俺はゾンビが存在する世界でドアノブに手をかけた。
「パソコン、貸しなさい!」
そう言って、美咲はクローゼットからジャージとTシャツを引っ張り出し、ノートPCを立ち上げる。
「アンタはスマホ。関連情報を洗って。真偽と実態を」
命令口調。
けれど、それでこそ美咲だ。
あの動画はなんだ・・・という興味のまま指を動かそうとした。
ふと、胸を締め付けるような不安がよぎる。
あれ、エロサイトを見て、そのままスリープしてなかったか?
冷や汗。
サッと視線を向けた先、美咲の立ち上げた画面はホーム画面だった。
──セーフ
ほっと息を吐いて、検索窓に指を走らせる。
まずはSNSだ。
映像の断片が次々と流れてくる。
渋谷の路地。誰かが悲鳴をあげ、群衆が散る。
複数のアングルで同じ場面が映っている。
立っている男の腹部から、ヒモのようなものが垂れ下がっていた。
・・・内臓?いや、ベルトにしては太いし、血に濡れていた。
警察が駆けつけ、取り押さえられている写真もあった。
返信欄を追う。
「薬物中毒らしい」
「精神病だって」
「内臓はコスプレ小道具だろ」
・・・真偽不明のコメントが洪水のように流れてくる。
眉を寄せながら情報をまとめていく。
「複数の角度で撮られてる。捏造じゃなさそうだ。錯乱ってニュースもある」
本当っぽい。
だが、何なのかは分からない。
世の中には、意味不明な暴れ方をする奴なんて沢山いる。
駅前で怒鳴り散らす酔っ払いも、電車で急にキレる男も見てきた。
日本は広い。
変な奴はいる。
でも。
あの内臓みたいなものは・・・なんだ?
結論の出ぬまま、美咲に話しかける。
「動画は本物っぽいぞ」
こちらを向く美咲にスマホを見せる。
「複数の角度で撮られてて整合性もあるし、犯人は捕まっている。ニュースもあった。《錯乱の可能性》だって。……あれは、ベルトでも垂れてたのかなぁ?内臓は無理だろ」
「動画を拡大してみたけど、あれは大腸ね。腹腔が裂けている。痛みで呻くことしかできない重症のはず」
一拍置いて、冷ややかに断じた。
「走るなんて絶対無理。それに、あの出血量は致命傷レベル」
心臓が跳ねる。
「でも、走ってたぞ」
「だから異常なの」
美咲の声が部屋に冷たく響いた。
「あり得ないことが起きている」
「つまり──死にかけでも動ける人間がいる。もしくは、死んでも動く人間がいる」
──死んでも動く人間
俺はそれを知っている。
ほら、何度も人類を滅ぼしてきた、《アレ》だ。
「それって……ゾンビじゃん」
口から勝手に零れていた。
真顔で頷く美咲。
ためらいもなく、論理の延長として。
ゾンビ?あのゾンビだって。
あり得ないだろ。物理的にも、生物学的にも考えられない。
仮にゾンビがいると認めたとしよう。
流石に人類は滅ばないよな?
──本能のままに動くだけの素手相手だぞ?
と頭の中でゾンビの愚かさについて検討していると、美咲がPC画面をこちらに向けてきた。
「見なさい」
モニターには雑多な情報が並んでいた。
・暴徒が増えているとする複数言語の海外記事
・感染症専門医ブログ 世界的暴徒の広がり方と感染経路を考察
・WHO声明──《感染性は不明、世界的に治安の懸念》
さらに、美咲は数字を差し出してきた。
「昨日から動画サイトに国内の《暴力事件》動画が急増してる。過去1ヶ月で500件。過去1週間で380件。そして昨日1日だけで──350件!」
言葉を失う俺。
「襲い方は似てる。タックルして人を倒す。男も女も。大体その場で揉み合いになって取り押さえられてる」
「でも、犯人が死んでいたという情報はない。WHOは病気だと声明している。だから多分、生きている」
結論が静かに落ちてきた。
「つまり、生きていると思われる凶暴な《人間》が、世界中で増えている」
「そして、この暴力は、感染する可能性がある。感染症の医師がブログに乗せていたわ。世界的に同様の発症があること、その拡大が航空網で説明できると考察していた。読む限り、そのロジックを否定できない」
・・・もう冗談では済ませられそうになかった。
「これはデマ……じゃないな。真剣に調べれば、情報は山ほどある」
「でもさ、警察が捕まえてるんだ。映画みたいに世界が崩壊するなんて……ならないだろ?」
答えを期待して、美咲を見る。
彼女は何も言わなかった。
無言の横顔。その沈黙が、今はどんな言葉より恐ろしい。
「……美咲?」
やっと返ってきた声は、低く固かった。
「どうでしょうね」
美咲の目がPCを向く。
「警察がコントロールできるなら、それで終わり。できるかどうかは……分からないわね」
胸の奥で冷たいものが落ちる感覚があった。
美咲が顔を上げる。
難しい表情で、はっきり告げる。
「コントロールできなくなる可能性があると考えて、準備した上で様子を見る。不確実なら悪い目に備える。それが原則よ」
営業ではヤバいと感じたら悲観的に対応・・・いつも美咲に言われていることだ。
「今日は金曜日だから明日も明後日も休みよね。この際……」
一呼吸置いて、美咲が微笑みかけてくる。
「アンタの家に引きこもりましょ!」
彼女の目がキッチンへ向く。
「……って、食材ないんだったわね」
冷蔵庫を開け、呆れた声が響く。
「なーんにもない」
俺も棚を漁るが、出てきたのは、カップ麺と缶ビールが数個。
「これじゃ、明日の昼までね」
俺は顔を逸らすしかない。
ゾンビなんて予定外だ。
「米はある。飢え死にはしないさ」
「夏よ。水が要る」
美咲は即座に切り返す。
「停電すればエアコンが止まる。窓を開けられなければ熱中症。水が尽きればおしまいよ!」
蒸し風呂になった部屋で「あぢー」という自分を思い浮かべる。
言葉を失った。
その光景に不快を通り越して、《死》すら感じたから。
美咲が結論を下す。
「日曜までは引きこもって全力警戒!これから、水と食料、使えそうなものを買っておきましょ!」
「コンビニなら近いけど……外に出るのは危険じゃないか?」
「危険よ。でも、水も食料も無しでは生きられない……。リスクを取りましょう」
美咲はお風呂場からタオルを、クローゼットからガムテープを取り出してきた。
手早く左前腕にタオルを巻き、ガムテープでぐるぐるに固定する。
その上から冬用コートを羽織る。
「万一の時は左腕を噛ませる。噛まれていない方がそいつを突き飛ばして全力で逃げる・・・今、思いつくのはこれくらいね」
俺は思わず息を呑んだ。
彼女はすでに戦闘のイメージを現実に落としている。
「リスクはゼロにできない。だから、取る」
美咲の声は鋭く、しかし揺るぎなかった。
ドアの外が怖い。つい数時間前帰宅したときまで外にいたのに。
今は怖い。
左腕を噛ませる?噛まれていない方がソイツを突き飛ばして逃げる?
本気か。言葉は分かるが、イメージができない。
「出る前に方針を決めておきましょう」
「無警戒で歩いたら、死にに行くようなもの」
その言葉に、俺は自然と背筋を伸ばしていた。
「警戒するの。それがアタシたちにできる最大の防御」
「出会えばきっと死ぬ。だから、先に見つける。変な動きをしている人、走って近づく人。人に見えてもできる限り近寄らない」
頭に叩き込むように、一つずつ指を折る。
「遠くで見つけたら、すぐに引き返す。家に引きこもる」
俺は頷いた。
「……玄関ドアは破れないよな?」
「ええ。素手の暴徒程度なら。だから室内にいれば安心できる」
美咲は窓の外をちらりと見た。
「2階だから、ベランダから入られることもない。数日は大丈夫」
少し呼吸が楽になった気がした。
「警戒して、何かあれば引き返す」
声に出して確認する俺。美咲が頷く。
あれ、こういう時手にするものがない。
「美咲、武器は?」
「考えたわよ。包丁でもバットでも。でも無理」
「銃刀法違反で捕まるわ。コンビニに行くために交番の前を通る。職質されたらそれで終わり」
「だから武器は持てない。防御だけ。戦わずに済ませるしかないのよ」
いや、それは縛りプレイすぎるだろ・・・。
「じゃあ、もしも、出会ってしまったらどうするんだ?」
美咲は即答する。
「先に見つけて逃げるの。それが唯一の選択肢……」
「逃げられなかったら?」
「さっきの作戦の通りやれば、《運が良ければ》生き延びられるでしょ」
──運が良ければ
勘弁してくれ。
「あのね、全力でタックルしてくる痛みを感じない男を想像してみて。きっとアタシは吹き飛ばされて、そのまま腕以外も噛まれて死ぬわ」
「・・・」
死ぬ?
美咲が?
いや、俺も死ぬのか。
あまりにも、現実感がない。
フワフワと浮いているような気分だ。
でも、左腕に固く巻かれたタオルとガムテープ。
夏に着るクソ熱い厚手のコートだけが現実だった。
締め付けと暑さが、否応なく現実を突きつけてくる。
「悟司、準備はいい?」
準備・・・その言葉に意識が研ぎ澄まされる。
一つだけ確かなことがある。
最悪でも美咲は守る。
それだけで身体に芯が通った気がした。
「あぁ、行こう。先頭は?」
「アタシよ」
「ドアは俺が開ける」
美咲を押しのけ、ドアスコープを覗き、鍵を開ける。
振り返り、美咲が頷くのを確認し、俺はドアノブに手をかけた。