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愛屍の臨界──ゾンビ戦争の英雄、ふたりの恋人の物語  作者: 斉城ユヅル
第1章 さらば愛しき法と秩序の日々
6/16

ゾンビとの初遭遇で、俺たちは徹底的に破壊された。

「ぶっ殺すぞ、このクソババァ!!」



低く響くのではない。


破裂するような怒声が窓ガラスを震わせた。



──びっくりしたぁあああ



真剣に暴徒の動画分析をしていた俺は、その場でビクリと跳ねた。


見れば、美咲すら肩を強張らせている。



さっきまで子どもの笑い声が響いていたはずの昼下がり。


今はただ、威嚇する獣の咆哮だけが響いていた。



美咲がしなやかな猫のように機敏に席を立ち、窓際へ駆け寄る。



「下かも。見えるかな」



隣に立った俺に美咲が囁く。


彼女は真剣な表情でカーテンを指先でかき分け、音を立てぬように窓を開ける。



2Fのベランダに身を伏せ、目だけを外に出して覗き込んだ。


俺も習う。


視線の先。



片側2車線の大通りの向こう側。


正面だ。



──歩道に地味な服装の小柄な女性が倒れていた。



一つ結びの白髪交じりからして中年だろうか。



その女性に怒鳴りつけているのは身長180センチはある大男だった。


分厚い肩と太い腕。汗に濡れた顔を歪め、怒声を繰り返している。



──どう見てもカタギじゃない。



どういう状況だ?


混乱するが目が離せない。



状況が動く。



四つん這いになった小柄な中年女性が起き上がり、大男に向けて全力疾走する。



それを肩で弾き飛ばす大男。


後ろに吹き飛ぶ女。



だが、あまりの勢いに男も体勢を崩す。


起き上がった女が男に迫る。



ファイティングポーズを取った男の拳が閃いた。



顎先、鼻梁、こめかみ──人間なら即座に沈む急所を容赦なく狙い撃つ。


女の鼻から血が噴き出し、首がねじ切れそうに顔が揺れる。


鈍く重い音が続けざまに響いた。



「上手い」



横で美咲が低く呟く。



「急所を狙っている。しかも、気絶狙いね」



顎は気絶が狙える。鼻先はとにかく痛い。


どちらも殺さずに無力化できると昔読んだ格闘漫画の解説を思い出す。



大男はどう見ても喧嘩慣れしていた。



──だが



中年女はふらつきすらしなかった。


顎を殴られても、鼻先を潰されても、ただ前へ、前へ。



掴みかかり、爪を立てて大男の顔を裂く。



ピッと一筋、赤い線が皮膚に浮かび上がる。


男のサングラスが跳ね飛び、血が流れだす。



焼けるような怒声が響く。



「クソがァ!!!」



その咆哮を気にする素振りもなく、女が全身で飛び掛かる。


男の体に両手両足巻き付き、遂に肩口に歯を突き立てた。



「ぐあああああああっ!!」



大男の悲鳴が路地を震わせた。



「ガアアアアアッ、死ねやアアァァ!!!」



渾身の前蹴り。


それが女の鳩尾を真正面から撃ち抜いた。



ベランダから見ているだけで鳩尾を抑えたくなってくる。



女の身体が空気を切り裂いて吹き飛び、アスファルトに叩きつけられ、転がっていく。


口から血を噴き出し、鼻は折れ、人の顔には到底思えない。



──なのに



地面を転がり、身を折り立ち上がろうとしている。


次の瞬間、駆け寄った大男が女性の顔面めがけて下段蹴りを叩き込んだ。



──ドガッ



衝撃音。


人の顔から出ていい音じゃない。



俺は女が死んだと思った。



「……ひっ」



美咲の細い悲鳴が横で漏れた。



大男は唾を、女に向かって吐き捨てる。



しかし、死んだと思った女は起き上がる。



四つん這いになった女が口を開いた。


言葉ではない。



意味を持たぬ絶叫──



「グルギャアアアアアア!!!」



それは悲鳴というより、血を吐く獣の咆哮だった。



血を吐き垂らしながら、大男の太ももに絡みつき、食らいつく。



「ぎゃあああっ!!!」



大男の絶叫。


上から殴り下ろす拳。


両拳がドガッ、ドガッと女の後頭部に叩き込まれる。



女は離れない。



拳が割れ、血がべっとりと付着し、痛みか、男は殴るのを止めた。



「クソが……ッ!」



膝蹴り。


女の身体が再び跳ね飛ばされ、路上で痙攣しながらも藻掻き続ける。



大男は吠え、女に飛び掛かり、全身でのし掛かった。


引っ掻く。引っ掻かれる。


互いの血が飛び散り、二人はすでに判別できぬほど真っ赤に染まっていた。



──袈裟固め



世界柔道で見たことのある技。



大男の分厚い腕が女の首と肩をがっちりと固める。


完全なロック。



女は絶叫し、暴れ続ける。


だが、それだけだ。



逃げられない。



──制圧は、成立した。



詰めていた息を吐き出す。



「あっ」と呟き、固まっていた美咲が室内へ消えた。



窓の下では、大男の周りに数人の通行人が立ち止まり、携帯を耳に当てている。


きっと警察に通報しているのだろう。



やがて、耳にスマホを当てた美咲がベランダに戻ってくる。


しばらくの沈黙。



「?」



俺が首を傾げたとき、彼女の口が小さく動いた。



「110が繋がらない……そんなことってある?」



信じられないという声色。


もう一度発信する。



今度は、俺の耳にもはっきりと聞こえてきた。



「現在回線が大変込み合っており──」



無機質なアナウンスが流れた瞬間、美咲の顔から色が消えた。


白く塗り潰されたような無表情。



スマホを持つ指先が細かく震え、手がだらりと下がっていく。


顔が真っ白だ。



──カツン



スマホが美咲の指から滑り落ちる。


軽いはずのその音が、何かの終わりを告げていた。



分からない。


美咲が何を考え、どこまで見たのか分からない。



だが、その血の気の引いた蒼白な美咲の顔に、きっと俺よりも遥かに深い位置で絶望しているのだろうと確信した。



落ちたスマホに見向きもせずに、美咲が俺の胸に身体を預けてくる。



「……対処できてない。警察が。小柄な女性であの脅威。あんなのと戦って、アタシたちが無傷で勝てるとは思えない」



背中に回された腕に力が入る。


今だけは、美咲の柔らかさに意識がいかない。


美咲の言葉が俺の全てになっていた。



「これは……助からないわね」



その美咲の言葉に頭が真っ白になった。


ふらっとした。


足から力が抜けた。



背中で壁を擦りながら、ずりずりとベランダにふたりで座り込んだ。



「はっ、はっ」と短い呼吸が漏れる。



視線が彷徨う。



──どうする?どうすればいい?



思考は止まり、浮かぶ言葉はそれだけ。


無意識に美咲の震える細い肩を抱いた。



──賢い美咲が先を読んで考えて、結論が「もう助からない」。



一体、どうしろってんだ。



小柄な女性が大男と戦っていた。


蹴られても殴られても襲い掛かる。


大男も傷だらけの血塗れだ。



俺は戦えるか。アレと。


勝てるだろうか。



いや、制圧するだけではダメなのだ。


こちらは掠り傷すら負うことなく、完封しなければならないのだ。



──無理だ



相手が小学生ならいいかもしれない。


だが、あの大男が暴徒になって襲ってくるかもしれない。


どう考えても絶対に殺される。



どれだけ呆然としていたか。



「いい加減、ジッとしろ…や」と呻く男の声が届く。



あれ、そういえば、パトカーは?



「……警察が来ない」



ゆっくりと立ち上がり、覗き込む。


まだ男は女を抑えているがそろそろ疲れてきているように見える。



ベランダから交番が見える。


覗き込んだが・・・無人だ。



いつも交差点に立っている警官がいない。



警察の対処が間に合わない、か。



次は、どうなる?



捕まらないあの女。大男は出血もある。疲労もある。いつか逃げられる。


次はきっと殺されるだろう。



そして、ゾンビが増える。


また増える。


どんどん増える。そして──



・・・そうならないために、ゾンビを減らさなければ。



殺せるだろうか?



あの男が女を殺せば増えないのだ。



だが、警察が来るかもしれない。


今、殺せるか?



俺には・・・無理だ。


殺した直後にパトカーが到着したらどうなる。



手錠をかけられるのは俺だ。



──殺せない、誰も。



ということは、ゾンビは減らない。


ずっと増え続ける。



つまり──



あぁ、美咲は先にこれが見えたのか。



結論が出た。


ゾンビは増え続け、俺たちは死ぬ。



息が浅い、眩暈がする。


はぁはぁと自分の息を聞く。



ふらつき、もう立っていられず、再びベランダに座り込む。


呆然としている美咲と目が合った。



きっと俺も、同じ顔をしているだろう。

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