可愛い彼女に、優しい世界を。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
はて、今何時だろう。
隣では、美咲が静かに寝息を立てている。
こちらを向き、毛布が規則正しく動いている。
眉は凛として、まつ毛は長い。
普段は勝ち気に光る瞳は閉じられ、今だけは可愛らしさが見て取れる。
張りのある唇は柔らかく結ばれ、まるで守られるべき少女のようだ。
これは、目が覚めればすぐに消えてしまう《幻》。
その安らかな可愛さを、今だけは、壊したくなかった。
窓の外からは小鳥の鳴く声、信号待ちの車のエンジン音が聞こえてくる。
いつも通りだ。
──深夜の買い出しが悪夢だったみたいに。
暑苦しい《ツーマンセル》。
あれが一夜の笑い話になればいい。
いや、そうあってほしい。
祈るようにゆっくりスマホを手を伸ばす。
待ち受けには午前9時08分の文字。
6時間弱寝たことになる。
SNSで情報収集を始める。
──なん、だよ、これ。
現実は加速度的に悪化していた。
SNSのトレンドは昨夜の事件のニュース、暴力事件も入っている。
野球やテレビ番組の中に異物のように紛れ込んでいた。
渋滞、運休の文字もある。
都心ヤバすぎの投稿。
首都高で複数箇所の玉突き事故。全線通行止め。
都内の路線は始発こそ動いていたが、複数の列車で車内トラブルのため、一時停止。
今はまだ動いているが、断続的に列車が止まっている。
『山手線が動いては止まるを繰り返していてウケるwww』
──冗談じゃなかった。
列車が止まる。
犯人は暴れて、ケガ人が感染するならその人たちはどこに行く?
警察署と病院だ。ケガ人と暴徒の対応で電車が止まる。1箇所じゃない。
ポツポツそういう人がいるだけで、列車のダイヤは崩壊した。
──脆すぎる。
『梅雨なのに東京は大雪状態w』
幹線道路の渋滞情報を見る。
川越街道、不忍通り、明治通り・・・都心の太い道路が黄色、オレンジでベタ塗になっている。
赤ではないから、詰まってはいない。でも渋滞だ。
複数の玉突き事故と放置車両?
放置車両ってなんだ。道路上に車だけが置いてあるってことか。
──何故?
事故処理車も渋滞に巻き込まれてスタックしている報告がSNSのドライバー経由で上がっている。
『事故した人たちが乱闘中』
もう、動画を見る気にはならない。
見なくても分かる。《暴徒》と一般人だろう。
スクロールする指が止まっていた。
スマホの裏側がじんわり暖かい。
毛穴が開き、冷や汗が吹き出す。
朝から心臓がドキドキしている。
──何を怖がっている?
日常が崩れていく。
足元が沈み込んでいく感覚。
運休、渋滞、処理の追いつかない首都高と幹線道路。
そして、それらを埋め尽くす日常の投稿。
日常が侵食されていることが怖いのか。
いや、違う。
結末が分からないこと。
──これから、どうなる?
「ピーポーピーポー」
救急車のサイレンが近づいてくる。
そして、家の前の大通りを通りすぎ、音程を変えて走り去っていく。
「んぁ……」
美咲の目が開いている。
ぼんやりした無防備な美咲。
──愛おしい。
彼女が、この現実を知るまでは、せめて優しい世界に。
「おはよう、美咲」
そう思って、俺は彼女に優しく微笑んだ。