プロローグ2──奴らは俺たちから甘い夜を奪っていった。
※ドアを開く6時間前。
【6月20日(金曜日)19:47】
──ブルブル
寝落ちしたまま握り締めたスマホが震えて、俺は目を覚ました。
──メッセージ1件。
19時47分。
美咲:今からアンタんち行くから!
寝ぼけながら「了解」と返し、そのあまりに一方的なメッセージに苦笑する。
アプリを落としたスマホの待ち受けには、スーツ姿で腕を組む彼女の写真。
アイツと付き合い始めたころに「写真ないか?」と言ったら、秒で送ってきた奴だ。
後輩の彩葉に撮らせたらしい。
ノリノリでポーズを決める二人の光景が目に浮かぶ。
「さてと……最低限片付けるか」
呟きつつ、ギシッと鳴る安物のシングルベッドから腰を上げた。
今日は金曜日。週末だからと油断して、スーツを脱ぎ、そのままベッドで寝ていたようだ。
床には散らばったジャケットとズボン。机の上には置きっぱなしのコンビニ弁当の空き容器とビールの空き缶。
男の一人暮らしなんてこんなもんだろう?
八畳一間のワンルーム。服をクローゼットに、ごみはゴミ箱に。仕上げに掃除機をかけ終えるまで10分も掛からなかった。
*
──ガチャ、ガチャ。
──ガチャリ。
玄関のドアが閉まる音、直ぐに居室のドアが開いた。
「ちょっと、カギくらい開けておきなさいよ!」
開口一番、響く強気な声。
合鍵を渡したはずだが、と思いつつ、視線を向ける。
仕事帰りの美人がそこにいた。
しっかりと身体にフィットしたジャケットには女性らしいライン。
すらりと伸びる脚はタイトスカートに包まれ、一分の隙も無い。
セミロングの髪は緩やかに巻かれ、柔らかく波打つ。
頬にかかる一房が、彼女の勝ち気な美貌に柔らかさを添えていた。
美人、美女という言葉が似合う高嶺の花。
そして、何の因果か、俺の彼女様だ。
「へいへい。残業お疲れ様。エース営業も大変だな」
視線の先、ニヤリと笑う美咲。
ん・・・何か袋を提げている?
「契約取って来たわよ! これで三半期連続トップは確実ね! お祝いのケーキ買って来たわ」
「スゲェな」と思わず拍手する。
ふふんと鼻を鳴らしながら、彼女は当然のように冷蔵庫を開け、ケーキを仕舞った。
「で、ご飯は?」
「……帰って寝てたから食べてないな」
「食材使うわね?……って、何もないじゃない!」
冷蔵庫のドアが勢いよく閉まり、呆れた目線が突き刺さる。だが、すぐにため息を落とし、中をもう一度覗き込む。
「卵と玉ねぎ。あとウインナー? 最低ラインね」
手早くジャケットをクローゼットに仕舞い、台所に立つブラウス姿の美咲が、エプロンもせずに卵を割り始める。
──まるで家主だな
そう思って、俺はまた苦笑した。
*
山盛りチャーハンが、ローテーブルにドンッと置かれる。
「ふかーく感謝してから食べること! いただきましょ」
「あぁ、作ってくれてありがとな。いただきます」
俺の部屋で男顔負けの勢いでチャーハンを食べる美咲を見ていると、ふとあの記憶がよみがえってきた。
──あの日、あの事件
美咲と拉致され、紆余曲折ありつつも力を合わせて、逃げ出したあの一件。
もしあれがなければ、今も俺にとって、美咲はただの憧れの《同期》だったはずだ。
──絶対に秘密
そう誓わされた。
だから、誰にも言わない、あのことは。
俺は彼女の弱さを知り、その奥にある輝きを知った。
そして、美咲は「アンタはやるときはやる男」と俺を評してくれた。
それが、きっかけ。
そして今、目の前でチャーハンを頬張る《美咲》がいる。
「何、じっと見てるのよ?」
美咲が手の止まった俺を見て小首をかしげる。いや、と首を振りつつ、その想いは言葉になる。
「お前が彼女なんてな。今でも信じられんよ」
笑うか、顔を顰めるか。彼女が迷っている。嬉しいけど不満。そういうことらしい。
スプーンを置いて、肩から力を抜いた美咲が言う。
「完璧ってのは疲れるものよ。気が抜けないから。そして、いつしか気を抜ける場所が無くなっていくの」
「そりゃ、あたしは才能あふれた美人よ? でもね、完璧ではないの」
「だから、アンタがそこにいる。その自覚を持って、もっと精進しなさい」
「もちろんだ」と答えつつも、その意味が俺にはまだしっかりとはわからない。
アンタはアタシを分かってる。
言い方は違えど、美咲はなにかにつけてそう言う。抽象的で掴みどころはないが、何となくなら分かっているつもりだ。
だからと言って、コイツの隣に立つのは簡単ではないんだけどな!
「その意気はいいけどさ。アンタ今期何位よ?」
「ん……3位だぞ」
「3位だぞ?じゃないわよ。早く2位に上がってきなさいよ、アタシが1位なのはいいとして、2位までは上がれるでしょ?」
こんな感じでエース営業様からコツコツ叱責を賜り、俺の営業成績は付き合い始めてから──ここ2年で急上昇していた。
(──最初は中間くらいを行き来していたんだぞ!?)
と、そんな恥ずかしいことは言えない。
「黒沢が2位だ。あいつも天才系だ。凡人枠なら俺はもうトップと言っていいんじゃないか?」
「言い訳せずに、上を目指す!」
このストイックさがコイツの完璧さを作っているのなら、隣に立つ俺もそれなりにならなければならない。
・・・まぁ、頑張るしかないわな。
「へいへい」
俺の返答にムーッと膨れていた美咲が萎んだ。
「ま、いいわ。悟司、ケーキ食べましょ」
切替も素早く美咲が冷蔵庫からケーキの箱を持ってくる。
ケーキ屋さんのケーキだ。しかも、3つある!
「アタシは2つ。アンタは1つ。文句ある?」
「ありませんとも」
チョコケーキと赤いイチゴの乗ったショートケーキが2つ。
俺はショートケーキを手に取った。
美咲に差し出されたフォークを受け取り、ケーキを一口。
どこで買って来たかは知らんが、甘くてとろけるように美味しい。
一瞬で食べ終えた俺はやることもなく、「んっ~!」とケーキを交互に食べながら顔を溶かす美咲を眺めていた。
フォークを止めた美咲がケーキを見ながら呟く。
「凡人は天才に勝てない──みんなそう思い込んでる。でも、実際は数と粘り。天才は気まぐれだけど、凡人は積み上げられる。その差で勝てるの」
その一言は・・・。
きっと、今の俺が最も必要とする一言。
「その芯を突く能力はどうやったら身につくんだ?数と粘りで届くとは思えんぞ」
「アンタにもできるわよ。才能はあるもの」
──才能?
そんなもの、俺にあったか? はてなを浮かべた俺を面白そうに見つめてヒントをくれる。
「相手の気持ちを理解する。それを素直に受け止める。それは才能よ。根っこが掴めるから、一番効く言葉が浮かんでくる」
頭の中に、美咲に首根っこを掴まれて、押さえつけられる俺が浮かぶ。
なるほど。心臓をズサズサと刺されるわけだ。
「……少し分かった気がする」
そういう俺をジト目で笑って、美咲は残りのケーキを口に運んだのだった。
*
ケーキを食べ終え、満足げな美咲。
お茶を一口飲み、どこか試すように俺を見つめてきた。
「ねぇ、悟司。金曜日の夜に美人の彼女がケーキを買ってきてくれたのよ。何か言うことないの?」
「……あっ」
「ほら、何?」
「ありがと」
あれ、ミスったか。
「……はぁ。あなた、今、とても大きなものを逃したわ」
「・・・?」
ジトッとした視線が突き刺さる。少しご機嫌斜めだ。
俺の視線を確認して、美咲はさりげなく胸を寄せた。
──あ。
そういうことか。
自分の鈍さが恨めしい。
「……なぁ、美咲、今夜、いいか?」
「致命的に遅い!……まだ場数が足りないようね」
挑むような言葉とわずかに浮かぶ口元の笑み。叱責と甘さが混じった声に、胸が高鳴っていく。
「じゃ、先にシャワー入ってきて。アタシは後から入るから」
*
窓の外、車が走る音が小さく響く。それ以外にこの部屋を満たす音はない。
美咲は俺の胸に頭を乗せている。濡れた髪が肩口にかかり、甘い匂いが漂っていた。
呼吸はもう整っている。
けれど、その体温はまだ消えずに残っていた。
甘えるように美咲が、頭を擦りつけてくる。
──あぁ、もうこのまま寝ちゃお
そう、思った時だった。
──ブルブル
震えるスマホ。
だらんとした美咲をゆっくりと脇に寝転がして、スマホに手を伸ばす。
画面が光る。
──メッセージ1件。
23時53分
彩葉:先輩、これやばくないっすか!?
SNSのリンクが続く。
タップして開いた。
『渋谷、20時。人間ってこんなんで動けるの?』
動画付きだ。再生する。
*
大通り沿いの雑居ビルと脇道が映った。
脇道の中央にひとりの男性が立っている。
腹部から、ヒモのように内臓がだらりと零れ落ちていた。
血塗れだ。
そいつは歩いていた。
遠巻きに見つめる何人かの人。スマホを構える手が震えているのか画面が揺れる。
誰かの悲鳴が響いた。
そいつは、声の方向を見る。
歩いていたはずが、早足になる。
そして、走り出す。
揺れる画面。
悲鳴。
──暗転
*
心臓が一拍、乱暴に脈打った。
全身に鳥肌が広がるザワザワした感覚。
まるで、背中に鋭い刃物がズッと一ミリ食い込んだよう。
ただの映像だと頭では分かっているのに、体が勝手に反応した。
胸を押さえ、ふぅふぅと息を吸う。
背中に寄り添う美咲の気配。
咄嗟に、肩越しに美咲の顔を見る。
スマホ画面の明かりに照らされた青白い美咲。その目は大きく見開かれていた。揺れる瞳。こんな呆然とした美咲の表情、初めて見た。
だが、その揺れは一瞬だけのことだった。
直ぐに焦点が合い、目が細くなる。
「今すぐ調べるわよ!」
その語気の鋭さに、俺は無言で頷いた。
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