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「お前は悪だ」と断罪された元公爵令嬢、真実を暴く力で全てを覆す  作者: 慈架太子


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第12話:価値観崩壊

皿を洗う音が、一定のリズムで厨房に響き続けている。

 

 蛇口から溢れる水を流す。

 固いスポンジで皿の汚れを落とす。

 清潔な布で水分を拭き取る。

 

 ただそれだけの、極めて単純な反復作業。

 魔導理論の構築や、王宮の外交儀礼に比べれば、知的負荷など皆無に等しいはずだった。

 

 だが。

 それを一秒の断絶もなく、数時間にわたって途切れずに続けることが、これほどまでに過酷だとは想像すらしていなかった。


「……っ」


腕が鉛のように重い。肩の筋肉は悲鳴を上げ、絶え間なく冷水に晒されている指先は、感覚を失うほどに痛んでいる。

 思考が、疲労の霧に包まれて鈍っていく。

 ほんの少しでも、意識の糸を切らして手を止めれば、目の前の台には瞬く間に次の汚れ物が溜まっていく。

 

 終わらない。

 一つの山を片付けても、背後からは次なる汚濁の山が押し寄せてくる。この作業には、終わりという名のゴールが存在しない。ただ、時間の切り売りという名の終わりのない行進が、ずっと続いているだけだった。


「おい、新入り! そっちの皿は終わったか! 予備が足りねえぞ!」


店主の怒号が、煮炊きの湯気と共に飛んでくる。


「……はい、今すぐに」


掠れた返事と共に、必死に手を動かす。

 だが、遅い。

 自分でも分かっている。周囲の流れるような手際に比べ、自分の動きがいかにぎこちなく、無駄に満ちているか。

 どれほど焦っても、慣れという名の技術を持たない肉体は、思うように機能してくれない。


「……っ」


歯を食いしばる。

 もっと早く。もっと正確に。

 「完璧」であることを自分に強いてきたレイシアにとって、この「人並み以下の自分」という現実は、肉体的な苦痛以上に彼女の精神を磨り潰していた。

 焦れば焦るほど、指先はもつれ、冷たい水が跳ねて彼女の頬を汚す。


ふと、作業の合間に、意識を横へと向けた。

 

 そこには、同じように低い賃金で、黙々と働く者たちの姿があった。

 腰の曲がった年配の女。無愛想に重い薪を運ぶ若い男。

 そして――。


十歳にも満たないであろう、一人の少年。

 

 煤に汚れた顔をしたその子供は、自分の体格よりも明らかに大きな、水が並々と注がれた桶を運んでいた。

 細い腕がプルプルと震え、血管が浮き出ている。

 石畳の凹凸に足を取られ、ふらつきながらも、彼は歩みを止めない。


「……危ない」


思わず、レイシアの口から声が漏れた。

 今にもその小さな体が桶の重みに押し潰され、転倒してしまうのではないか。そうなれば、冷たい水に濡れるだけでは済まない。

 

 だが。

 子供はそのまま歩き続けた。

 必死に、こぼさないように。

 歯を剥き出しにして、重力という名の不条理と戦いながら。

 そして。

 目的地に辿り着くと、何事もなかったかのように、あるいはそれが呼吸をするのと同義であるかのように、次の仕事へと戻っていった。


「……」


言葉が出なかった。

 憐憫れんびんを向けることさえ、躊躇われるほどの光景。

 あれが、この場所の日常なのか。彼にとっては、誰かに守られる「子供時代」などという概念さえ、この重い水桶の前に霧散しているのだろうか。


「おい、そこまでだ。一回休憩入れ」


店主のぶっきらぼうな声で、ようやくレイシアの手が止まった。

 

 重力から解放された腕が、じわじわと痺れ始める。

 張り詰めていた神経が弛緩し、心地よい脱力感が襲う。

 だが同時に。

 一度腰を下ろしてしまえば、二度と立ち上がれなくなるのではないか。そんな得体の知れない恐怖が、彼女の足を震わせた。

 

 冷たい風を求めて、裏口へと出る。

 湿った壁に背を預け、ゆっくりとずり落ちるように座り込む。

 夕闇の空気を肺の奥まで吸い込むたびに、現実感が少しずつ戻ってきた。


「……きついか」


音もなく現れたリオが、彼女の隣の壁に肩を預けた。


「……ええ」


今の自分に、強がりを言うための魔力など一滴も残っていない。


「想像、以上です。たかが皿を洗い、物を運ぶ。それだけのことが、これほどまでに生命を削るものだとは」


正直な吐露だった。


「そうだろうな。あんたが今まで読んできた分厚い本には、その重みまでは書いてなかっただろ」


皮肉めいた言い方だが、そこには確かな真実があった。


「……ですが」


レイシアは視線を上げ、先ほどの子供がまだ働いている姿を追った。


「彼らは、平然とこなしています。私よりもずっと小さな子が、私よりもずっと過酷な荷を、不平一つ言わずに運んでいます。なぜ、そんなことが可能なのですか」


「当然だろ」


リオが吐き捨てるように言う。


「やらなきゃ、今夜の飯がねぇんだから。死ぬかやるかの二択なら、誰だって必死になる」


あまりにも、あっさりと。あまりにも、救いのない論理。


「……」


その言葉が、レイシアの胸の最も柔らかい部分を突き刺した。

 やらなければ、食べられない。

 ただそれだけの、単純な生存の因果。

 

 だが。

 自分はそれを「知らなかった」。

 知識としては理解していたつもりだった。だが、肉体が、魂が、それを真実として受け止めてはいなかったのだ。


「……私は」


自嘲を込めて、レイシアはゆっくりと口を開いた。


「弱者とは、怠惰な者だ。そう考えていました。今日、この場所に来るまで、ずっと」


これまでの彼女を支えていた、鉄の信念。

 

「正当な努力を怠り、結果を出せないからこそ、彼らは低い地位に甘んじているのだと。向上心を持たず、ただ現状に流されているから、日の当たらない場所にいるのだと」


だから、下にいる者たちは憐れむ対象であっても、尊重する対象ではない。そう、本気で思っていた。


「……まあ、間違ってねぇ部分もあるさ。自堕落でどうしようもねぇ奴も、この下層区には腐るほどいる」


リオが、空を見上げながら言う。


「でも、それだけじゃねぇんだよ」


「……」


レイシアは沈黙した。

 すでに、自らの目で「答え」を見てしまったからだ。

 あの、水を運ぶ少年を。

 

 あれは、怠惰か?

 努力を怠っている者の姿か?

 

 違う。断じて違う。

 彼がどれほど必死に手を伸ばしても、どれほど血を吐くような努力をしても、この下層区という泥沼から這い上がるための梯子は、最初から用意されていないのだ。


「……では、なぜ。なぜ、あのような健気な者が、これほど過酷な境遇にいなければならないのですか」


声がかすれる。

 自分の信じてきた「正しさ」という天秤が、音を立てて狂い始めている。


「生まれだよ」


リオが、残酷なまでに簡潔に答えた。


「環境。あるいは、運とも言う。最初から黄金の匙を持って生まれる奴もいれば、錆びた釘一本持たずに放り出される奴もいる。それだけの話だ。そこに善悪も理由もねぇ」


淡々と、世界の理を述べる。


「……」


否定できる言葉を、レイシアは持っていなかった。

 なぜなら、今、彼女自身が「黄金の匙」を取り上げられ、何もない側に放り出された当事者だからだ。


「……私は」


言葉が、これまでになく重い。


「何も知らなかったのですね。自分がいた場所が、どれほど特別な特等席であったのか。自分たちの価値観が、どれほど狭い庭の中だけのものだったのか」


認める。それは、かつての自分を完全に否定することに等しかった。

 自分が「努力の結果」だと誇っていた地位も才能も、その大部分は「アルヴェリア」という環境が用意した舞台装置の上での出来事に過ぎなかったのだ。


「知らねぇなら、これから知ればいいさ。それだけだろ」


リオが言う。

 慰めではない。ただ、新しい事実を受け入れろという、冷徹で前向きな助言。


「……」


レイシアは視線を落とし、自らの手を見つめた。

 洗剤に荒れた指先。赤く腫れた皮膚。爪の間に染み込んだ汚れ。

 

 これが、現実。

 これが、世界の大半を占める「普通」の姿。

 

 胸の奥で、長年大切に守ってきた「理想の令嬢」としての価値観が、音を立てて壊れていく。

 それは、誇りという名の虚飾を剥ぎ取られる痛みでもあったが、同時に、初めて裸の足で地面に触れたような、奇妙な高揚感をも伴っていた。


「……戻ります。まだ、皿が残っていますから」


短く言い、彼女は再び立ち上がった。

 足腰の痛みは引いていない。明日への不安も消えていない。

 

 だが。

 もう一つだけ、確かなことがある。

 

 ――弱者は、怠惰ではない。

 

 ただ。

 “違う場所に立っているだけだ”

 

 レイシアは、裏口の闇を抜けて、再び油の匂いと熱気、そして怒号の飛び交う戦場へと戻っていった。

 かつての高慢な光は消え、代わりに、真実を直視し始めた者の、静かで鋭い光がその瞳に宿っていた。






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