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あの男はゾンビか人間かそれが分からないのが大問題。

ドアノブを握る手に汗が滲む。


静かに回し、少しだけ押す。



隙間から覗いたマンションの廊下。


毎朝見慣れた、白い壁。



だが今は、違った。



音がない。


人の気配もない。


匂いもない。



──真空のような静寂。



心臓の音だけが響く。


ドアを押し広げて、死角を確認する。


非常口の赤いランプ。


誰も、いない。



その瞬間、背中にひやりとした感覚が走る。


夜の廊下は、こんなに静かだったか。



・・・《異常》の中に足を踏み入れた。



この違和感が、深夜午前2時にいつもは外に出ないからだとしても。


今は、否定せずに受け止めた方がいい気がした。



俺の横を、美咲がすり抜ける。


下は黒いジャージ。上は真夏にはあり得ない冬物コート。



その下、左腕にはタオルとガムテープが巻かれ、即席の護りになっている。



セミロングの髪は緩やかに巻かれ、廊下の光を拾って柔らかく波打つ。


少し身をかがめ、足音を抑えて歩く姿は、戦場に向かう兵士の背中に見えた。



美咲は音を立てず、階段に向かう。


俺はその背中を目で追い、自然と深く息を吸い込んだ。



──これが、俺たちの《フォーメーション》だ。



鍵は開けたままにした。


追われたとき、鍵を開けている間に死にたくはない。


誰にも出会わず、マンションのエントランスまで降りる。



「ここで待って」



囁いた美咲が大通りに面した出入り口から外を覗き、手招く。


後ろや死角を覗き込みながら追いかける。



深夜2時。終電も終わった《護国寺駅》前。


閑散としているどころか、人が一人もいない。



「この時間に外出できたのは幸運だったわね!」



美咲が囁きながら喜ぶという芸をしていた。



「よし、緑と赤どっちに行く?」


「大通りを渡りたくない。緑に行きましょ」



チキンが美味しいコンビニはエントランスを出て、右手に80メートルくらいだ


都心の利便性が、今、命を救おうとしている。



「ついてきて」



最後に全周を見渡した美咲が壁沿いを歩き始める。


俺も後を追う。



ゆっくり歩く美咲。


美咲は前に集中している。


その分、俺は、脇道の奥、マンションの入り口を覗き、ときおり、背後を振り返る。



街路樹の影、美咲がぴたりと止まった。


振り返りざまに、指先で「動くな」と合図を寄越す。



俺も息を呑み、周囲を見渡す。



・・・誰もいない。



夜の護国寺は不自然なほど静まり返っている。


風もなく、街灯だけが淡く道を照らしていた。



美咲の視線の先に人影。



大通りの向こう側。


街灯に照らされ、サラリーマン風の男が歩いている。



五十代ほど。少し剥げ、体格は小太り。


肩にビジネスバッグを掛け、皺の寄ったスーツ姿。


疲れ切った仕事帰りの男。



一見、そう見えた。



俺も美咲も、木陰に潜む獣のように、息を詰めて、その男を凝視していた。


歩幅、腕の振り、首の動き。



ただの人間なのか、それとも。


緊張で鼓動が耳に響く。



ふわっと吹いた生暖かい風に街路樹がざわめいた。



想像が頭に広がる。



あの男がこちらを見る。全速力で走ってくる。


俺たちは逃げる。家まで追いつかれないか?



近いから大丈夫だ。



だが、もし追いつかれたら。


身長が同じくらいで、体重はアッチの方が重い。


全力でタックルされて、俺は無傷で振り払えるだろうか。


難しい・・・だろう。



ちらりと頭一つ低い美咲を見る。



──美咲には絶対に無理だ。



視線を男に戻す。



俺たちの視線の先で、サラリーマン風の男は足を運び続けた。


歩幅が少し乱れている。


千鳥足・・・と言うほどではないがふらついている。



当たりを見るように首を回している。



そして、肩にかけたバッグを少し直し、街灯の下を抜け、角を曲がって姿を消した。



美咲が、ほんのわずかに肩を落とす。


俺も息を吐き出した。


知らずのうちに肺が焼けるほど息を詰めていたらしい。



美咲と視線を合わす。頷いて歩き出す。



人ひとりを見ただけで、この緊張感。


・・・これが今の世界か。


もう二度と俺たちは《元の夜》に戻れない。



*



玄関の鍵を閉めた瞬間、「ふぅ~」と膝から力が抜けた。



汗まみれになった暑苦しいコートを脱ぎ捨てる。


同時に、美咲も脱ぐ。



二人とも無言で、ローテーブルに戦利品を並べていく。



頭の中に、ついさっきの光景がよみがえる。



コンビニは、意外にも品薄ではなかった。


眠たげな外国人店員がひとり。



俺たちが10リットルの水を抱え、弁当や栄養ドリンク、サプリを山ほどカゴに詰めても、驚く様子もなく無感情に「ピッ、ピッ」とバーコードを通した。


最後に投げるような「ありがっしたー」が聞こえただけだった。



家までの道も、誰ともすれ違わなかった。



水 10リットル、ジュース 2リットル、弁当 6食、米にかける系のレトルト食品6食、エナジーバー箱買い、ビタミン系サプリ、マスク、アルコール。


そして、カップラーメンを山盛り。


棚の一割は俺たちで買い占めた。



さっと背筋に冷たいものが走る。



──じゃあ、俺たちみたいなのが10組いれば、あのコンビニは空っぽになるのか。



恐ろしく早い椅子取りゲーム。


その現実に、言いようのない寒気を覚えた。



「ゾンビ映画と現実じゃ、やっぱり違うわね」


「服を着ているだけで疲れる。夏に長袖は厳しい」



「遠目で人かゾンビか見分けられない。悟司、これは最悪よ」


「……早く見分けて逃げないといけないのにな。それしか方法がないんだし」


「さて、どうすればいいのかしらね? もう、寝ぼけて何も思いつかないわ」



もう午前3時だ。



出勤して、デカい契約を纏めて、ケーキを食べて、エッチして、そこから調査をして、物資調達をして・・・。


大型エネルギータンクを持つコイツだって、そりゃ疲れるわな。



「もう、ここからは引きこもって様子を見るんだろ。なら、今日はもう寝ようぜ」


「朝になってニュースを見ないと分からないことも多いし、人通りの多い日中、外出するつもりにもならないし、それでいいっか」


「寝る前にシャワー浴びてくる」



汗を流した美咲に続き、俺もシャワーを浴びて、ベッドに横になった。



この過剰な用心が、いつか笑い話になればいいと思う。



クーラーの効いた部屋で、抱き着いてくる美咲の暖かさと柔らかさを感じつつ、俺は目を閉じた。



遠くから鳴り響く救急車やパトカーのサイレン。


いつもは聞き流すそれ。



鳴り止まないその音が、今夜は、日常の断末魔に聞こえた。



俺は眠れず、美咲の寝息も、聞こえてこなかった。

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