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愛屍の臨界──それは「愛してる」が全ての理由になる世界  作者: 灯野ユヅル@GoodNovel契約作家
第6章 意志こそ武器。そして、武器は使い方
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プロローグ2──生存者の偽善

美咲が口を閉じてから、沈黙が続いた。それぞれがこの考えを咀嚼するための無言。



2体のゾンビに襲われれば、全滅。


つまり、美咲が喰われるということ。それを防ぐために、他人を喰わせる。



その結論を脳裏に言葉にした瞬間、ブルッと身体が震えた。


それを、無視して、横目で美咲を盗み見る。



彼女はバイザーを上げ、額の汗を拭いもせず、遠くを見ている。


その目は、次だけを考えている。次の行動、次の危機、次の判断……。


いつもそうだ。俺が立ち止まった瞬間に、彼女はすでに一歩先を見ている。



コートの残骸を羽織った美咲。濡れたTシャツがピッタリと張り付き、浮き上がった胸の輪郭が呼吸とともにわずかに動いている。


こんな状況じゃなければ、そこに女を意識したかもしれない。だが今は違う。そこにあるのは、ひたすらに戦う意志を持った戦士の姿だった。


卑猥さよりも、鋭利さ。柔らかさよりも、俊敏さ。



盾を構えて、俺を庇って前に出た美咲。


吹き飛ばされ、それでも立つ女。



頼もしさと、守りたい気持ちと、敬意と、名付けようのない熱が、胸の奥で絡まり合う。


理性では追いつかない。ただ、心の底ではとっくに決まっていた。



その時が来たら、きっと俺は美咲を守る。


まずは、この孤独で立派なリーダーを。誰も庇ってくれなくとも、俺だけは。



「……いい考えだと思う。それなら……俺たちは助かる。……賛成だ」



口にした瞬間、胃の底がグラと揺れた。


俺は、人は殺した。だが、それは降りかかる火の粉を払いのけただけのこと。


これは、どう言いつくろっても、明らかに《邪悪》だった。


何に賛成したのか。分かっている。他人を助ける振りをして、将来の囮としてストックする。


短く数度息をして、必死に乱れた精神を整える。



彩葉も小さく息を吸う音を漏らしていた。


視線を向けると、笑おうとして失敗した顔。不格好に片方の頬がピクピクと動いている。



「……まぁ、そうっすね。今さら善人ぶっても死ぬだけっす」



軽く言うくせに、目が泳いでいる。


それでも同意した。この場で否定する選択肢がないことを、誰もが知っていた。



美咲が短く頷いた。



「……アタシたちが生きて、駐屯地に辿り着く。それが最優先。アタシは……それ以外を考慮しない」



その言葉は、投げ網を投げるように低く、硬く、静かに場に被さった。それは宣言というより、無垢な祈りを棄てた女の呪いだった。



言葉が終わると、再び静寂が戻る。


夜の奥から、車のクラクションが聞こえるが、すぐに途切れた。



息を整え、心を整え、俺は美咲の言葉を胸の奥で反芻した。



「生きることだけを考える」



その一文は、正しい。何一つ間違っていない。



だが、それは「誰かが死ぬ」という未来を前提にしている。


俺たちは、助ける振りをして、縋ってきた人を沈めるのだ。



美咲は手の甲で頬の汗を拭い、淡々と続けた。



「役立つ人間は仲間にする。役立たない人間は同行者として扱う。足手まといは切り捨てる」



声には抑揚がない。感情を排した、訓令のような調子。



「……それが最適解。……いいわね?」



彩葉は一瞬だけ顔を上げた。いつもの軽口を探しているのだろう。けれど、出てきたのは乾いた笑い声だった。



「はは……。了解っすよ。もう……考えるのも面倒っす」



美咲は続ける。



「これまではスルーしてきたけど、今後は人と接点を持つ。取り込み活用する。私たちは希望として振る舞う。だから、きっとついてくる。……生き延びたい人間は……必ず」



理屈としては完全だった。倫理としては、完全に破綻していた。


俺はうなずきながら、「人を活用する」という言葉に、胸のかき乱されていた。でも、今は……と理性で、感情を押し潰す。


この頬の痙攣はその断末魔だ。



生きるためなら、使う。それが結論。


美咲のためだ。ならば、これが正解だ。



それで、納得している自分がここにいた。



その瞬間――パッと、音とともに、目の前の駐車場が白く照らされた。



瞬間、全員が動く。


美咲が槍を構え、俺は槍を拾い彩葉を庇うようにして立つ。


玄関灯。


その中に立っていたのは、柔和な初老の男だった。



白いパジャマ。戸惑いを浮かべた顔。俺たちを見て、凍りついたように動かない。


――世界の崩壊をまだ知らない人間。



俺はその顔を直視できず、サッと視線をそらした。



「……行くわよ」



美咲の一言で、全てが決まる。



電気の明るさがやけに不快だった。


人間の営み、温かさが今は不快だった。



そこにもう俺たちの居場所はないという事実を、目の前に突きつけられる気がして。



だから、俺は視線をそらし、背を向けた。


光の届かない夜の道へ向かった。



コンクリートに靴底の音が吸い込まれていく。先を行く美咲を追う。



逆立ちしても人に顔向けできるような道行じゃない。


それでも……俺は美咲の隣を歩く。



愛した女性は、女ではない……戦友だ。


支え、守り、生き延びる。



玄関の明かりに背を向けて、悪意に満ちた生存者集団として、俺たちは練馬へ向けて歩き出した。

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