プロポーズより先にふたりで誓いのキスをした。
淡い橙の光が湯気に溶け、狭い空間を柔らかく包んでいた。
浴槽に浸かった俺にもたれ掛かる美咲。
美咲の濡れた髪が俺の胸元に貼り付いている。
湯に身体を沈めると、熱が疲労を溶かしていく。
──これが最後の日常になる
俺も、美咲も分かっていた。
長い沈黙のあと、美咲が言った。
「もしアンタが噛まれたら、アタシが殺してあげる」
柔らかな蒸気の中、言葉すらも慈悲の刃のように優しかった。
俺は答える。
「……ありがとう、美咲。でも、死なないさ」
美咲が動き、波紋が水面に広がった。
「……ふたりで生きることが、こんなに難しくなるなんてね」
美咲が小さく笑った。けれど声は、真剣だった。
「生き残るわよ」
「あぁ、約束だ」
首だけで振り返った美咲と頷き合い、互いに顔を寄せる。
水滴が頬を伝い、唇が触れた。
短く、強く。
それは、プロポーズよりも先に交わした、誓いのキスだった。
*
まだ外の日差しは強い。
遅い昼食を済ませた俺たちは並んでベッドに横になった。
冷房の風が静かに回り、遠くにはかすかなサイレン。
その音も次第に遠ざかる。
静まり返った街の中、隣から美咲の寝息が聞こえてきた。
その手を握り締め、俺もすぐに、眠りに落ちた。
*
ブーブー。
スマホが震え、目が覚める。
画面には18時12分の文字。
浮かぶ名前は──彩葉。
通話だ。
耳に当てた瞬間、お調子者の甲高い声が飛び込んできた。
「……せ、先輩!? やっばいっす!! ドアの前にアイツいるんすよ! ピンポン鳴らして、ドンドン叩いて! マジで心臓飛び出そうっす!!!」
「警察……電話したんすけど、全然繋がんない! マジでなんなんすかこれ!? ドッキリとかじゃないっすよね!? ……いやいや、笑えねぇ……!」
「……これ、マジでレイプされる奴っす……! やだ……やだよ……!」
「お願い先輩! 助けてくださいっす!! ……先輩しか、頼れないんすよ……!」
「……聞こえてます!? 先輩!? ちょ、聞こえてるって言って!」
息継ぎもせずまくし立て、半ば笑いそうな勢いすらあるのに、言葉の端々には震えが滲んでいた。
寝起きだと言うのに握ったスマホが汗で滑る。
心臓が早鐘を打ち始めた。
無論、声は届いている。
だが、どう返せばいい。
「部屋の前に男がいる、で、そいつがお前を狙っている? 彩葉、今、どこにいるんだ?」
「今まさに家っすよ! 北池袋のマンション! 先輩、護国寺でしょ!? ここ直ぐっしょ!? マジで頼れるの先輩っしかないんすよ!!!」
早口で一気にまくしたてる声に、胸が締めつけられる。
約束はできなかった。
「……方法を考えてみる。少し我慢してくれ」
一瞬の沈黙。
「……信じてるっすよ!!!」
続けざまに、軽口のような声が飛ぶ。
「もし来なかったら……恨んで化けて出るっすからね! ぜっっったい枕元に立ってやりますから!」
半笑いの強がり。
──ぷつり
《恨んで化けて出るっすからね!》
耳に残った笑い混じりの声。俺にはしっかりと泣き声に聞こえた。
脳裏に浮かぶのは美咲の写真を撮った後、彩葉から送られてきた謎の写真。
美咲が撮ったと後から教えてもらった。
何故送られてきたのかは分からない。
新入社員の彩葉の教育係が俺だった。
この陽気さとマシンガンのように生まれるお調子のいい発想力を見込んで、企画部を進めたが、今や企画部でも一角の成果を上げているらしい。
その縁で先輩先輩と慕われているわけだが・・・。
その彩葉が男にレイプされそうだ、助けてくれと俺に言う。
無論、助けに行きたい。
しかし・・・と眠る美咲を見る。
ふたりで生き残ると約束した。
それ以外は全て後回し。
その意味が、今、俺の上に重い現実としてのしかかってきていた。
明日以降、当面は毎日更新の予定です(*´ω`*)




