第1話:高慢令嬢、登場
王立学院の中庭は、昼下がりの光に満ちていた。
白い石畳、整えられた庭木、そして中央に立つ噴水。
水しぶきが太陽の光を反射し、まるで宝石を撒き散らしたかのような輝きを放っている。その平和で贅沢な景色の中に、不自然な静寂が漂っていた。
噴水の前に、人だかりができている。
本来、昼休みのこの時間は学生たちの笑い声や議論の声が響き渡る場所だ。しかし今は、誰もが息を潜め、ある一点を見つめていた。
理由は単純だ。
――この国で最も高貴な令嬢が、そこにいるからだ。
「道を開けなさい」
静かな一言だった。怒鳴るわけでもなく、威圧するような高圧的な響きもない。だが、その言葉には、拒絶を許さない絶対的な重みがあった。
生徒たちは無言で左右に分かれ、道を作った。
まるで割れる海のように、あるいは王を迎える臣下のように。
それもそのはずだ。
彼女は――
レイシア・フォン=アルヴェリア。
公爵家の長女。王族に次ぐ権力を持つ家柄であり、歴史を遡ればこの国の興りにも深く関わっている。そして、第一王子の婚約者として、次期王妃と目される存在。
金の髪は陽光を受けて眩いほどに輝き、最高級のシルクで仕立てられた制服が、その完璧な肢体を包んでいる。背筋は一切の歪みなく伸び、歩むたびに微かに響く靴の音さえも、計算されたリズムのように優雅だった。
その瞳は深い青。だが、そこには慈愛も温もりもない。
自分を囲む有象無象を、道端に転がる石ころか何かのように見ている。
――絶対的な「上」の人間の目だ。
「……あれがレイシア様か」
「完璧すぎるだろ。隙がなさすぎる」
「王子殿下の婚約者だぞ。あの人以外にふさわしい人間なんて、この国にいるわけがない」
遠巻きに眺める生徒たちから、ため息混じりの囁きが漏れる。羨望、恐怖、そして陶酔。それら全ての感情を向けられながら、当の本人は一切を気に留めない。
評価されるのは当然。
賞賛されるのは義務。
彼女にとって、世界は自分を中心に回るのが「理」であった。
俺――リオは、その人だかりの端で、古びた単語帳を片手にその光景を眺めていた。
平民。奨学金で入学しただけの、ただの雑魚だ。
この学院において、俺のような存在は背景の草木と同じだ。特権階級の輝きを邪魔しないよう、影を潜めて過ごすのが平民の処世術だった。
「そこのあなた」
不意に、鋭い矢のような声が飛んできた。
冷たい。感情の温度が、まるでない。
気づいたときには、周囲の視線が津波のように押し寄せてきていた。レイシア・フォン=アルヴェリアの青い瞳が、まっすぐに俺を射抜いている。
「……俺、ですか?」
あまりの唐突さに、間の抜けた声が出た。
「他に誰がいるのです?」
言い方が刺さる。氷の刃で撫でられたような感覚に、背筋が寒くなった。
周囲の視線が痛い。「何だあの平民は」「レイシア様に声をかけられるなんて」という嫉妬と、「何をやらかしたんだ」という嘲笑が混じり合っている。
やめてくれ。俺はただ、昼飯のパンをどこで食うか考えていただけなんだ。目立つのは、俺の人生設計において最も避けるべき事態だ。
「その位置に立たれると、通行の妨げになります」
レイシアは一歩も動かず、ただ冷然と言い放った。
彼女の歩む道に、平民が立っていること自体が、彼女の世界の美観を損なう罪であるかのような物言いだった。
「退いてください」
それはお願いではない。絶対的な命令だった。
「……すみません」
俺は素直に横へ避ける。
ここで言い返したところで、翌日には学院にいられなくなることくらい理解している。逆らう理由も、意味もない。
だが、それで終わればよかったのだが――。
「謝罪は結構です」
さらに追撃の言葉が飛んできた。
「理解していない者の謝罪には、価値がありませんから」
……は?
あまりの言い草に、一瞬思考が停止した。
「自分の立場を自覚なさい。あなたのような者が無自覚に動くことが、どれだけ周囲に迷惑をかけるか。自分の無知が他者の権利を侵害しているという事実に、思い至りもしないのですか?」
周囲の空気が凍りつく。さっきまでの囁きも消え、噴水の水音だけが不気味に響く。
彼女の言葉は、論理的で、そして残酷だった。
「この学院は、選ばれた者の場です。血筋、才能、努力。それらを兼ね備えた者が、国を背負うために集う場所」
レイシアは淡々と、まるで教科書の一節を読み上げるように続ける。
「努力もせず、ただ運で紛れ込んだような者が、同列に立てる場所ではありません。あなたのそのだらしない立ち居振る舞いが、この学び舎の格式を下げているのです」
視線が、俺を刺した。
それは軽蔑ですらなかった。ただ、「不要なもの」を排除しようとする生物学的な反応に近い。
「身の程を弁えなさい。二度と私の視界を汚さないように」
――はっきり言ってくれる。
胸の奥で、小さな火が灯るのを感じたが、俺はそれをすぐに消した。
実際、彼女の言う通りだ。俺は奨学金のために必死に点数を稼いでいるだけの「外部の人間」であり、彼女たちのような「選ばれた人間」とは、魂の重さからして違うとされている。
だから、俺は軽く肩をすくめて返すことにした。
「……通行の邪魔なら、もうどきましたよ。以後、気をつけます」
「ええ、そうなさい。時間は有限です。無駄な会話を強いないでいただきたいわ」
それで会話は終わり。
レイシアは俺に一切の興味を失ったように、視線を外した。その動作に迷いはなく、俺の存在そのものが彼女の記憶から消去されたのが分かった。
そして、彼女は再び歩き出す。
周囲の生徒たちは、先ほどよりもさらに深い畏敬を込めて道を開ける。
誰も彼女の横暴さを咎めない。誰も彼女の言葉の刃を指摘しない。
――それが当然だからだ。この国において、彼女の言葉は法に近い。
「……きつすぎだろ、あの人」
「平民にあそこまで言うか、普通。まるで害虫扱いだな」
「でも、間違ってはないよな。レイシア様の言うことは、いつだって正しいんだから」
彼女が去った後、再び小声が広がり始める。
擁護と、同意と、そして自分に向けられなくてよかったという安堵が混じった声。
レイシア・フォン=アルヴェリア。
完璧な令嬢。
正しすぎる正論。
揺るがない誇り。
そして――。
人を見下すことに、何の疑問も持たない女。
彼女にとって、弱者は存在すること自体が罪であり、強者に道を譲るのは宇宙の真理なのだろう。
俺はその背中を見送りながら、ぼんやりと思った。
――関わらない方がいいな、ああいうのは。
あんな風に「正しさ」を武器にして生きている人間は、いつか自分自身の正しさに焼き殺される。俺のような平民は、その火の粉を浴びないように遠くで見ているのが一番だ。
このときはまだ、知らなかった。
その完璧な「正しさ」という城壁が、いとも容易く崩れ去る日が来るなんて。
あの高慢な令嬢が、すべてを失って、泥水の中に這いつくばることになるなんて。
そして――。
その時、誰からも見捨てられた彼女の隣に、他ならぬ俺が立つことになるなんて。
運命というのは、彼女が最も嫌う「不条理」な形で動き始めていた。




