第11話:働く令嬢
朝。
王都の下層区は、太陽が地平線を完全に跨ぐ前から、暴力的なまでの活気に包まれていた。
石畳を叩く荷車の車輪、商人が声を張り上げる市場の喧騒、そして早朝から働く労働者たちの荒っぽい話し声。昨日、路地裏で死を覚悟したときとは対極にある、生々しく、泥臭い「生」の音が至る所から響いている。
「……ここで、いいのか」
レイシアは立ち止まり、目の前の建物を見上げた。
それは、大通りの端にひっそりと佇む、一軒の小さな食堂だった。
ペンキの剥げかけた木の看板には、辛うじて読める文字で店名が記されている。扉は長年の使用で擦り切れ、窓ガラスはうっすらと油に曇っていた。
かつて彼女が慈善事業の視察でさえ足を踏み入れなかったような、生活感の塊のような場所。
そこが、今日から彼女が身を置く「働く場所」だった。
「嫌なら別にいいぞ。引き返すなら今だ」
隣で、リオが壁に背を預けながら軽く言った。その視線は相変わらず、彼女の決意を試すような冷ややかさと、どこか突き放したような無頓着さが同居している。
「他を探してもいいが、このあたりじゃどこも似たようなもんだ。あんたみたいな『お嬢様』を置いてくれる場所なんて、そうそうないと思うけどな」
「……構いません」
即答だった。
レイシアは乱れた髪を指で整え、一度だけ深く息を吐いた。
選択肢など、今の自分にはない。持っていたプライドは、昨日のパンと一緒に胃の中に流し込んだはずだ。
「働くと、決めましたから」
昨日、自らの意志で選び取った言葉。それを撤回することは、自分の中に残った最後の「レイシア」という芯を叩き折ることと同義だ。
たとえ泥水を啜ることになろうとも、一度決めた道を違えることだけは、したくなかった。
「は? 働きたい? お前が?」
店の奥から現れた店主の男は、レイシアを見るなり露骨に顔をしかめた。
男の視線は、無遠慮に彼女の全身をなぞる。
身につけているのは、もはや上等とは言えない、泥に汚れた学院の制服の成れの果て。だが、それでも隠しきれないものがあった。
長年の教育によって染み付いた、一寸の乱れもない姿勢。
相手を射抜くような気品ある所作。
そして、下層区の空気に馴染まぬ、洗練された言葉遣い。
そのすべてが、この油汚れの染み付いた食堂の中で、異常なまでの「場違いさ」を放っていた。
「……皿洗いだぞ。できるのか、そんな細い腕で」
店主の目は、明らかに疑っていた。どうせ半日も持たずに泣き言を言って逃げ出すだろう。そんな侮蔑に近い確信が、その瞳の奥にはあった。
「やります」
レイシアは、店主の目を真っ向から見据えて言い切った。
「どのような仕事でも、命じられた通りに。私は、生きるためにここに来ました」
一切の迷いがない、氷のように研ぎ澄まされた宣言。
その予想外の迫力に、店主は毒気を抜かれたように少しだけ目を細めた。
「……まあ、いい。猫の手も借りたいくらい人手は足りてねぇからな。だが、お嬢様ごっこなら他所でやってくれ」
男は不機嫌そうに肩をすくめ、店の奥を指差した。
「仕事は皿洗いと雑用。飯は一食、金は日払いだ。失敗しても泣き言は聞かねえぞ」
「承知しました。よろしくお願いいたします」
即答。それが、彼女の人生で初めての「労働」の始まりだった。
結果から言えば、それは悲惨なものだった。
「おい! 水を使いすぎだ! 井戸から汲んでくるのがどれだけ手間か分かってんのか!」
「……申し訳ありません」
桶に溜めた水で、油のべっとりとついた皿を洗う。ただそれだけの、子供でもできるような作業。
だが、レイシアにはその「加減」が全く分からなかった。
魔法で汚れを落とす「洗浄」に慣れきっていた彼女にとって、物理的に汚れを落とすという行為は未知の領域だった。力の入れ方が強すぎて、繊細な彼女の指先はすぐに赤く腫れ、逆に弱すぎれば油膜が残る。
洗剤の量、水の節約、効率的な重ね方。
これまで学んできた帝王学や魔導理論のどれもが、この目の前の汚れ一つを落とす役には立たなかった。
――ガシャン。
「割ったぁ!? お前、これで今日三人目だぞ!」
店主の怒声が厨房に響き渡る。
「……っ」
言葉が詰まる。手から滑り落ちた皿が、石の床で無残な破片となって散らばっていた。
破片を拾おうとして、指先を切る。鋭い痛みが走るが、それを訴える権利など自分にはないと理解していた。
「気をつけろって言っただろ! 皿代を給料から引かれたいのか!」
「……申し訳、ありません。すぐに片付けます」
謝るしかなかった。
これまで、誰に対しても謝罪などしたことがなかった彼女が、たった一枚の、平民が使う安物の皿のために頭を下げる。
言い訳も、反論も、そこには存在しなかった。
「おい、それ違うだろ!」
厨房を追い出され、今度は配膳を命じられた。だが、そこでも彼女の無能さは際立っていた。
「それは三番テーブルだ! なんで五番に持って行ってんだ! 客の顔を見て注文を覚えろ!」
「……申し訳ありません」
常に情報の中心にいたはずの彼女の頭脳が、わずか数テーブルの注文内容と番号を前にして、ひどく曖昧な働きを見せる。
騒音、飛び交う怒号、客からの催促。
秩序のない環境は、彼女の思考回路を激しく混乱させた。
「すまん、取り替える! こいつは新人なんだ、勘弁してくれ!」
店主が慌ててフォローに回る。その背中を見送りながら、レイシアは立ち尽くすことしかできない。
客席からは、容赦のない小声が飛んできた。
「なんだあの新人、美人だけどさっぱりだな」
「見てみろよ、あの手。まともに仕事もしたことないんだろうな」
「使えねぇな。飯が不味くなるぜ」
聞こえないふりはできなかった。
かつて自分が、無能な臣下に向けて放った言葉が、そのままブーメランのように自分自身に突き刺さる。
――価値のない人間の言葉には、意味がありません。
かつて自分が吐いた傲慢な台詞が、脳内で何度もリピートされ、胸を抉った。
昼のピークを過ぎた頃、レイシアの体はすでに限界に達していた。
「……は……っ、はぁ……」
呼吸が荒く、意識が遠のきそうになる。
腕は鉛のように重く、立ちっぱなしの足は感覚を失い、小刻みに震えている。
昨日の疲労と絶望、そして極度の緊張が、彼女の華奢な肉体を蝕んでいた。
それでも、彼女は止まらなかった。
拭いても拭いても終わらないテーブルの汚れ。運んでも運んでも溜まる皿。
止まれば、自分がこの場所に存在する理由が完全に消えてしまう気がした。
「……次、は何をすればよろしいでしょうか」
必死に、掠れた声で店主に問いかける。
だが、店主は呆れたように大きなため息をつき、乱暴に手を振った。
「いい、もういい! そこでじっとしてろ!」
「……え?」
「邪魔だ、下がってろ! お前がいると余計に手間が増えるんだよ!」
――邪魔。
また、その言葉だった。
レイシアの動きが、凍りついたように止まった。
何もできない。何の役にも立たない。
それどころか、ただ立っているだけで他者の足を引っ張り、迷惑をかけている。
王妃として国を支えるはずだった女性が、たった一つの食堂の、たった一時間の労働さえ満足にこなせない。
「……っ」
胸が、万力で締め付けられるように苦しかった。
悔しい。
自分に対する怒りと、情けなさと、圧倒的な無力感。
店の裏口。
西日が差し込む、ゴミ箱が置かれた狭いスペース。
人目のない場所に一人立ち、レイシアは自分の手を見つめた。
かつては「芸術品」と称えられた白く細い指。
今は水と洗剤で真っ赤に荒れ、至る所に細かな切り傷が走っている。
ズキズキとした拍動を伴う痛み。そんな感覚、これまでの人生で一度も味わったことがなかった。
「……できない……」
絞り出すような呟きが、漏れる。
これほどまでに、自分が“無力”だとは思いもしなかった。
歴史を語り、政治を論じ、魔法の術式を構築する知識はある。
だが、そのすべてが、目の前の割れた皿を繋ぎ合わせる役にも立たない。
ここでは、学歴も家柄も、何の意味も持たないのだ。
「私は……」
言葉が途切れる。
レイシア・フォン=アルヴェリアではない自分には、一体何が残っているというのか。
ただの、使い物にならない廃品。それが、今の自分の偽らざる正体だった。
「……そんな、この世の終わりみたいな顔すんな」
不意に、頭上から声が降ってきた。
驚いて振り向くと、リオが建物の壁にもたれかかり、不敵な笑みを浮かべていた。
「最初から完璧にできる奴なんて、この世に一人もいねぇよ。少なくとも、俺が知る限りはな」
彼は懐から、粗末な薬の瓶を取り出し、レイシアの足元に放り投げた。
「お前、今まで掃除も料理も、他人にやらせるばっかりだったんだろ?」
「……ええ。それが当然だと思っていました」
「なら、できなくて当たり前だ。体がやり方を知らないんだからな」
リオはあっさりと、当然のことを言うように断言した。
「……ですが、私は迷惑をかけています。足手まといなのです」
「ああ、かけてるな。店主もさっき、お前のせいで回転が落ちたってボヤいてたぞ」
「……っ」
即答だった。フォローさえしないその冷徹な事実に、レイシアは唇を噛んだ。
だが、リオの言葉はそこで終わらなかった。
「でもな、それで終わりじゃねぇだろ。迷惑をかけたなら、返せばいい。役に立てなかったなら、立てるようになればいい。それだけだ」
単純で、無骨な言葉。
できないから、終わりではない。
できるようになるまで、何度でも泥を舐め、恥をかき、繰り返す。
それが「生きる」ということなのだと、少年の目は静かに語っていた。
「……」
レイシアは、ゆっくりと深い呼吸を繰り返した。
胸の奥にある悔しさは、依然として消えていない。指先の痛みも、足の疲労も、重く圧し掛かっている。
だが、その重みこそが、自分が今、地に足をつけて生きている証拠のように思えた。
「……戻ります。まだ、片付けるべき仕事が残っていますから」
短く言い、彼女は再び顔を上げた。
瞳の奥には、かつての傲慢な光とは違う、泥の中から明日を睨むような、強靭な光が宿っていた。
まだ、何もできない。
失敗ばかりで、役立たずだ。
それでも。
彼女は、汚れたエプロンをきつく締め直し、再び戦場……油の匂い漂う厨房へと足を踏み入れた。
やめない。
生きると決めたからには、この無力ささえも糧にして、いつか必ず、自らの足で立ってみせる。
それが、レイシアという一人の女性が、自らに課した新しい「誇り」だった。




