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第2節 あの男はゾンビか人間かそれが分からないのが大問題。

ドアノブを握る手が汗で滑る。静かに回し、少しだけ押す。


隙間から覗いたマンションの廊下。毎朝見慣れた、白い廊下。



だが、何かが違った。



音がない。


人の気配もない。


匂いもない。



──真空のような静寂



心臓の音だけがやけに煩く響く。


ドアを押し広げて、死角を確認する。



非常口の赤いランプ。


廊下には誰もいない。



背中にひやりとした感覚が走る。


夜の廊下って、こんなに静かだったか。



この違和感が、深夜午前2時にいつもは外に出ないからだとしても、今は、否定せずに受け止めた方がいい。


そんな気がした。



その瞬間、美咲が俺の横をすり抜ける。


下は黒いジャージ。上は真夏にはあり得ない冬物コート。



見えないが、その袖の下、左腕にはタオルとガムテープが巻かれ、即席の護りになっている。セミロングの髪は緩やかに巻かれ、廊下の光を拾って柔らかく波打った。


少し身をかがめ、足音を抑えて歩く姿は、戦場の兵士のよう。



美咲は音を立てず、階段に向かう。


俺はその背中を目で追い、自然と深く息を吸い込んだ。



──これが、俺たちの《フォーメーション》だ



鍵は開けたままにする。追われたとき、鍵を開けている間に死にたくはない。



美咲と俺は、誰にも出会わず、マンションのエントランスまで降りた。



「ここで待ってて」



囁いた美咲が大通りに面した出入り口から外を覗き、手招く。後ろや死角を覗き込みながら追いかける。


深夜2時。終電も終わった《護国寺駅》前。閑散としているどころか、人が一人もいない。



「この時間に外出できたのは幸運だったわね!」



美咲が囁きながら喜ぶという芸をしていた。



「よし、緑と赤どっちに行く?」


「大通りを渡りたくない。緑に行きましょ」



チキンが美味しいコンビニはエントランスを出て、右手に80メートルくらいだ



「ついてきて」



最後に全周を見渡した美咲が壁沿いを歩き始める。


俺も後を追う。



彼女は前方に集中している。その分、俺は、脇道の奥、マンションの入り口を覗き、ときおり、背後を振り返る。



街路樹の影、美咲がぴたりと止まった。


振り返りざまに、指先で「動くな」と合図を寄越す。



ピタッと立ち止まり、ゆっくり周囲を見渡した。



・・・誰もいない。



夜の護国寺は不自然なほど静まり返っている。


風もなく、街灯だけが淡く道を照らしていた。



「……あっ」



美咲の視線の先に人影を見る。


大通りの向こう側。


街灯に照らされた、サラリーマン風の男だ。



五十代ほど。少し剥げ、体格は小太り。肩にビジネスバッグを掛け、皺の寄ったスーツ姿。疲れ切った仕事帰りの男。


そう見えた。



俺も美咲も、木陰に潜む獣のように、息を詰めて、その男を凝視していた。


歩幅、腕の振り、首の動き。



ただの人間か?あるいは・・・。



緊張で鼓動が耳に響く。


ふわっと吹いた生暖かい風に街路樹がザワザワと鳴る。



想像が頭に広がる。



あの男がこちらを見る。全速力で走ってくる。


俺たちは逃げる。家まで追いつかれないか?



近いから大丈夫だ。



だが、もし追いつかれたら。


身長が同じくらいで、体重はアッチの方が重い。


全力でタックルされて、俺は耐えられるだろうか。


難しい・・・だろう。



ちらりと頭一つ低い美咲を見る。



──美咲には絶対に無理だ



視線をオッサンに戻す。



俺たちの視線の先で、サラリーマンは歩き続けた。


歩幅が少し乱れている。千鳥足・・・と言うほどではないがふらついている。あたりを見るように首を回している。


そして、肩にかけたバッグを少し直し、街灯の下を抜け、角を曲がって姿を消した。



「……はぁっ……」



美咲が、ほんのわずかに肩を落とし、ため息をつく。


俺も息を吐き出した。


知らずのうちに肺が焼けるほど息を詰めていたらしい。



美咲と視線を合わせ、頷いて歩き出す。人ひとりを見ただけで、この緊張感。



・・・これが今の世界か。否応なく理解した。もう二度と俺たちは元の夜には戻れない。



*



玄関の鍵を閉めた瞬間、「ふぅ~」と膝から力が抜けた。



二人して汗まみれになった暑苦しいコートを脱ぎ捨てる。


無言で、ローテーブルに戦利品を並べた。



頭の中に、ついさっきの光景がよみがえる。



コンビニは、意外にも品薄ではなかった。



眠たげな外国人店員がひとり。


俺たちが10リットルの水を抱え、弁当や栄養ドリンク、サプリを山ほどカゴに詰めても、驚く様子もなく無感情に「ピッ、ピッ」とバーコードを通した。


最後に投げるような「ありがっしたー」が聞こえただけだった。



家までの道も、誰ともすれ違わなかった。



水 10リットル、ジュース 2リットル、弁当 6食、米にかける系のレトルト食品6食、エナジーバー箱買い、ビタミン系サプリ、マスク、アルコール。


そして、カップラーメンを山盛り。


棚の一割は俺たちで買い占めた。



ってことは、俺たちみたいなのが10組いれば、あのコンビニは空っぽになるのか。


恐ろしく早い椅子取りゲーム。その現実に、言いようのない寒気を覚えた。



「ゾンビ映画と現実じゃ、やっぱり違うわね」


「服を着ているだけで疲れる。夏に長袖は厳しい」


「遠目で人かゾンビか見分けられない。悟司、これは最悪よ」


「……早く見分けて逃げないといけないのにな。それしか方法がないんだし」


「さて、どうすればいいのかしらね? もう、寝ぼけて何も思いつかないわ」



もう午前3時だ。



出勤して、デカい契約を纏めて、ケーキを食べて、エッチして、そこから調査をして、物資調達をして・・・。


大型エネルギータンクを持つコイツだって、そりゃ疲れるわな。



「もう、ここからは引きこもって様子を見るんだろ。なら、今日はもう寝ようぜ」


「朝になってニュースを見ないと分からないことも多いし、そうしましょっか。……寝る前にシャワー浴びてくるわ」



汗を流した美咲に続き、俺もシャワーを浴びて、ベッドに横になった。


電気を消した部屋の天井を眺めて思う。


この過剰な用心が、いつか笑い話になればいい、と。



クーラーの効いた部屋で、抱き着いてくる美咲の暖かさと柔らかさを感じつつ、俺は目を閉じた。



遠くから鳴り響く救急車やパトカーのサイレン。


いつもは聞き流すそれ。


鳴り止まないその音が、今夜は、日常の断末魔に聞こえた。



俺は眠れず、美咲の寝息も聞こえてこなかった。

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コンビニ店員、意外とのんびり!美咲ちゃん、ゾンビに襲われるかと思った…無事でよかった
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