プロローグ ゾンビは俺たちから《甘い夜》を奪っていった。
──《はじめに 斉城ユヅル》──
本作は現実の日本に本当にゾンビが出現したと仮定して、生存の《最善手》を打ち続けるというテーマで執筆しています。
人間の頭蓋骨の耐久性や自宅にある武器、対人戦、対ゾンビ戦、警察と病院、政府の対応速度等を検討し、フィクションよりも、リアルさを追求しました。
自分ならああする、こうすると考えながら読んでいただければ幸いです。
なお、本作は、東京、護国寺の1Rマンションの一室にて、主人公とヒロインの日常パートから始まりますが、プロローグの終わりにはゾンビが出て来ますのでご安心ください(`・ω・´)ゞ
それでは、《愛屍の臨界》をお楽しみください!
【6月20日(金曜日)19:47】
──ブルブル
震えるスマホに、俺は目を覚ます。
──メッセージ1件。
19時47分。
美咲:今からアンタんち行くから!
都合を聞かないこのやり取りにも、もう慣れた。
「了解」と返す。
待ち受けには、スーツ姿で腕を組む美咲の写真。
アイツと付き合い始めたころに「写真ないか?」と言ったら、秒で送ってきた。
後輩の彩葉に撮らせたらしい。
ノリノリでポーズを決める二人の光景が目に浮かぶ。
「さてと……最低限片付けるか」
呟きつつ、ベッドから腰を上げる。
今日は金曜日。
週末だからと油断して、スーツを脱ぎ、そのままベッドで寝ていたようだ。
散らばったジャケットとズボンを拾い上げ、クローゼットに仕舞う。
机の上に置きっぱなしのコンビニ袋とビールの空き缶をまとめてゴミ箱へ。
今週溜めたゴミを排除するのに10分もかからなかった。
なんせ、8畳一間のワンルームだ。
仕上げに掃除機をかければやることもない。
スマホを見る。
待ち受け画像の上、時刻は《20時》を回ろうとしていた。
*
──ガチャ、ガチャ。
乱暴にドアを引っ張る音。
俺は動かない。
──ガチャリ。
美咲には合鍵を渡している。
玄関のドアが閉まり、直ぐに居室のドアが開く。
「カギくらい開けておきなさいよ!」
開口一番、響く強気な声。
合鍵の存在意義とは・・・
と思いつつ、視線を向ける。
仕事帰りのスーツ姿。
会社では見慣れた美人。
だが、俺の家にいるとまた違って見える。
しっかりと身体にフィットしたジャケット。
女性らしいラインが浮ぶ。
すらりと伸びる脚はタイトスカートに包まれ、一分の隙も無い。
セミロングの髪は緩やかに巻かれ、柔らかく波打つ。
頬にかかる一房が、彼女の勝ち気な美貌に柔らかさを添えていた。
美人、美女という言葉が似合う高嶺の花。
そして、何の因果か、俺の彼女だ。
「へいへい。残業お疲れ様。エース営業も大変だな」
俺は肩をすくめてそう言った。
視線の先、ニヤリと笑う美咲。
ん・・・何か袋を提げている。
「契約取って来たわ。これで三半期連続トップは確実ね!お祝いのケーキ買って来たわよ」
あの案件、まとめてきたのか。
思わず無心で拍手していた。
「スゲェな、ほんと」
ふふんと鼻を鳴らしながら、彼女は当然のように冷蔵庫を開け、ケーキを仕舞う。
「で、ご飯は?」
「……帰って寝てたから食べてないな」
「食材使うわね?……って、何もないじゃない!」
冷蔵庫のドアが勢いよく閉まり、呆れた目線が突き刺さる。
だが、すぐにため息を落とし、中をもう一度覗き込む。
「卵と玉ねぎ。あとウインナー? 最低ラインね」
美咲が手早くジャケットをクローゼットに仕舞う。
台所に立つブラウス姿の美咲が、エプロンもせずに卵を割り始める。
──まるで家主だな
そう思いながら、苦笑した。
*
ローテーブルに座る俺の前に、山盛りチャーハンがドンッと置かれる。
「ふかーく感謝してから食べること! いただきましょ」
「あぁ、作ってくれてありがとな。いただきます」
二人でスプーンを動かす。
美咲は男顔負けの勢いで食べるのに、スタイルは崩れない。
運動量の差か、代謝の差か。
少したるんだ自分の腹を意識し、そっと背筋を伸ばした。
モリモリ食べても下品にならないのは、彼女が日頃から気を配っているから。
「会食があるから色々練習してるの!」
以前、そんなことを言っていた。
ふと、記憶がよみがえる。
──あの日、あの事件。
二人で拉致され、力を合わせて、逃げ出したあの一件。
もしあれがなければ、今も俺にとって、美咲はただの憧れの《同期》だったはずだ。
──絶対に秘密よ。
そう彼女に誓わされた。
だから、誰にも言わない、あのことは。
俺は彼女の弱さを知り、その奥にある輝きを知った。
そして、美咲は・・・
「アンタはやるときはやる男」
そう、俺を評してくれた。
それがきっかけ。
そして今、目の前でチャーハンを頬張る《美咲》がいる。
「何、じっと見てるのよ?」
美咲が手の止まった俺を見て小首をかしげる。
いや、と首を振りつつ、その想いは言葉になる。
「お前が彼女なんてな。今でも信じられんよ」
笑うか、顔を顰めるか。彼女が迷っている。
嬉しいけど不満。そういうことらしい。
肩を軽く落として美咲が言う。
珍しく素直な声だった。
「完璧ってのは疲れるものよ。気が抜けないから。そして、いつしか気を抜ける場所が無くなっていくの」
「そりゃ、あたしは才能あふれた美人よ?でもね、完璧ではないの」
「だから、アンタがそこにいる。その自覚を持って、もっと精進しなさい」
その言葉の意味、俺には分かる。
「もちろんだ」
アンタはアタシを分かってる。
言い方は違えど、美咲はなにかにつけてそう言う。
抽象的で掴みどころはないが、何となく分かる。
だからと言って、コイツの隣に立つのは簡単ではないんだけどな!
「その意気はいいけどさ。アンタ今期何位よ?」
「ん……3位だぞ」
「3位だぞ?じゃないわよ。早く2位に上がってきなさいよ、アタシが1位なのはいいとして、2位までは上がれるでしょ?」
こんな感じでエース営業様からコツコツ叱責を賜り、俺の営業成績は付き合い始めてから──ここ《2年》で急上昇していた。
(──最初は中間くらいを行き来していたんだぞ!?)
そんなことは言えない。
「黒沢が2位だ。あいつも天才系だ。凡人枠なら俺はもうトップと言っていいんじゃないか?」
「言い訳せずに、上を目指す!」
このストイックさがコイツの完璧さを作っているなら、隣に立つ俺もそれなりにならなければならない。
まぁ、頑張るしかないわな。
「へいへい」
声に覇気がないのくらいは、許して欲しいところだ。
俺の返答にムーッと膨れていた美咲が萎んだ。
「ま、いいわ。悟司、ケーキ食べましょ」
チャーハンを食べ終えたら即ケーキ。
切替も素早く美咲が冷蔵庫からケーキの箱を持ってくる。
ケーキ屋さんのケーキだ。
しかも、3つある。
「アタシは2つ。アンタは1つ。文句ある?」
「ありませんとも」
どこで買って来たかは知らんが、甘くてとろけるように美味しかった。
「んっ~!」と顔を溶かす美咲を見る。
コイツは甘党だ。だが、外ではそれを見せたくないという。
そういうわけで、デートで甘味処に行くことはなく、もっぱら家で食べている。
食べ終えた俺はやることもなく、美咲を眺めていた。
ふとフォークを止めた美咲がケーキを見ながら呟く。
「凡人は天才に勝てない──みんなそう思い込んでる。でも、実際は数と粘り。天才は気まぐれだけど、凡人は積み上げられる。その差で勝てるの」
その一言は・・・。
きっと、今の俺が最も必要とする一言。
「その芯を突く能力はどうやったら身につくんだ?数と粘りで届くとは思えんぞ」
「アンタにもできるわよ。才能はあるもの」
──才能?
そんなもの、俺にあったか?
はてなを浮かべた俺を面白そうに見つめてヒントをくれる。
「相手の気持ちを理解する。それを素直に受け止める。それは才能よ。根っこが掴めるから、一番効く言葉が浮かんでくる」
頭の中に、美咲に首根っこを掴まれて、押さえつけられる俺が浮かぶ。
なるほど。心臓をズサッと刺されるわけだ。
「……少し分かった気がする」
そういう俺をジト目で笑って、美咲は残りのケーキを口に運んだのだった。
*
ケーキを食べ終える。
満足げな美咲。
お茶を一口飲み、試すように俺を見つめてきた。
「ねぇ、悟司。金曜日の夜に美人の彼女がケーキを買ってきてくれたのよ。何か言うことないの?」
「……あっ」
「ほら、何?」
「ありがと」
あれ、ミスったか。
「……はぁ。あなた、今、とても大きなものを逃したわ」
「・・・?」
ジトッとした視線が突き刺さる。
さっきから少しお怒りムード。
俺の視線を確認して、美咲はさりげなく胸を寄せるように腕を寄せた。
──あ。
そういうことか。
自分の鈍さが恨めしい。
「……なぁ、美咲、今夜、いいか?」
「致命的に遅い!……まだ数が足りないようね」
挑むような言葉とわずかに浮かぶ口元の笑み。
叱責と甘さが混じった声に、胸が高鳴っていく。
「じゃ、先にシャワー入ってきて。アタシは後から入るから」
*
窓の外、車が走る音が小さく響く。
今は・・・それ以外にこの部屋を満たす音はない。
美咲は俺の胸に頭を乗せている。
濡れた髪が肩口にかかり、甘い匂いが漂っていた。
呼吸はもう整っている。
けれど、その体温はまだ消えずに残っていた。
甘えるように美咲が、頭を擦りつけてくる。
──あぁ、もうこのまま寝ちゃお
そう思った時だった。
──ブルブル
震えるスマホ。
・・・こんな深夜に誰だよ。
だらんとした美咲をゆっくりと脇に寝転がして、スマホに手を伸ばす。
画面が光る。
眩しっ。
──メッセージ1件。
23時53分
彩葉:先輩、これやばくないっすか!?
SNSのリンク。
開いた。
『渋谷、20時。人間ってこんなんで動けるの?』
動画付きだ。再生する。
*
雑居ビルが映る。
大通りの脇道。
中央にひとりの人間が立っている。
──腹部から、ヒモのように内臓がだらりと零れ落ちていた。
血塗れだ。
それでも、そいつは歩いている。
遠巻きに見つめる何人かの人。
スマホを構える手が震えているのか画面が揺れる。
誰かの悲鳴が響いた。
そいつは、声の方向を見る。
歩いていたはずが、早足になる。
そして、走り出す。
揺れる画面。
悲鳴。
──暗転
*
心臓が一拍、ドンッと乱暴に脈打った。
全身に鳥肌が広がるザワザワした感覚。
まるで、背中に鋭い刃物が一ミリ食い込んだよう。
ただの映像だと頭では分かっているのに、体が勝手に反応した。
胸を押さえ、ふぅふぅと息を吸う。
全身が《これは異常だ》と叫んでいた。
背中に寄り添う美咲の気配。
咄嗟に、肩越しに美咲の顔を見る。
スマホ画面の明かりに照らされた美咲の目が、大きく見開かれていた。
瞳は揺れている。
呆然・・・。
こんな美咲の表情、初めて見た。
だが、その揺れは一拍だけ。
直ぐに焦点が合い、目が細くなる。
彼女の視線が俺に突き刺さる。
「今すぐ調べるわよ」
その声の鋭さに、俺は無言で頷いた。