彩葉救出作戦、打ち合わせから実行まで淡々と進むのが現実だった。
明治通りを抜け、神社の境内を突っ切る。
足裏には石畳の感触。
鳥居を背にした瞬間、神聖な気配に守られた気がした。
だが、その錯覚はすぐに霧散する。
夜気に混じる悲鳴が、こんなに離れてもなお、背中を引っ掻くように追ってきていた。
子どもと大人の男女の悲鳴が交じり合い、一度聴いたら忘れられない音色になっている。
頭を振って、目に浮かんだ光景を振り払う。
悲鳴から逃げるように、神社の境内を抜け、北池袋の住宅街に足を踏み入れる。
昼間なら子どもの声が響くであろう細道は、いまは無音の路地。
視界の開けた公園に出たとき、ようやく息がつけた。
ここまでは悲鳴も届かない。
街灯の光が届かない暗がりに腰を下ろす。
スマホを取り出し、彩葉に電話をかける。
『近くまで来た。状況は?』
短い沈黙のあと、掠れた声が返る。
『まだいるっす……。入れろよとか、そんなこと言ってる。座り込んで動かない……』
『分かった。すぐ着く』
画面を切り、隣の美咲を見る。
「まだいるらしい。座ってるってさ」
ここから100メートルもない。
彩葉の住むマンションの位置が、記憶の地図に浮かぶ。
「……疲れたわ」
無表情に疲れを滲ませて、美咲が静かに呟いた。
「ここで一息つけるのは価値がある。だから、邪魔者は、消すしかない」
喉が勝手に鳴る。
俺は否定しない。理解している。
「どう、やる?」
それでも言葉が詰まり、絞り出した一言。
沈黙の間に、美咲の声が落ちる。
「アンタ、殺せるの?」
心臓が縮む。
即答できない。
「……アタシが殺す。あんたは囮」
短く言い切る。揺らぎは一切ない。
俺の弱さを見抜いているからこその役割分担だった。
「詳細はマンションを見てからね」
そう言って、美咲は立ち上がった。
彼女に迷いはない。
俺も腰を上げ、槍を握り直した。
マンションは10階建ての新しい造り。
外壁はまだ白く、街灯を受けて鈍く光る。
階段は手前と奥、二つ。彩葉の部屋は3階。
敷地に入ると、植え込みの影にしゃがみ、気配を殺した。
スマホで彩葉にメッセージを送る。
『着いた。男は?』
返答はすぐに来た。
『座ってる』
『合図したら、男に話しかけてくれ』
『了解っす』
短い文章に震えが滲んでいる気がした。
美咲が俺に囁く。
「男が立ち上がって彩葉の部屋を見たら動く。アンタが声をかける。その瞬間、背中からアタシが刺す。理解した?」
「……分かった」
追い払うのではない。殺すのだ。
公園で、もう話はついていた。
追い払えば、武器を持って戻ってくる。
そのとき、俺たちが部屋にいれば対処が難しい。
──だから、殺す。
リスクとメリットを天秤にかけた、ただそれだけの結論。
殺すべき、と美咲は言い切った。
俺も殺すべきだ、と言った。
「殺すべき」で動けるのが美咲で、迷ってしまったのが俺だ。
だから、囮になるしかなかった。
一階で分かれ、俺は手前から、美咲は奥の階段から。
足音を消すように、一段一段を踏みしめる。
2階の踊り場で、ハンドサインを交わす。
美咲が中指を立てている。
僅かに頷き、彩葉にメッセージを送った。
『やるっす』
胸の奥が痛む。吐き気に似た感覚。
スムーズに状況が進んでいく。
流れ作業のように気づけばその時が来ていた。
3階の廊下、男が立ち上がった。
影が伸び、彩葉の部屋のドアに近づいていく。
「……」
聞き取れないが、何か言っている。
声までは届かない。
だが、狂気と執着の色は伝わる。
──やるしかない
これでいいのか、殺さずに済ませる方法はないのか。
そういう逡巡も、相談もなく、する暇もなく、やるべきだからやるでここまで来てしまった。
迷いってのは、贅沢なんだな。
震える膝に力を込めて身を起こす。
──もう、止まれない。
盾を前に構え、穂先を見せぬように身体を滑らせた。
踊り場から廊下に出る。
肺が焼けつくように熱い。
「おい、何してる?」
声はどこまでも硬く、自分の声とは思えない。
男が驚いたようにこちらに振り向いた。
その瞬間──美咲が背後の踊り場から静かに滑り出した。




