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「お前は悪だ」と断罪された元公爵令嬢、真実を暴く力で全てを覆す  作者: 慈架太子


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13/30

第13話:小さな成功

昼時の、嵐のような喧騒がようやく一段落していた。

 狭い店内を埋め尽くしていた客の姿はまばらになり、飛び交う怒号に近い注文の声も、今は穏やかな話し声へと変わっている。忙しさの合間に、針の穴を通すようなわずかな隙間ができていた。


「……次は」


レイシアは、額に浮かんだ汗を拭う暇も惜しんで、小さく呟きながら手を動かす。

 目の前には、戦場の名残のように積み上げられた、油汚れのひどい皿の山。昨日までの彼女なら、見るだけで嫌悪感を抱いたであろうその山を、今は一歩も引かずに見据えていた。


皿洗い。

 それは、ただ汚れを落とすだけの作業ではない。いかに効率よく、いかに水を無駄にせず、そしていかに次の工程へと繋げるか。

 昨日よりは、ほんの少しだけ……秒単位かもしれないが、確実に早くなった。


水の量。

 スポンジに込める力の入れ方。

 汚れの質に応じた、洗う順番。


いまだに周囲の熟練した手つきには程遠い。遅いという自覚はある。

 だが、昨日のようにパニックに陥って手を止めることはなかった。

 

 ――できることを、一つずつやる。

 

 ただそれだけに、研ぎ澄まされた集中力を注ぎ込む。かつて魔導術式を構築した際と同じ、あるいはそれ以上の緻密さで、彼女は「家事」という名の見知らぬ学問に挑んでいた。


「おい、新入り! そこの水が切れてるぞ!」


厨房の奥から、店主の野太い声が飛んできた。


「足りねぇぞ、さっさと追加しろ! 客が戻ってくる前に溜めておけ!」


「……はい、承知いたしました」


短く、淀みなく答え、レイシアはすぐに持ち場を離れて動く。

 厨房の隅にある大きな桶。そこへ、井戸から汲み上げてきたばかりの水を注ぎ、指定された場所まで運ぶ。

 

 重い。

 水の入った桶の重量は、彼女の細い腕の筋肉を非情に引き絞る。

 だが、昨日よりは不思議と持てる。体が、その重みに対する反動を覚え始めていた。

 一歩、また一歩。重心を低く保ち、慎重に運ぶ。

 一滴もこぼさないように。この貴重な水一滴が、この店を回すための重要な資源であることを、彼女は肌で理解していた。


「……」


ふと、前方でバランスを崩す影が視界の端に映った。

 

 あの少年だ。

 十にも満たない年齢で、自分と同じように重い水桶を運んでいる同僚。

 だが、今日の彼はいつもと様子が違った。寝不足なのか、あるいは連日の過酷な労働がその小さな限界を超えさせたのか。


彼の細い足が、不自然な角度でふらついている。

 膝が、重力に負けて折れかかっていた。

 明らかに、危うい。


「……!」


考えるより先に、意識が弾けた。

 昨日までの自分なら、「不注意な子供だ」と一瞥して通り過ぎていただろう。あるいは、助けるにしても「身分ある者の義務」として、どこか高みから見物するように声をかけていただろう。

 だが、今の体は、理性を待たずに動いていた。


自分の桶を即座に床に置き、彼女は石畳を蹴った。

 

「待ちなさい、離して!」


鋭く声をかける。

 少年が驚いたように肩を震わせ、振り向こうとした。

 その急激な動作が、限界だったバランスを完全に破壊する。


足がもつれ、彼の体が大きく傾く。

 桶が宙に浮き、何リットルもの水が床にぶちまけられ――。


――衝突と飛沫の音は、聞こえなかった。


直前で、止まった。

 

 レイシアが、滑り込むようにしてその桶の底を支えていた。

 片手で重い桶を力任せに押し上げ、もう一方の手で、少年の華奢な肩をがっしりと掴んで引き寄せる。


「……っ……ぐ、ぅ……!」


歯を食いしばる。

 背筋から腕にかけて、焼けるような衝撃が走った。水桶の重量がすべて彼女の片腕にのしかかる。だが、彼女は落とさなかった。泥の中に膝をつきながらも、彼女は毅然と、その重量を支配してみせた。

 

 そのまま、少年を支えたままゆっくりと腰を落とし、桶を静かに地面へと下ろす。

 チャプン、と水面が小さく揺れただけで、被害は最小限に食い止められた。


「……ふぅ、はぁ……大丈夫、ですか?」


乱れた息を整えながら、レイシアは少年の顔を覗き込んだ。

 

 少年は、目を丸くして呆然と立ち尽くしていた。

 真っ黒に汚れた顔の中で、瞳だけが驚愕に震えている。


「……あ、あ……」


言葉が出ない様子だった。

 無理もないだろう。昨日まで「役立たず」と罵られていた新入りの女が、信じられないような反応速度で自分を救ったのだから。

 

 レイシア自身も、自分の行動に驚いていた。魔法を使わず、ただの筋力と反射神経だけで誰かを助ける。そんな泥臭い「救済」は、これまでの彼女の人生にはなかったものだ。


「怪我は? 足を捻ったりはしていませんか?」


続けて、彼女は彼の体を検分するように確認する。


「……な、ない……大丈夫……」


かすれた、小さな声で答えが返ってきた。

 その無事を確認して、ようやくレイシアは肩の力を抜いた。全身の筋肉がじわじわと痛みを訴え始めるが、不思議と不快ではなかった。


「……そうですか。それは重畳です」


短く、いつもの癖で上品な言い回しをして、彼女は立ち上がろうとした。

 それで終わりだ。自分がやるべきことをしただけ。

 そう思って背を向けようとしたとき――。


「……あ、あの!」


背後から、必死に呼び止めるような声がした。

 振り返ると、少年が顔を真っ赤にして、こちらを見上げていた。


「……ありがとう……ございました」


消え入りそうな、小さな、だが確かな言葉。

 

「……」


一瞬、レイシアの思考が停止した。

 昨日まで、数えきれないほどの人間から「感謝」をされてきた。

 慈善活動の場で、式典の場で、公爵令嬢としての振る舞いに対して、人々は跪き、礼を述べた。

 

 だが。

 それらの言葉のどれとも違う。

 

 ――感謝。

 その真の意味が、魂の底までストンと落ちるまでに、奇妙な時間が必要だった。

 

 今、彼が述べた礼は、自分の家柄や地位に対してではない。

 泥まみれになり、膝をつき、必死に桶を支えた「レイシア」という個人に対する、剥き出しの感謝だった。


「……当然のことをしたまでです。私は、貴方の同僚なのですから」


反射的に、以前の彼女なら決して口にしなかったであろう言葉が漏れた。

 

 助けるのは当然。

 礼を言われるほどのことではない。

 そう、本気で思っていたはずなのに。


「……でも……助かった。水、こぼしてたら、俺、また怒られてたから……」


少年は、もう一度そう言った。

 今度は、汚れにまみれた顔を少しだけ綻ばせて。


「……」


言葉が、続かない。

 胸の奥が、熱くなるような、むず痒いような、奇妙なざわつきに支配される。

 

 助けた。

 そして。

 感謝された。

 

 たったそれだけのこと。国家予算の配分や外交問題に比べれば、塵芥のような出来事。

 なのに。


何かが、胸の中に確かに残っている。

 これまでの人生で、名声を博し、賞賛を浴びても決して得られなかった「何か」。

 

「……さあ、仕事に戻りなさい。また遅れると、それこそ店主に怒られますよ」


少しだけ視線を逸らし、ぶっきらぼうにならないよう気をつけてそう告げる。


「はい……! ありがとう、お姉さん!」


少年は、今度は元気よく頷いた。

 そして、先ほどよりも少しだけ軽やかな足取りで、桶を持ち直して走っていった。


レイシアは、その小さな背中が厨房の闇に消えていくのを、いつまでも、吸い込まれるように見送っていた。


「……」


静かに、深く息を吐く。

 胸の中の違和感――温かくも重い熱は、まだ消えない。

 

 不快ではない。むしろ。


「……悪く、ありませんね……」


小さく、独り言ちた。

 

 誰かの役に立つということ。

 それを、利害関係なく、肌身で実感すること。

 それが、こんなにも――自分の内側を“満たす”ものだとは、二十年近い人生で、彼女は一度も知らなかった。


「おい! 何を呆けてる! 持ち場に戻れ、仕事はまだ山積みだぞ!」


厨房の向こうから、店主の野太い声が飛ぶ。


「……はい、ただいま!」


短く返し、レイシアは自分の桶を掴んで歩き出した。

 

 まだ、できることは少ない。

 失敗も多く、店主に怒られてばかりだ。

 「役に立っている」と胸を張れるほど、仕事ができるわけでもない。

 

 それでも。

 

 ――“何もできないわけではない”。

 

 泥の中から這い上がり、その汚れた手で、誰かの困難をわずかでも支えることができた。

 その事実だけが、今の彼女にとって何よりも眩しく、尊い灯火となっていた。

 

 レイシアは、再び水桶を運び始めた。その背筋は、かつて王宮で見たときのように真っ直ぐに、だが、より力強く伸びていた。






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