

 不格好で、傷だらけのこの手は、少なくとも自分自身の力でこの大地に「立っている」という実感を彼女に与えていた。


「……こんなところにいたのか。風邪をひくぞ」


不意に、背後から無愛想な、だが耳に馴染んだ声が届いた。

 振り向くと、そこにはリオが立っていた。宿の壁に背を預け、いつも通り面倒くさそうに腕を組んでいる。


「……ええ。少し、考え事をしていました」


短く答える。

 リオはそれ以上、何について考えていたのかを問おうとはしなかった。深く踏み込まず、ただそこに存在することを許容する。その無頓着さが、今の彼女には何よりも救いだった。


「……」


少しの間、夜の静寂が二人の間に落ちる。

 かつてなら、この沈黙に耐えられず、自分を飾る言葉を探していただろう。だが不思議と、今は居心地が悪くない。それどころか、彼の気配を感じているだけで、波立っていた心が凪いでいくのが分かった。


「……今日は、すごかったな。お前の独壇場だった」


リオが、空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。


「……そう、でしょうか。私はただ、真実を述べただけです」


「自覚ねぇのかよ。第一王子を完膚なきまでに叩き潰して、街の空気を一変させたんだぞ。今や下層区から中層区まで、お前を英雄扱いだ」


リオは呆れたように軽く笑った。その笑い声には、皮肉よりもどこか誇らしげな響きが混じっている。


「……やはり、実感が湧きません。私は、ただ必死だっただけですから」


「だろうな。お前らしいよ」


あっさりと肯定される。その言葉の一つひとつが、レイシアの胸に静かに着地していく。


「……ですが。私が今日、あの場所にいられたのは、あなたがいたからです」


ふと、せき止めていた言葉が唇を割って出た。


「……は?」


リオが怪訝そうに眉をひそめ、視線をレイシアへと戻す。


「……私一人では、何もできませんでした。あの広場で立ち尽くし、再び泥に沈んで終わっていたはずです」


それは謙遜ではなく、彼女が辿り着いた剥き出しの真実だった。


「……そんなことねぇだろ。あの力は、お前自身のものだ。俺は何もしてねぇ」


少しだけ、真面目なトーンがリオの声に混じる。


「いいえ。あなたが路地裏で食事を与えてくれなければ。私に働く機会を与え、生きる意味を問いかけてくれなければ。……今の私は、存在しません」


一つずつ、自分を形作ってきたピースを積み重ねるように言う。

 空腹の極限で差し出されたパンの温もり。

 「だからどうした」と切り捨てられた、甘え。

 共に戦い、隣に立つことを許してくれた、その背中。


「……」


リオは沈黙した。その表情は暗がりに隠れて読み取れないが、呼吸がわずかに乱れたのを、今のレイシアは見逃さなかった。


「……だから」


胸の奥が、熱い塊に押し上げられるようにざわつく。

 この言葉を口にすれば、もう後戻りはできない。公爵令嬢でも、英雄でもない、ただの一人の女としての告白。

 だが、今の彼女に「逃げる」という選択肢はなかった。


「……私は、あなたに、心から感謝しています」


はっきりと、まっすぐにリオの目を見据えて告げる。


「……」


リオは何も言わず、ただレイシアの青い瞳を見つめ返していた。

 その視線に射抜かれるたび、彼女の心臓が、自分でも驚くほどの速さで鼓動を刻む。


そして、その沈黙の中で、彼女は気づいてしまった。

 自分の中に芽生え、今や大樹のように根を張っている、この感情の正体に。


これは――ただの感謝ではない。

 自分を救ってくれた恩人への、義務的な信頼でもない。


「……っ……」


息が少しだけ浅くなる。

 視線を逸らしたくなるほどの熱が、頬を伝い、首筋まで赤く染めていく。

 それでも、彼女は目を逸らさなかった。

 弱さを認め、絶望を乗り越えた彼女にとって、自分の心から逃げ出すことは、死よりも耐え難い敗北だったからだ。


ゆっくりと、混沌としていた感情が、一つの確信へと収束していく。


「……私は」


小さく、だが凛とした声が夜の路地に響く。


「……あなたと、共にいたい。これからも、ずっと」


それは、飾られた詩の一節よりも、緻密に練られた外交の辞令よりも、遥かに単純で、遥かに重い本音だった。


「あなたの隣で。あなたの見つめる先を、私も共に歩みたいのです」


「……」


長い、あまりにも長い沈黙。

 リオの驚愕に目を見開いた顔が、月光に照らされる。


「……お前、それがどういう意味か分かって言ってるのか?」


リオの声は低く、どこか震えていた。


「……ええ。そのままの意味です。私はもう、理解してしまいました」


レイシアは、ふっと柔らかく微笑んだ。

 かつての、一分の隙もない完璧な令嬢の微笑みではない。

 自分の内側にある熱を、隠さずに解き放った、一人の恋する少女の顔。


これは、ただの「同行」の申し出ではない。

 自らの魂の半分を、相手に預けるという誓い。


「……これが。ほんの少しだけ、怖かったけれど」


彼女は一歩、リオの方へと踏み出した。


「……これが、私の答えです。リオ」


それは、恋の自覚だった。

 どん底で拾い上げた命と共に、泥の中から咲いた、たった一つの、穢れなき想い。


淡くも、脆くもない。

 過酷な現実を共に生き抜くと決めた二人の間にしか存在し得ない、鋼のように強く、真っ直ぐな想い。


レイシアは、驚きに固まる少年の手を、自らの荒れた手でそっと包み込んだ。

 夜の静寂の中で、二人の新しい物語が、今度は「恋」という名前を伴って、静かに、だが確実に回り始めた。






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