表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お前は悪だ」と断罪された元公爵令嬢、真実を暴く力で全てを覆す  作者: 慈架太子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/30

第10話:生きる選択

気がつけば、あれほど渇望していた包みは空になっていた。

 指先に残る微かな油分と、喉の奥に広がる素朴な麦の余韻。手の中には、もう何も残っていない。パンも、肉も。命を繋ぐために必要だった糧は、すべて彼女の血肉へと変わっていた。


「……」


レイシアは、その空になった掌を、幽霊でも見るかのような目で見つめていた。

 胃が満たされ、体温が僅かに戻るにつれて、凍りついていた思考がゆっくりと動き始める。そして、理解が遅れてやってくる。


自分が今、何をしたのか。

 どのような場所で。どのような顔で。どのような無様な姿で、平民に施された食事を貪り食ったのか。


「……っ」


遅れて、激しい熱が頬を焼き上げた。

 それは紛れもない「恥」だった。これまで経験したどんな失敗よりも、どんな叱責よりも耐えがたい、魂を削り取るような屈辱。

 

 あんな風に。

 泥にまみれ、涙を流しながら。

 なりふり構わず、必死に咀嚼して。

 ――まるで、明日の命さえ定かではない物乞いのように。


「……私は……」


声が、情けなく震える。

 誇り高くあれと、アルヴェリアの血に恥じぬ生き方をしろと、幼い頃から呪文のように教え込まれてきた。弱さを見せることは敗北であり、他者の慈悲に縋ることは死よりも重い恥辱であると、その身に叩き込まれてきたはずだった。

 

 そのすべてを、自分自身の生存本能が壊した。

 高潔な精神よりも、空腹という生理現象が勝ってしまった。その事実が、彼女の自尊心をズタズタに切り裂いていく。


「……っ……ぁ……」


視線を落とす。

 そこにあるのは、月の光に照らされた汚れた石畳だ。

 そこに、自分の影が落ちている。

 かつて王宮の鏡に映っていた、光り輝くドレスを纏った姿ではない。髪は乱れ、服は破れ、地面に這いつくばる、あまりにも小さく、惨めな影。


「……どうした。腹が膨れたら、今度は後悔か?」


横から、突き放すような、だが変わらぬ調子の声がした。

 あの少年――リオだ。彼は使い古した布を無造作に畳みながら、相変わらず冷めた目でこちらを見ていた。


「食ったなら、少しは頭も回るようになっただろ。さっきまでよりはマシな面をしてるぞ」


軽い言い方だった。同情も、嘲りもない。ただ事実を述べているだけの言葉。

 だが、今のレイシアには、その軽さがかえって重かった。


「……」


返せなかった。

 感謝を述べるべきなのか。それとも、施しを受けた自分を呪うべきなのか。

 どちらの言葉を選んでも、今の自分にはあまりにも不釣り合いな気がした。何を言っても、この圧倒的な喪失感を埋めることはできない。


「……私は……」


絞り出すように、やっと言葉が唇を割った。


「……すべてを、失いました。アルヴェリアの名も、帰るべき場所も。昨日まで私を称えていた者たちは、皆、私を石で打つ側に回りました」


事実を、吐き出す。そうすることで、自分の立ち位置を再確認しようとするかのように。


「家も、名も、地位も……。この手には、何一つ残っていません。今の私は、名前を呼ぶ価値さえない、ただの抜け殻です」


静かな声。だがその響きは、底の抜けた器のように虚空へと消えていく。


「……だから?」


返ってきたのは、予想だにしないほど短く、そして無慈悲な問いだった。


「……え……」


思わず、顔を上げる。

 リオは、飽き飽きしたといった様子で、首を傾けていた。


「だから、どうしたって聞いてるんだ。失ったものがそんなに大事か? 過去の肩書きがなきゃ、あんたは息もできないのか?」


同じ言葉の繰り返し。だが、今度は刃のような鋭さが混じっていた。


「……どう、とは……。私は、もう終わりなのです。誰からも必要とされず、行く当てもなく、ただこうして泥を舐めることしかできない……」


「失ったのは分かったよ。耳にタコができるほど聞いた」


リオは一歩、彼女の方へ踏み出した。


「で、これからどうするんだ? ここで死ぬまで泣き続けるのか、それとも別の何かを始めるのか。決めるのはあんただろ」


――これから。

 その言葉が、心臓の奥深くに重く落ちる。

 考えたことがなかった。これまでの人生、レイシアの「これから」はすべて他者によって、あるいは義務によって舗装されていた。次期王妃になるという、美しくも強固なレールの上を歩むことだけが彼女のすべてだった。

 レールを外れた瞬間に何が起きるのか。そんな不測の事態、想像する必要さえなかったのだ。


「……私は……」


言葉が、行き場を失って彷徨う。

 何もない。選択肢も、導く手も、歩くべき道も。

 ただ広がるのは、暗い路地裏の闇と、先行きのない不安だけ。


「……」


長い沈黙が流れる。

 遠くで夜警の鳴らす鐘の音が聞こえる。その間、レイシアの脳裏には走馬灯のように光景が駆け巡った。

 

 白亜の講堂での断罪。

 冷たく背を向けたエドワード。

 絶縁を突きつけた父の手紙。

 そして――。

 さっきまで、泥の中に這いつくばって、誰とも知れぬ相手に「助けて」と乞うた自分の姿。


「……っ」


胸が、引き裂かれるように締めつけられる。

 あれは、紛れもなく自分だ。あのみっともない、弱り果てた生き物こそが、今のレイシア・フォン=アルヴェリアの真実の姿。

 それを否定することは、もうできない。パンを食らった瞬間、彼女は「完璧な令嬢」としての死を、自ら受け入れたのだから。


逃げることはできる。

 このまま、すべてを投げ出して意識の底へ逃避することも。

 自らの命を絶ち、屈辱を終わらせることも。

 

 だが。


「……いや……」


小さく、だが力強く首を振った。

 それだけは、違う。

 ここで絶望に飲み込まれて消えることだけは――。

 それだけは、彼女の中に残った最後の欠片が、激しく拒絶していた。


「……」


ゆっくりと、泥に汚れた肺で空気を吸い込む。

 全身の震えは、まだ止まらない。恐怖も、屈辱も、依然としてそこにある。

 だが、その濁流のような感情の底に、わずかに、だが硬質な熱が残っていた。


――意地だ。

 

 すべてを失い、泥を啜り、無様に泣き喚いた。

 それでもなお、「私」はここにいる。心臓は動き、体は熱を求めている。

 それならば。

 

「……私は……」


言葉にする。

 自分自身に刻みつけるように。

 目を逸らさず、逃げ場を断つように。


「……生きる。私は、まだ終わるわけにはいきません」


小さな、消え入りそうな声だった。

 だが、それは誰かに与えられたセリフではない。

 自分の命が、自分の意志で、初めて選び取った言葉。


「……そうか。なら、勝手にしろ」


リオは短く、吐き捨てるように答えた。

 そこには励ましも、称賛も、感動もない。ただ、彼女の決意をそこに置いておくことを許しただけの、不愛想な肯定。


「なら、立て。いつまでも地面と仲良くしてんじゃねえよ」


リオの手が、差し出された。

 当然のように。

 憐れみで押しつけるでもなく、ただ「立ち上がるなら使え」と言わんばかりの、無造作な差し出し方。


「……」


一瞬、その手を見つめて躊躇した。

 この手を取るということ。

 それは、自分が「一人では立ち上がれない弱者」であることを認め、彼に助けられることを受け入れるということ。

 アルヴェリアのプライドが、最後の一あがきを見せる。


「……」


だが、もう知っている。

 プライドだけで腹は膨れず、誇りだけでは夜の冷気は防げない。

 自分は、何も持たない一人の人間なのだ。

 

 ならば。

 生きるために、選ぶしかない。


ゆっくりと、泥にまみれた手を伸ばした。

 そして。

 リオの、ゴツゴツとした、温かい手を、力強く掴んだ。


熱い。

 しっかりとした力で、彼女の体は引き上げられる。

 重力に抗い、泥から引き離され、再び二本の足で大地を踏みしめる。

 

 膝はまだ笑い、今にも折れそうだ。

 だが、倒れなかった。掴んだ手の温もりが、彼女に立ち続けるための支点を与えていた。


レイシアは、ゆっくりと顔を上げた。

 視界の端に、かつての学友たちが見ていた「完璧な令嬢」の残像が揺らめき、そして霧散した。

 

 もう、昨日までの自分ではない。

 すべてを失い、名前さえも剥ぎ取られた者として。

 それでも、自分の意志で、この地獄を生きると決めた者として。

 

 レイシアは、暗い路地裏の向こう、遠くで瞬く街の灯りを見据えた。

 物語は、ここから、本当の意味で動き始める。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ