第19話:過去との決別
朝の通りは、眩い日差しを浴びて、昨日までと変わらぬ賑わいを取り戻していた。
石畳を叩く馬車の蹄の音、威勢の良い商人たちの呼び込み、そして行き交う人々の他愛もない笑い声。幾層にも重なり合う日常の音が、街の喧騒となって大気を震わせている。
「……」
レイシアは、その騒がしい流れの中を、静かに、だが確かな足取りで歩いていた。
隣には、いつものように気だるげな雰囲気を纏ったリオ。
二人の間に会話はない。リオはただ前を見据え、レイシアもまた自分の足元と行く先を交互に見つめながら、一歩一歩を刻んでいる。
だが、その沈黙の質は昨日までとは明らかに違っていた。
ただ闇雲に、見失わないように背中を追いかけていた昨日とは違う。今は、目的地を共有し、同じ地平を見つめて進んでいる。その微かな連帯感が、彼女の心にこれまでにない安定をもたらしていた。
「……ここだ」
リオがふいに足を止めた。
辿り着いたのは、王都の西側に位置する小さな広場だった。そこは、富裕層が通う目抜き通りとは対照的に、武骨な革と鉄の匂いが漂う「冒険者」たちの集積地だった。
壁には指名手配書や依頼の札が並び、酒場からは朝から強い酒の匂いが漏れ出している。
自らの腕一本で生きる者たち。
全身を硬い革鎧で固めた者、巨大な大剣を背負った者、どこか不気味な杖を携えた魔導士。多種多様な人間が、品定めをするような鋭い視線を交わしながら行き交っていた。
「……」
当然、そんな荒事の真っ只中に現れた二人に、周囲の視線が自然と集まる。
正確には、リオではなく、その隣に立つレイシアに。
下層区の労働に疲れ、汚れが染み付いた簡素な服を纏っているとはいえ、彼女の持ち合わせる雰囲気は、この薄汚れた広場ではあまりにも異質だった。
その白皙の肌、整いすぎた顔立ち、そして何より、どれほど泥にまみれても隠しきれない、高貴な凛々しさ。
「……おい、あれを見ろよ。あの子……」
「どこかの令嬢じゃないか? 没落したって噂の……」
「なんであんな小綺麗なのが、こんな掃き溜めに……」
ひそひそとした囁きが、風に乗って耳に届く。
それは好奇の目であり、同情の目であり、そして「場違いな者」を排除しようとする冷ややかな拒絶の目でもあった。
「……」
レイシアの耳には、それらすべてが届いていた。
かつての彼女なら、そんな雑音など風の音と同じように聞き流していただろう。そもそも、自分を見上げる視線に価値を見出すことさえしなかった。賞賛も、恐れも、当然受けるべき対価として受け流していたのだ。
だが、今は違う。
その視線が、どれほど残酷で、どれほど「自分とは無関係な世界の住人」を見るためのものか、痛いほどに理解できた。
――あちら側、からの視線。
昨日まで自分が立っていた、選ばれた者たちの高台からの見下し。
「……」
レイシアは、不意に足を止めた。
ふと、店の軒先に飾られた、磨かれたガラス窓が視界に入る。
そこに映し出されていたのは、一人の見知らぬ女の姿だった。
最高級の絹も、髪を飾る宝石もない。
安物の、擦り切れた灰色の服。
水仕事で荒れ、指先に包帯を巻いた汚れた手。
完璧だったはずの表情は、連日の過酷な生活でわずかに削ぎ落とされ、どこか険しい影が差している。
かつての、レイシア・フォン=アルヴェリアの面影は、そこには断片すら残っていなかった。
「……どうした。足でも捻ったか」
リオが、数歩先で振り返った。
「……いえ。何でもありません」
短く答え、レイシアは視線を逸らした。
だが、重い鎖に繋がれたかのように、足が動かない。
胸の奥で、小さな、だが鋭い痛みが燻っていた。
――本当に、これでいいのか?
逃げないと決めた。自分で立つと誓った。
だが、過去という名前の残骸は、いまだに彼女の魂の裾を掴んで離さない。
公爵令嬢という、かつての自分が纏っていた「正解」。
その名前を捨て、泥にまみれて生きるという選択。
レイシア・フォン=アルヴェリアという、黄金の偶像。
それはまだ、完全には彼女の中から消滅してはいなかった。
「……」
ゆっくりと、肺の奥に溜まった未練を吐き出すように息を吐く。
そして。
レイシアは、映し出された無様な自分の瞳を、真っ直ぐに睨みつけた。
「……行きましょう、リオ。立ち止まっている時間は、私にはありません」
自分自身に言い聞かせるように、彼女は冷え切った石畳を踏み抜いた。
迷いを、あるいは過去への甘えを切り捨てるように。
もはや、振り返る道はない。
「……ああ」
リオが、短く応じた。
そのまま、二人は広場の中へと足を踏み入れていく。
人々の好奇に満ちた視線を、風を斬るようにして通り過ぎる。
誰とも目を合わせず、誰にも媚びず。
彼女はただ、リオの隣にある「自分の居場所」を確保することだけに集中した。
もう、戻らない。
そう確信した、その時だった。
「おい」
リオの声が、背中からかけられた。
「……?」
レイシアが振り返ると、リオは足を止め、じっとこちらを見つめていた。
いつもなら、すぐに次の目的地へと歩き出すはずの彼が、何かを深く吟味するような間を置いていた。
言葉を選ぶような。あるいは、彼女の心臓の鼓動を確かめるような、静かな時間。
そして。
「……レイシア」
呼ばれた。
「……っ」
心臓が、大きく跳ねた。
時間が、一瞬だけ止まったように感じられた。
学院で出会ってから今日まで。
彼は彼女を、名前で呼んだことは一度もなかった。
“お前”、“あんた”、“そこの”、“お嬢様”。
時には突き放し、時には揶揄するように、決して踏み込まない呼び方しかされてこなかったのだ。
それが、初めて。
何の後ろ盾もない、裸のままの彼女を呼ぶための名前が、彼の唇からこぼれた。
「……行くぞ、レイシア。ぐずぐずしてると置いていく」
リオはそれ以上、感動的な台詞も、激励の言葉も並べなかった。
ただ前を向き、再び歩き出す。
「……はい、ただいま!」
少しだけ遅れて、レイシアは駆け寄るように返事をした。
声が、わずかに揺れていたのを、自分でも抑えきれなかった。
胸の奥が、焼けるように熱い。
それが喜びなのか、それとも安堵なのか、今の彼女にはまだ判別がつかない。
だが、確信できることが一つだけあった。
今、彼が呼んだ名前は。
アルヴェリア公爵家の象徴としてのものではない。
王子の婚約者という役割を指すものでもない。
ただ、この泥だらけの路地裏で生き、隣に立とうとしている「彼女自身」を認めるための音だった。
「……」
小さく、一息に息を吐き出す。
レイシアは背筋を、かつて公賓を迎えた時と同じように、だが、それよりも遥かに誇り高く伸ばした。
歩き出す。
リオの背中を、ただ追いかけるのではない。
彼女の足は、リオの歩幅に合わせて、その少し横……対等な領域へと踏み出していた。
ほんのわずかな距離の移動。
だが、それは公爵令嬢としての死を意味し、一人の女性としての生を宣言する、決定的な変化だった。
過去との決別。
そして、名もなき二人の、新しい物語の始まり。
レイシアは、隣を歩く少年の横顔をちらりと見て、微かに、本当に微かに微笑んだ。
物語の歯車は、もはや逆回転することのない、確固たる加速を始めていた。




