いくら警戒しても死ぬときは死ぬと俺は理解した。
池袋と大塚の間、山手線の線路上を結ぶ細い橋を渡っていく。
遠くにはスカイツリーが見える。
綺麗にライトアップされている。
平和な光景、だが、俺たちの歩く地面に平和はない。
橋の上、夜風が頬を撫でている。
眼下には、緑色ラインの電車が停まっていた。
電気は通っている。車内は明るい。
各車両に数名ずつばらばらと人影が見えた。
最初は動かないのかと思ったが、ガラスを叩く音が響く。
白い手が窓に張り付き、内側から連打している。
それが人間か、ゾンビか。俺には分からない。
助けられる距離でもなければ、助ける術もない。
ただ、無機質に叩かれる窓ガラスだけが、「まだ生きてるかもしれない者たち」の存在を俺に突きつけてきていた。
振り返らず、俺たちは橋を渡り切った。
角を覗き込んだ美咲が、肩で息をして振り向く。
運動で疲れているわけではない。
張り詰めた空気の中で、肺の奥まで酸素が届かなくなっているのだ。
「大通りと山手線を抜けたわね。あとは明治通りを越えれば北池袋」
低く小声で告げ、握りを確かめるように槍を握り直す。
わずかに震える指先。だが、眼差しは鋭く、揺らぎはない。
俺も息を吐き、背を正す。
緊張に押し潰されそうだが、立ち止まれば余計に崩れる。
明治通りの向こう側、脇道の先の正面に神社があった。
鳥居が闇に浮かび、街の光から切り離されたように見える。
「……あの神社に潜り込むわ。まずは細道から明治通りに近づいて、偵察しましょう」
鳥居を指さし、美咲は歩き出す。
俺は盾を握り、背後を確認しながら従う。
わき道を抜ける。
明治通りを覗いた。
車列が途切れなく続いている。
川越街道と同じだ。
所々で車がゾンビに囲まれ、車体を叩かれ揺れていた。
反対側から三人組が横断を始めるのが目に入った。
「しゃがめ」
美咲の手が素早く下がる。
俺は身を低くして、盾を膝に寄せた。
近づいてくるのは家族だ。
父親が段ボールを抱え、母親は小学生ほどの子供の手を引いている。
もう片方の手にはキャリーバッグ。
ぎこちない足取り。それでも必死に歩みを進めていた。
彼らは俺たちに気づいていない。
だが、すぐに正面から鉢合わせる軌道だ。
そう判断したか、美咲がすっと立ち上がる。
父親の目がこちらを捉え、わずかに見開かれた。
だが、次の瞬間には目を逸らし、壁際に寄って歩き続ける。
俺も美咲の側に立ち、盾を持ち直した。
母親が子供の頭を抱き込むようにして、低く囁く。
「見ちゃダメよ……」
父親は、俺たちを見つめ続けていた。
威嚇するように、警戒するように。
彼の段ボールを抱えた腕に力がこもり、肩がこわばっている。
妻子を呼ぶ声が震えていた。
「……行くぞ」
家族は壁沿いをすり抜け、俺たちの来た方向へ消えていった。
──消えていくと思った。
緊張の糸が切れかけた、その刹那。
──バリン。
頭上でガラスの砕ける音。続いてドサッという鈍い衝撃。
「きゃああっ!」
母親の悲鳴。
振り向いた先、子供が見知らぬ男に腕を掴まれていた。
二階の窓から落ちてきたのだ。
キャリーバックの音に寄ってきた?
ダンボールの落ちる音、父親の怒声が響き渡る。
母親が子供の手を必死に引き戻そうと叫んでいる。
「……煩い。逃げるわよ!」
美咲の鋭い声。
俺の手を引くようにして、明治通りへ飛び出した。
左右を素早く確認し、車列の合間を駆け抜ける。
数体のゾンビがこちらに気づき、頭を振りながら走り出す。
詳しく見ている余裕などない。
神社に通じる脇道に飛び込み、背を壁に押し付ける。
荒い息を押し殺し、鼓動の音だけが鳴り続けていた。
振り返れば、まだ路地から悲鳴が響いている。
そこへ、車を叩いていたゾンビたちが次々と流れ込んでいく。
人の声が餌を呼んでいる。
美咲がその様を見て、俺に視線を寄越す。
首を振った。
俺は頷き、彼女の肩を優しく叩いた。
暗がりに浮かぶ朱色の門。
足早にそこをくぐり、俺たちは境内へと逃げ込んだ。
背後では、まだ子供の悲鳴と母親の絶叫が、夜空に響き続けていた。




