プロローグ──止まる者と進む者
美咲と彩葉に続き、俺が最後に家を出た。
鍵は閉めない。もう戻らないのだから締める必要もない。
廊下は明るい。振り返れば男が死んだ場所から続く赤黒いライン。
彩葉の家の玄関で途切れている。
部屋に入った人はベランダで残骸を見つけることになるだろう。
どうでもいいが。
廊下から眼下に広がる東京の街並みを見る。
街灯はつき、部屋の明かりもちらほらと。
それはいつもと同じだ。だが、違う。
──静かすぎる
音がしない。サイレンも、車のエンジン音も、人の声もしない。
鼻を引くつかせると血の匂いがする。
だがこれは、身体に沁みついていた匂いな気がする。
生暖かい風、クーラーが効いた部屋から出た瞬間、ジメッとした梅雨の空気が肌に絡みつく。
前を行く彩葉の背中を見る。
茶色のコートで首と肩と腕がおおわれ、露出した背中のTシャツの上にリュックがある。
鎧武者に見えるのは合理的な装備が同じ形になるからだろう。長槍を抱えているしな。
美咲の背を見て、追いかけている。
「……静かすぎて、逆にうるさいっすね」
足音、服が擦れる音。やけに耳に付く。
廊下を振り返り、下を覗き込み、「行くぞ」と彩葉の背中を叩き、美咲を追った。
*
マンションの敷地から出る。
美咲は左に曲がった。彩葉がその背を追う。
「誰もいないっす」
静かだ。
誰もいない。
裏道とはいえ見通しのいい道路。
誰もいないのは良いことだ。
「彩葉、静かにするんだ。2階からゾンビが落ちてきて死んだ家族を見た。音を出せば呼び寄せる」
その声にちらりと振り向いた彩葉が小さく頷く。
「こわやこわや……落ちてきたゾンビで即死とか鬼畜すぎ」とささやく声が聞こえる。
「左右と上を警戒してくれ。俺は左右と後ろを見る。美咲は前を見てくれる。彼女が止まったら傍に行って指示を貰え」
1通の車道の脇を一列になって進む。十字路が来るたびに美咲が前に進み、確認。
止まれ、左右を見る、来い、渡れ。
──その繰り返し。
一歩ずつ、練馬に近づいていく。気が遠くなりそうだ
*
止まれ、左右を見る。
美咲が戻ってくる。
周りを見てから美咲の下に集まる。
「左の小学校の門に人が集まっている。10人近くいるからきっと人間。無視して進む。直進して学校脇を進む。そのあと、坂道を上るルートで大山方面に進むわ」
彩葉が頷く。俺もだ。
行くわよと手で合図され、三人固まって十字路を横切った。
確かに締まった校門の前で人が集まっている。
ベビーカーを押す母親、杖を突く老人。
押し殺した子どもの泣き声が風に浮く。
あぁ、動けないんだな。
視線を切って前を向く。
学校は高いフェンスで囲まれている。咄嗟に中に飛び込むのは難しい。
片側が通れないからか美咲が先を急ぐ。
十字路に先行し、手招き、左へ。
坂道が伸びている。
GOのサインに後を追う。
──パリン
ガラスが割れる音が遠く響く。
美咲が立ち止まり学校を見る。
坂道から下を覗く。
上から見た校庭には数十人の人間がバラバラに──お互いをけん制するように座っていた。
レジ袋、毛布、持ってきたレジャーシート。周囲に背中を向け家族で固まっている。
校舎には若い男たち。ガラスを割った連中だ。
次々中に入っていく。
笑い声がここまで響いてきた。
「ここは崩れるわね。早く行きましょ」
「赤ちゃんもいるっすよ。移動なんて無理っしょ……」
今はまだ統制のない人の群れだ。
法律を守る人が減っていき、法律を失った動物の群れになる。
その集団の中でどんなルールが出来上がるのか。
想像したくもない。上に立つ者次第だろう。
行政からの避難指示もない。先生は学校に来ることも出来ない。
防衛するどころか、人を纏めることすらできない。
感染者かどうかをチェックする人がいないし、よしんば感染者だと分かってもそれを追い出す組織もない。
──結論として助からない
それでも、人は集まってくる。
集まっているから安心だと思い、腰を下ろす。
その気持ちはよく分かる。
ここにいたら危ないというつもりはない。
彼らの選択が彼らの運命になる、それだけのことだ。
「赤ん坊を捨てれば助かるかもな」
子どもがいなくて良かった。
彩葉が固まる。その背を押して、俺は美咲の後に続いた。
坂道が終わり、下り坂になる。
遠くにコンビニの明かりが見えてきた。
死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。
https://ncode.syosetu.com/n2978kr/
10月11日より本編の更新を再開します!
『第10章 人類の英知、未だ振るわれず──The Wisdom of Mankind, Still Sheathed』
まだこちらを読んでいない方は是非本編もご覧くださいm(__)m




