第10話:生きる選択
気がつけば、あれほど渇望していた包みは空になっていた。
指先に残る微かな油分と、喉の奥に広がる素朴な麦の余韻。手の中には、もう何も残っていない。パンも、肉も。命を繋ぐために必要だった糧は、すべて彼女の血肉へと変わっていた。
「……」
レイシアは、その空になった掌を、幽霊でも見るかのような目で見つめていた。
胃が満たされ、体温が僅かに戻るにつれて、凍りついていた思考がゆっくりと動き始める。そして、理解が遅れてやってくる。
自分が今、何をしたのか。
どのような場所で。どのような顔で。どのような無様な姿で、平民に施された食事を貪り食ったのか。
「……っ」
遅れて、激しい熱が頬を焼き上げた。
それは紛れもない「恥」だった。これまで経験したどんな失敗よりも、どんな叱責よりも耐えがたい、魂を削り取るような屈辱。
あんな風に。
泥にまみれ、涙を流しながら。
なりふり構わず、必死に咀嚼して。
――まるで、明日の命さえ定かではない物乞いのように。
「……私は……」
声が、情けなく震える。
誇り高くあれと、アルヴェリアの血に恥じぬ生き方をしろと、幼い頃から呪文のように教え込まれてきた。弱さを見せることは敗北であり、他者の慈悲に縋ることは死よりも重い恥辱であると、その身に叩き込まれてきたはずだった。
そのすべてを、自分自身の生存本能が壊した。
高潔な精神よりも、空腹という生理現象が勝ってしまった。その事実が、彼女の自尊心をズタズタに切り裂いていく。
「……っ……ぁ……」
視線を落とす。
そこにあるのは、月の光に照らされた汚れた石畳だ。
そこに、自分の影が落ちている。
かつて王宮の鏡に映っていた、光り輝くドレスを纏った姿ではない。髪は乱れ、服は破れ、地面に這いつくばる、あまりにも小さく、惨めな影。
「……どうした。腹が膨れたら、今度は後悔か?」
横から、突き放すような、だが変わらぬ調子の声がした。
あの少年――リオだ。彼は使い古した布を無造作に畳みながら、相変わらず冷めた目でこちらを見ていた。
「食ったなら、少しは頭も回るようになっただろ。さっきまでよりはマシな面をしてるぞ」
軽い言い方だった。同情も、嘲りもない。ただ事実を述べているだけの言葉。
だが、今のレイシアには、その軽さがかえって重かった。
「……」
返せなかった。
感謝を述べるべきなのか。それとも、施しを受けた自分を呪うべきなのか。
どちらの言葉を選んでも、今の自分にはあまりにも不釣り合いな気がした。何を言っても、この圧倒的な喪失感を埋めることはできない。
「……私は……」
絞り出すように、やっと言葉が唇を割った。
「……すべてを、失いました。アルヴェリアの名も、帰るべき場所も。昨日まで私を称えていた者たちは、皆、私を石で打つ側に回りました」
事実を、吐き出す。そうすることで、自分の立ち位置を再確認しようとするかのように。
「家も、名も、地位も……。この手には、何一つ残っていません。今の私は、名前を呼ぶ価値さえない、ただの抜け殻です」
静かな声。だがその響きは、底の抜けた器のように虚空へと消えていく。
「……だから?」
返ってきたのは、予想だにしないほど短く、そして無慈悲な問いだった。
「……え……」
思わず、顔を上げる。
リオは、飽き飽きしたといった様子で、首を傾けていた。
「だから、どうしたって聞いてるんだ。失ったものがそんなに大事か? 過去の肩書きがなきゃ、あんたは息もできないのか?」
同じ言葉の繰り返し。だが、今度は刃のような鋭さが混じっていた。
「……どう、とは……。私は、もう終わりなのです。誰からも必要とされず、行く当てもなく、ただこうして泥を舐めることしかできない……」
「失ったのは分かったよ。耳にタコができるほど聞いた」
リオは一歩、彼女の方へ踏み出した。
「で、これからどうするんだ? ここで死ぬまで泣き続けるのか、それとも別の何かを始めるのか。決めるのはあんただろ」
――これから。
その言葉が、心臓の奥深くに重く落ちる。
考えたことがなかった。これまでの人生、レイシアの「これから」はすべて他者によって、あるいは義務によって舗装されていた。次期王妃になるという、美しくも強固なレールの上を歩むことだけが彼女のすべてだった。
レールを外れた瞬間に何が起きるのか。そんな不測の事態、想像する必要さえなかったのだ。
「……私は……」
言葉が、行き場を失って彷徨う。
何もない。選択肢も、導く手も、歩くべき道も。
ただ広がるのは、暗い路地裏の闇と、先行きのない不安だけ。
「……」
長い沈黙が流れる。
遠くで夜警の鳴らす鐘の音が聞こえる。その間、レイシアの脳裏には走馬灯のように光景が駆け巡った。
白亜の講堂での断罪。
冷たく背を向けたエドワード。
絶縁を突きつけた父の手紙。
そして――。
さっきまで、泥の中に這いつくばって、誰とも知れぬ相手に「助けて」と乞うた自分の姿。
「……っ」
胸が、引き裂かれるように締めつけられる。
あれは、紛れもなく自分だ。あのみっともない、弱り果てた生き物こそが、今のレイシア・フォン=アルヴェリアの真実の姿。
それを否定することは、もうできない。パンを食らった瞬間、彼女は「完璧な令嬢」としての死を、自ら受け入れたのだから。
逃げることはできる。
このまま、すべてを投げ出して意識の底へ逃避することも。
自らの命を絶ち、屈辱を終わらせることも。
だが。
「……いや……」
小さく、だが力強く首を振った。
それだけは、違う。
ここで絶望に飲み込まれて消えることだけは――。
それだけは、彼女の中に残った最後の欠片が、激しく拒絶していた。
「……」
ゆっくりと、泥に汚れた肺で空気を吸い込む。
全身の震えは、まだ止まらない。恐怖も、屈辱も、依然としてそこにある。
だが、その濁流のような感情の底に、わずかに、だが硬質な熱が残っていた。
――意地だ。
すべてを失い、泥を啜り、無様に泣き喚いた。
それでもなお、「私」はここにいる。心臓は動き、体は熱を求めている。
それならば。
「……私は……」
言葉にする。
自分自身に刻みつけるように。
目を逸らさず、逃げ場を断つように。
「……生きる。私は、まだ終わるわけにはいきません」
小さな、消え入りそうな声だった。
だが、それは誰かに与えられたセリフではない。
自分の命が、自分の意志で、初めて選び取った言葉。
「……そうか。なら、勝手にしろ」
リオは短く、吐き捨てるように答えた。
そこには励ましも、称賛も、感動もない。ただ、彼女の決意をそこに置いておくことを許しただけの、不愛想な肯定。
「なら、立て。いつまでも地面と仲良くしてんじゃねえよ」
リオの手が、差し出された。
当然のように。
憐れみで押しつけるでもなく、ただ「立ち上がるなら使え」と言わんばかりの、無造作な差し出し方。
「……」
一瞬、その手を見つめて躊躇した。
この手を取るということ。
それは、自分が「一人では立ち上がれない弱者」であることを認め、彼に助けられることを受け入れるということ。
アルヴェリアのプライドが、最後の一あがきを見せる。
「……」
だが、もう知っている。
プライドだけで腹は膨れず、誇りだけでは夜の冷気は防げない。
自分は、何も持たない一人の人間なのだ。
ならば。
生きるために、選ぶしかない。
ゆっくりと、泥にまみれた手を伸ばした。
そして。
リオの、ゴツゴツとした、温かい手を、力強く掴んだ。
熱い。
しっかりとした力で、彼女の体は引き上げられる。
重力に抗い、泥から引き離され、再び二本の足で大地を踏みしめる。
膝はまだ笑い、今にも折れそうだ。
だが、倒れなかった。掴んだ手の温もりが、彼女に立ち続けるための支点を与えていた。
レイシアは、ゆっくりと顔を上げた。
視界の端に、かつての学友たちが見ていた「完璧な令嬢」の残像が揺らめき、そして霧散した。
もう、昨日までの自分ではない。
すべてを失い、名前さえも剥ぎ取られた者として。
それでも、自分の意志で、この地獄を生きると決めた者として。
レイシアは、暗い路地裏の向こう、遠くで瞬く街の灯りを見据えた。
物語は、ここから、本当の意味で動き始める。




